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医療費の問題とか

2005年06月15日 22時45分24秒 | 社会保障問題
極東ブログのコメント欄での医薬品についての、ちょっとした論争を見たので、それについて少し書いてみたいと思います。実情について正確には判らないのですが、知っている範囲で述べてみます。

極東ブログの記事:
米国の話だが保障の薄い医療保険は無意味

まずアメリカの医療制度というのは、日本とはあまり比較にならないと思います。費用対効果で見れば、日本の戦後の平均寿命が延びたことには医療保険制度の恩恵があったと考えるのが自然です。アメリカよりも少ないGDP比でそれが達成された(他の先進諸国に比べてもGDP比医療費は少ないです)のは、日本の医療制度が優れていた面があったと思われます。コメント欄でもご指摘があったように、医療訴訟に関する費用がアメリカではべらぼうに高く、医療者側はそのリスクを避けるために高額な報酬を請求することになり、その対価として患者は満足のいく医療サービスを受けるというものです。日本でも医療訴訟件数が増加し続けておりますが、それでも訴訟件数や支払い賠償額は多くはないでしょう。加入しているメディケア、メディケイドなどの種類によって、予め使える薬剤やカバーされる医療行為の内容が決められており、finalventさんが「保障の薄い保険」ということを記事に書いておられますが、これは余りにカバー範囲が狭すぎて保険で認められる医療行為が実質的にあんまり意味がない(例えて言えば、「胃ガン手術はセカンドステージ進行例以上のみ」となれば、1stステージの初期胃ガンは全額自己負担となってべらぼうに高い医療費を払わねばならない、というようなことかな?)。アメリカにおいては、企業は高騰する医療保険の圧迫を受け、先日のGMの経営悪化・格下げ(所謂「GMショック」でしたね)の遠因となっているとも言われています。それほど医療費の負担が重いということになりますね。


日本における医療制度はベーシックな医療は殆ど医療保険でカバーされ、その対価は高いとも言えません。高額医療費制度があるので、実質的に一定額以上の費用がかかることはありません(特別室のような病室に入ったりしなければ、ですが。患者本人が「全て保険で」と選択すれば病院側はそうしなければなりません)。たとえ退院する時に請求されても、後で加入保険(国保、政府管掌、組合など)に請求すれば戻ってくることになっています。高度先進医療もあって高額な治療も公的に認められておりますが、これは確かに高額となる場合も多いと思います(これが高額医療費制度の範疇に入っているかは、ちょっと判りません)。時々報道などで見られるような特別な心臓移植が必要な場合などで、アメリカに行って手術するということになれば1億円以上は覚悟せねばなりませんが、日本で出来る場合にはそんなに高額とはなりません(数百万単位ではないかと思いますが、これも正確には判りません)。コメント記載で、「日本で保険が利かない治療を受ければ死なずにすむ人達がたくさんいる」というのは、おそらく誤解なのではないのかな、と思います。実際にどういった疾病でそういう実態があるのか、私の知る医師達(友人や同級生などに過ぎませんが)の範囲でもあまり聞いておりません。私は医師でもないので、本当のところは判らないのではありますが。


厚労省の追加承認した抗ガン剤については、既にガン治療に用いられており有効性も確認されてはいますが、現在まで正規の承認を受けていなかったものであり、日本国内で臨床試験を通常の手続き通り行うとするならば、使用できるようになるのが更に数年後(あるいは十年後とかの長い年月がかかるのかも)となってしまい、その間の患者の不利益を考慮してのことと思います。従来は正規の臨床試験を行い薬剤承認を受けますが、例えば、薬剤の承認申請時に効能が「胃ガン」となっておれば保険適用になるのは「胃ガン」のみであり、たとえその後欧米の知見や学会の研究などで「実は肺ガン(肺転移)症例にも効果が高い」と判明したとしても、保険適用にはならないのです。しかも、この薬剤を肺ガンに対して投与する場合には、他の全ての治療費が保険対象外となってしまうのです。そうなると、今まで胃ガン治療を行ってきて、新たに肺転移が見つかり両者に別々の薬を投与するとなると、全額保険外となってしまいます。こうした制度上の問題を解消するために、胃ガン治療については従来通り保険給付を行い、肺ガン治療についての薬剤投与については専門医が学会等の治療指針などに基づいて(およそ臨床試験的に)抗ガン剤投与を行い、その実費のみを保険外費用とする、というものです。薬剤会社が後で「肺ガン」適用への正規申請を行うには、「胃ガン」の効能で適用を受けたのと同じような臨床試験を一から行わなければならないため、製薬会社がその負担を嫌うとか膨大な時間がかかるとか、色々問題があるのですね。効能の保険適用を拡大することは、かなりの負担となるのです(新規申請と変わりません)。ですが、患者はそれまで待てない。欧米での臨床実績があり、日本の学会等でも研究目的で投与され効果が確認されているにもかかわらず、患者がその利益を享受できないことが今までの制度であったのですね。この解消目的が厚労省の決定であったと思います。


