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国連の不正

2005年01月14日 15時26分25秒 | 外交問題
イラク支援での不正疑惑があるということで、切込隊長氏が記事に書いておられます。このことについての報道は、真相に迫っているかは別として、読売新聞に記事がありました。以下に抜粋します。



1月12日付読売新聞朝刊

<国連ずさんな運営>過払い5億円超/価格操作
 独立調査委 内部報告書を公表

イラクの旧フセイン政権時代に国連が行った人道支援事業「石油・食糧交換プログラム」を巡る不正疑惑で、疑惑を調査している独立調査委員会(ボルカー委員長)は10日、国連の内部監査室がまとめていた調査報告書を公表した。報告書は、国連がこれまで公表を拒んでいたもので、同事業の管理運営面のずさんな実態を明らかにしている。

公表されたのは、1999年から2004年にかけての58件に関する報告。国連現地事務所が、イラクでの輸出検査を請け負った英ロイズ社系企業やスイスのコテクナ社に対し、実際には検査官がいないのに人員を水増しした支払いを認めた例もある。不正な支払額は、少なくとも総額500万ドルに上った。

人道支援物資の代金を多めに見積もる一方で、対価となるイラク産原油の価格を抑える操作を行い、これで生じた差益がフセイン政権幹部に渡った可能性もあると指摘した。国連本部もチェック機能を果たしていなかったと批判した。




以上のように報じられておりました。
国連と日本の関係については、さまざまな意見があると思いますし、日本の外交政策にも大きな影響があると思います。日本が国際社会の中で信頼を得て、経済的にも政治的にも重要な地位を占めることは、日本の安全保障の面でも大きなプラスになると考えます。その意味では国連の機能を活かせるような環境を作り出すことは、あながち誤りではないと思います。先のtsunami 被害の復興支援についても、国連の立場を考慮した日本の外交姿勢は評価できると思うのです。
(ここでも不正が繰り広げられる可能性はあるのですが。特にインドネシアは不正大国のようですから、温床になってしまうかもしれませんね)


外交政策において、日米関係を重視するという考え方は間違いではないと思いますが、重視であっても「一辺倒」が良いのではないと考えます。その意味においては、国連という「大義名分」を作り出す場を利用することは日本にとってプラスになると考えています。国連自体が聖人君子の集まりではないことは確かですし、国際社会において必ずしもフェアではない面があると思いますが、それを勘案したとしてもやはり国連という「寄り合い」で決着を図る方が、豪腕を持たない者にとっては有利であると思うのです。


以前の記事(『沈黙の艦隊』)に変な例え(適切かどうか分りません)を出してみましたが、超越した絶対的存在がないなら、「国連という場」が必要であると思っています。これは、国連が不正を働いたとしても、それを否定するものではないということです。また、不正は正すことが可能であるとも思うのです(奇麗事と非難されるかもしれませんが)。



クラスの主要メンバーになれなくとも、「スネ夫」になりきれれば何とか国際社会を泳いで行けるかもしれません。それを日本人自身が許容するならば、それでもしかたがないでしょう。しかし、「Team America」の一メンバーであることを真に望んでいる人が、それ程多く存在するとは思っていないのです。また、過去の歴史で、覇権を維持し続けた国は存在しなかったと思うし、いずれは権威・権力の低下が起こることは確実であると私は思っています。その時に、日本がしがみついていられる程、アメリカの国力があるかは不明であると思うのです。


日刊全国紙は減少する?

