以前書いた記事で(日中関係の報道は?)報道について書いたが、偏りがないような報道というのは難しい。読者にある種の印象や考えを与えてしまうからだ。勿論そのことに意味があることは分る。しかし、ある特定の誘導となってはいけないであろうし、それを明確に意図しなくとも結果としてそうなってしまうこともあるかもしれない。読み手の問題意識の持ち方や判読レベルにも影響されるかもしれないし、また複数ソースを情報源に持つ人とそうでない人では違うであろうし、信じ込みやすい人と疑り深い人でも違うであろう。そういった、読み手の個人的資質に負うところが大きい部分がありながら、概ね多数の人々に「どの様な印象を与えるか」というおよそ不明確な評価によって、客観的な中立性も同時に作り出さねばならないところが、報道の難しさなのかもしれない。
比較的多くの記事や論説では、報道する側のある「意図」が演出されていることが多いとも思う。これは担当する記者やテレビ製作者の考えが反映されているのかもしれないが、そのことが果たして良いのか悪いのかは不明である。正しく作用する場合には、「偶然の結果」として多くの人がそれを支持し、世論がそういう方向へ向かう。だが、正しく作用しているとは思えぬこともあり、それはある「思想統制的」な面が出てしまったり、「大衆誘導」であったりすることもある。誘導される方が悪いという見方もできるし、多くの人々に支持されるならそれが大勢的なのだという解釈もできると思う。ただ、大衆が判断すればよいのであるという論理は、衆愚政治の如く、必ずしも良い方向や正しい選択とはならないこともあることを想起させる。
今回のNHK報道改変疑惑について、一つ疑問に思うことがある。「政治家は報道に意見してはいけないか」ということである。去年の選挙前の報道で、テレビ朝日の「ニュースステーション」が民主党の「影の内閣」のメンバーを登場させたり、一般的な印象が「やけに民主党に肩入れしてるな」という内容が目立った。これに対しては、自民党議員が反発し、「公平性を欠く」とか「意図的報道であった」とかの”介入”を申し入れたことがあったと思う。実際どの議員さんがそのように「テレビ朝日」に”介入”したのかは不明(わかりませんという意味)であるが、数人いたであろう。その後、放送の倫理審査会(?)のようなところで「公正さを欠いている面があった」として、テレビ朝日は注意されていたように記憶している。この時の自民党議員さんは”介入”として非難されなくともよいのであろうか?その理由とは何か?NHKの時とどう違うのか?
放送後だったら、介入とは見なされないのかもしれない。不適切な内容であることを議員が指摘して、放送後に「不適切であった」と認める場合と、事前に「公正に報道するように」と注意を促した場合では、「介入」の定義が変わるのであろうか。
小泉首相は記者会見で「NHK内部の問題」ときっぱり(彼は自信が無い時も、未定の時もそのような反応であるが。それが支持される理由なのかな?)答えている。また、記者が、野党が国会に持ち込む、としていることを告げると、やはりきっぱりと「勝手にやって下さい」と突っぱねた。支持し難い現政権ではあるが、この答弁だけは、小泉さんを「高く評価」したいですね。介入云々という問題以前に、NHK内部の政治的闘争のような面や、昇進や自己保身に走る幹部連中等の問題であって、政治家はただの「通りすがり1号2号」のような気がするが。
放送予定の内容に、報道する側の意図的表現があったか、とか偏りがあるか、という非常に曖昧な評価を「異例の試写会」などで「客観的に」検証するのは、たとえ行ったとしても難しい問題であることに違いはない。その検証作業を「政治的介入」に直結させるのは、かなりの困難があると思うのである。会長進退で揺れるNHK内部に、もっと政治力を発揮しようと画策する幹部連中がいることがあっても不思議ではないし、これを機会に「粛清」や「追い落とし」などを企む輩は恐らく存在するであろう。そうした内部事情から噴出してきた「不祥事」という感が否めないのである。
(一つ前の記事に、思いっきり推測で書いていますから、読んで下さいね)
製作担当者が「介入によって改変された」という感想を抱いたとしても、製作した番組内容の中立性についての彼の主観的評価が、必ずしも正しいとは言えないというのが現在の結論ではないかと思う。
比較的多くの記事や論説では、報道する側のある「意図」が演出されていることが多いとも思う。これは担当する記者やテレビ製作者の考えが反映されているのかもしれないが、そのことが果たして良いのか悪いのかは不明である。正しく作用する場合には、「偶然の結果」として多くの人がそれを支持し、世論がそういう方向へ向かう。だが、正しく作用しているとは思えぬこともあり、それはある「思想統制的」な面が出てしまったり、「大衆誘導」であったりすることもある。誘導される方が悪いという見方もできるし、多くの人々に支持されるならそれが大勢的なのだという解釈もできると思う。ただ、大衆が判断すればよいのであるという論理は、衆愚政治の如く、必ずしも良い方向や正しい選択とはならないこともあることを想起させる。
今回のNHK報道改変疑惑について、一つ疑問に思うことがある。「政治家は報道に意見してはいけないか」ということである。去年の選挙前の報道で、テレビ朝日の「ニュースステーション」が民主党の「影の内閣」のメンバーを登場させたり、一般的な印象が「やけに民主党に肩入れしてるな」という内容が目立った。これに対しては、自民党議員が反発し、「公平性を欠く」とか「意図的報道であった」とかの”介入”を申し入れたことがあったと思う。実際どの議員さんがそのように「テレビ朝日」に”介入”したのかは不明(わかりませんという意味)であるが、数人いたであろう。その後、放送の倫理審査会(?)のようなところで「公正さを欠いている面があった」として、テレビ朝日は注意されていたように記憶している。この時の自民党議員さんは”介入”として非難されなくともよいのであろうか?その理由とは何か?NHKの時とどう違うのか?
放送後だったら、介入とは見なされないのかもしれない。不適切な内容であることを議員が指摘して、放送後に「不適切であった」と認める場合と、事前に「公正に報道するように」と注意を促した場合では、「介入」の定義が変わるのであろうか。
小泉首相は記者会見で「NHK内部の問題」ときっぱり(彼は自信が無い時も、未定の時もそのような反応であるが。それが支持される理由なのかな?)答えている。また、記者が、野党が国会に持ち込む、としていることを告げると、やはりきっぱりと「勝手にやって下さい」と突っぱねた。支持し難い現政権ではあるが、この答弁だけは、小泉さんを「高く評価」したいですね。介入云々という問題以前に、NHK内部の政治的闘争のような面や、昇進や自己保身に走る幹部連中等の問題であって、政治家はただの「通りすがり1号2号」のような気がするが。
放送予定の内容に、報道する側の意図的表現があったか、とか偏りがあるか、という非常に曖昧な評価を「異例の試写会」などで「客観的に」検証するのは、たとえ行ったとしても難しい問題であることに違いはない。その検証作業を「政治的介入」に直結させるのは、かなりの困難があると思うのである。会長進退で揺れるNHK内部に、もっと政治力を発揮しようと画策する幹部連中がいることがあっても不思議ではないし、これを機会に「粛清」や「追い落とし」などを企む輩は恐らく存在するであろう。そうした内部事情から噴出してきた「不祥事」という感が否めないのである。
(一つ前の記事に、思いっきり推測で書いていますから、読んで下さいね)
製作担当者が「介入によって改変された」という感想を抱いたとしても、製作した番組内容の中立性についての彼の主観的評価が、必ずしも正しいとは言えないというのが現在の結論ではないかと思う。