ですから、コメント欄に意見を書き込まれた医師の方は、真実を述べていると思いますし、日本の医療制度や水準というのは、世界的に見ても非常に効果的に行われてきたと思ってよいと思います。勿論、一部には医療過誤や様々な問題もあると思いますが、多くの医師達は今ある制度の中で、良心的に全力を尽くしていると思っています。


あと、finalventさんが、「健康診断不要で加入できる保険ってどうなの?」という疑問を表明されておりますが、これは日本の医療保険制度があれば、十分可能だと思います。先に述べたように、高額医療費制度があるので、実質的に第三分野の民間保険というのは差額ベッド代やもろもろ雑費、休業時の多少の収入補償といった意味合いであって、医療費の実費についてごっそり払うということは少ないのですね。年齢ごとの平均的医療費支払い額と疾病率が概ね予想ができれば、保険料率が設定できるということになると思います。「簡保」が似た制度で十分運営できていますし。



経済学は難しい7

2005年06月15日 14時21分40秒 | 経済関連
読売新聞の「論点」というコーナーがあるが、この欄は専門家の意見が書かれているので非常に参考になります。時には反対論者の意見も直ぐに書かれたりして、とても面白いです。今日の論者は、杉浦哲郎氏(みずほ総研常務執行役員、チーフエコノミスト)でした。「日本経済の原動力」と題する記事でした。


この中で、2つの疑問を呈しておられるのだが、一つは景気牽引役だった輸出停滞でも回復に向かう原動力は何か、もう一つは景気回復基調でも多くの経営者や家計の厳しさが実感されるのは何故か、ということであった。「構造不況論者」たちは、輸出が伸びなければ直ぐに腰折れするほど日本経済は脆弱であり、デフレや中国からの輸入急増に伴う空洞化を主張していたとして、暗に批判しておられる。また、2つ目の疑問に対しては、逆説的に厳しさがある中だからこそ景気が回復している、今後の判断というのは回復と厳しさが併存する、と述べている。主な景気回復の原動力は、企業等のミクロレベルでの自己変革を挙げており、また経営者や労働者個人レベルでも実績や厳しい競争にさらされることで実感としては厳しさが消えることはなく、またそうした厳しさがあるからこそ投資や雇用に繋がったというような趣旨であると理解した。


こうした「構造不況論者」達と、それ以外の人達による様々な経済論争が繰り広げられていたことなど全く知る由もなかったが、ブログを書くようになって初めて知ることができた。「構造不況論者」は「構造改革信奉者」とは別物なのかも判らない。兎に角「~論者」が多すぎるのだ。他にも金融政策や財政政策についての長い論争は終わることなく続いているようである。なんでだろう?経済学の専門家達は過去を振り返り、「後出し理論」によって記述しようと試みることが多いのだろうか。経済学上の「構造不況論者」とかその他色々の「論者」達が、過去のことをこれほど論争の種にしているのは不思議である。過去の記述が正確に出来るようになれば、今後のことが正確にわかるようになるということなのだろうか?もしも、「俺が正しい理論を知っている」というのなら、これからの経済予測を正確に出してもらい、発表して欲しい。過去の現象についての記述が正確に出来るならば、未来も記述できるのではないですか?「これまで、~~を原因とする不況、○○を理由とする景気回復があったのであるから、今後はこうすればこうなる、しなければ××になる。」って言えばいいのではないですか?本格的に正確な理論があれば、不況は未然に防げるかもしれないし、定常的な状態を作り出せるということでしょ?まさに予言通りならば、誰もがその理論の正しさを実感できるのではないですか?