2005年01月14日 13時02分32秒 | 社会全般
1月12日付読売新聞朝刊に面白い記事が出ていました。以下に抜粋します。



<仏全国紙 部数減で大苦戦――ネット普及、無料紙台頭>

フランス日刊紙は軒並み販売部数を減らしている。パリ発刊の3有力紙は2004年、対前年度比で、ル・モンド(33万7千部)が4.2%、フィガロ(33万4千部)が1.7%、リベラシオン(15万部)が0.1%、いずれも減少した。1950年代に最高140万部の部数を誇ったフランス・ソワールは6万7千部まで低下した。

無料紙が新しい読者層を開拓し、「メトロ」紙55万5千部、「バン・ミニュット」紙75万部と部数を伸ばしているのと対照的だ。経済紙レゼコーから昨秋、フィガロ紙編集局長に転身したベイトゥ氏は「健闘しているのは読者を特化したスポーツ紙と経済紙だけ」と語る。



日本と同列に論じることは出来ないでしょうが、以前から新聞の将来像に危惧しておられる「ガ島通信」さんの主張(特集「ネットと新聞」)が垣間見れたように思います。日本では宅配制度が大きな役割を果たしていますが、今後このような無料紙が登場して発行部数を伸ばしてくることは考えられます。日刊紙の情報の多くはネット上で入手できることも、新聞そのものの価値が低下する要因かもしれません。読者層を特化したスポーツ紙や経済紙が健闘しているということは、有料情報を必要とする特定集団だけを対象に選ぶビジネスしか、新聞に道は残されていないのかもしれません。

「特定集団を対象にする」という意味において、ブログ社会(そんなのがあるかどうか分りませんが)も似ているかもしれません。メジャーなブログには、特定の読者層が出来上がりつつあり、木村氏の記事にも見られる、「ブログはコミュニティだ!」という言葉は頷けるものです。



ランカーブログ(ランキング上位の有名ブログということ)はそれぞれに特定読者層を抱えながら、幾つかの極を形成して、今までバラバラに存在していた個々のブログを多極的に集約し、そこでの意見や議論は概ね一定の方向に収束されていくような現象が起こってきているかもしれません。その極同士は、対立、近似、賛同、参考、等の複雑な関係を持っているようにも思います。

コミュニティのよい所は、その中でのルールや参加者同士の関係維持に、さほどの困難を伴わないことであると思うのですが、コミュニティが異なる極に所属する人間に対してどの程度寛容でオープンであるか、というのはよく分りません。個人的な感想では、所属する極が異なる場合には、特定個人のブログにおいて強烈な事態が発生しかねない危険性も見られると思うのです。



一部においては、弁護士の小倉先生がおっしゃられた「コメントスクラム」(コメントスクラムへの対応)という事態が、個人のブログにおいて発生しうるのも事実です。マスコミバッシングや、イラク人質事件のバッシングなども似ていますね。コミュニティ内での裁定は、主に極の中心を形成するランカーによってなされる(一定の見解を示すことで収束させることができる)と思うのですが、極が異なる場合には、裁定者は存在せず、個人対特定集団ということが起こりえるのです。その時に、中立的裁定者を他のランカーが果たしてくれるか、ということも気になります。


一定のコミュニティが形成されると、ある種の村社会のような状況も想定されるのではないかと心配します。その場合の弊害としては、極の中心者に対立する意見を出しにくくなるような気がするし、その他の参加者から批判を浴びせされるかもしれないと感じてしまうのです。勿論これは、管理者であるランカーの方がそういう風潮を排除したり、適切な管理を行えば問題ないのですが、今までこうした場が存在しなかっただけに、不安要素ではあります。

しかしながら、ブログには優れている点が多いと思いますし、今までの積み重ねをさらに生かす方向に進んで行って欲しいと思うのです。極の形成者は何かの「問題提起」を行い、ある一つの意見を提示する。それについて、コミュニティの参加者は議論を重ね、その結果に基づいて、ランカーの方が意見集約を行い、一つの見解を出すという作業ならば、社会的に非常に有効な意見が出せるようになるかもしれません。そのためには、参加者は、より質の高い議論とか、倫理に基づいた言説とかマナー遵守といった、当然の義務を果たさなければならないことは言うまでもありません。ましてや、特定個人の人格批判などは決して許されるものではない、ということです。


これらが本当に実現し、社会的に信頼される情報発信が可能になるならば、日刊紙の社説を上回る重要な意見となり得るかもしれません。単にA or B の議論の対立の行方を見るよりも、新たに生み出される未知の意見Xに期待したい、というのが私の願いです。