サッカーの試合終了後に敗戦分析をして、「あの時、DFがクリアすれば良かったんだ」「いや、違う、あそこでシュート打たなかったからだ」「そうではない、マークがずれたからだ」「飛び出したボランチのカバーに回らなかったからだ」「4バックにしとけば良かった」「FWに誰々を使わなかったからだ」・・・と言う具合に、ひたすらしつこく分析しているのと、経済論争は似ているような気がする。論争のエネルギーが非常に無駄な感じもしますが。私が知りたいのは「次の試合に勝つためにはどうしたらよいか」である。勿論自分のチームの弱点を分析したり、修正すべき点を知るには過去の敗戦分析は必要であろう。例えば「4バックが悪かった、FWがダメだった」という理論を掲げるならば、「次は3バックにしろ、FWにはこいつを使え」という具体的な対策が欲しいのである。だが、多くの経済論者達は、この結論が出せないばかりか、次の試合がもう始まっているというのに、「FWがダメなんだ!引っ込めろ」とか「4バックでやれ!」とかフィールド外のスタンドからひたすら野次を飛ばしているかのようである。適切な指示というのが、一体何なのか、まるで判りません。これで試合に勝つことは出来るのでしょうか?



ブログでよく見かけたので、ほんのちょこっとだけ経済の「にほひ」を嗅いでみました。難しいのでよく判りませんでしたが、一応少し書いてみます。突っ込まれても本質的理解からは程遠いので、何も答えられないですけどね(笑)。先月に読売新聞にも出ていたクルーグマン教授ですが、彼は日本経済の回復について「年率4%のインフレを15年続けろ」という具体的な例示をしているようである。彼の理論の正確さや信頼度というものが、経済学上どの程度のものなのかは、私には全く判りません。それでも、具体策として出されているわけですから、検討に値するということであり、多くの学者達もその理論については熟知しているでしょうし、その意義とか具体的な政策として実行する場合にはどういうものが考えられるのか、などということは既にかなり検討されたことでしょう(理論が発表されてから5年以上経つようですので)。これを私ごときが書くのも気が引けますが、とりあえず・・・


まず、日本経済の将来供給能力は縮小する、という考え方がはっきり理解できないかったのですが、これは当然その通りなのでしょうか?もしも供給能力を縮小させないようにするにはどうすればよいのでしょうか?この供給能力とは「労働生産性」とか「勤労意欲」とかそういうものは関係あるのでしょうか?

また、将来のマネーサプライを大きくすることで必要なインフレを起こし、需給ギャップを解消するということになっております。将来における均衡政府債務残高が増加するのを避ける場合には、政府の財政政策を現時点で拡張するよりも将来時点の拡張を行うというのが望ましいように思われるのですが、これは例えば将来時点の医療費支出増大という財政拡張政策はこれに該当するのでしょうか?また、本理論における税というのは実質的に社会保険料も該当するのでしょうか(何となく税と同じような気がしますが)?該当する場合に財政拡張政策と収税(保険料)縮小政策は同様の効果を持つようにも思われる(StまたはS*の縮小)のですが、違うのでしょうか?

名目金利がゼロの制約下における金融政策で中央銀行が貨幣供給量を増加させると、財政政策の変更がないと仮定した場合に中長期的モデル(0、1期に2期を加えたモデル)では物価水準が低下するということになるのは正しいのでしょうか?


現在推進されている構造改革の持つ経済学的意味は、クルーグマンが指摘する「0期における生産量上限の拡大と同じであり、GDPギャップを大きくする」というのが、当然の如く当てはまるのでしょうか?構造改革によって、家計は何もしないのに「生産量上限拡大」が起こるというのも、何だかよく理解できませんね。これは政府部門から民間部門への「生産限界の部分的移転」ということを示すのでしょうか?でもクルーグマンの世界での政府自体は消費や投資はなく、貨幣発行と国債償還のみが定常的に行われているだけだと理解したのですが・・・・・・。何もないところから移転してはこないでしょうから、「自然界」には政府が行う構造改革を感知して、勝手に家計の「生産量上限を拡大させる」不思議なシステムが存在するということなのかな?構造改革によって、勝手に生産量上限の拡大が起こるのであれば、同じ程度に生産量が拡大してもよさそうなのですが、拡大しない理由というのも良く判りません。


いずれにせよ、単なる経済論争からは、いつまで経っても試合に勝つ方策は見えてこないし、具体的な「3バックにせよ」的な政策を是非とも経済学者たちが示してくれればそれでいいのです。「雇用拡大政策には何兆円投入しなさい」「医療費総額の適正値はいくら」「年金未納者をゼロにする政策」「国の基幹産業としては何十兆円産業をつくれ」という風に、答えて欲しいです。

参考記事:
「破局のスパイラル」(追記後)



経済教育のこと

2005年06月15日 03時12分02秒 | 社会全般
平ちゃんは来月にも「経済教育サミット」を開催すると発表した。随分と急な日程だが、福井日銀総裁や伊藤金融相も参加するということらしい。また、内閣府は「牛丼店」をモデルにした教材を作ったと発表。今後他の教材(消費、政府といったテーマ)も作るという予定らしい。さすが元教授らしく、やっぱり教育は好きなのでしょうね。随分前にテレビで(WBSだったかな?)新任官僚達への教育で登場した平ちゃんが、政策コンペみたいなのをやらせていた。その時に発表に立っていた若者(官僚1年生?だったか)に、「どうして設置は内閣官房なの?内閣府じゃないのは何故?」という具合にツッコミを入れてたな。

NIKKEI NET:経済ニュース


率直に言って悪い試みではないと思うし、私も記事に書く時には、よくラーメン屋を例に出してきたので(過去の記事をお読みの方は判るかも、笑)、それが牛丼屋になったとしても問題ないですが。ただ、経済を学ぶということも大切ですが、多くはもっと根本的な教育が必要ではないかと思ったりします。それは個人の無担保融資やカードローンの利用が非常に多いという点が気がかりであり、借金に対する心理的障壁が低くなっていることが自己破産の高止まりに繋がっているのではないかという懸念があります。また、一般家庭における家計の運営にしても、うまくできない人達が結構存在しており、よくテレビや雑誌などでも家計診断とか相談コーナーなどが見られており、そういうごく普通の身近な部分で「経営能力」というか普通の「やりくり」能力が必要なのではないかと思います。


日本人の貯蓄率は経年的に低下傾向であり、特にバブル崩壊後には貯蓄率の低下が目立ってきています。消費を活発に行うことは悪くないと思いますが、かつてのような「地道に蓄えて」という堅実性が薄れて、代わりに「キャッシング」してでも消費に回すという傾向にはかなりの抵抗感があります。私は、「現金で買え」「借金はするな」とか教えられました。諮問会議でも出ている「身の丈にあった」という文言は、まさに一般個人にも同じように適用できるでしょう。そういう当たり前の感覚を持たせることの方が大切なのではないか、と思ったりします。


経営的センスを磨いて、個人創業とか起業家を増やしていくことは、新規ビジネスのチャンスが広がるし経済的活力となっていくでしょうが、圧倒的多数に必要なのはそんな特殊な能力ではなく、まっとうに働き借金に頼ることなく(まあ住宅ローンくらいは仕方がないとは思いますが)生活するという意識なのではないのかな、と思います。事業には借金が必要な場合が多いですが、その根本にあるのはやはり同じような”感覚”でしょう。大企業であっても「無借金経営」を掲げているところもありますね(上場企業の中にもいくつもあります)。

西武グループやダイエーを見るにつけ、やはりそういう普通の感覚を失うと、崩壊の危機に立たされるのだろうな、と思います。借金を積み重ねるビジネスモデルというのは外部環境の変化に弱く、結果的にはリスクが大きくなっていくと思います。無限に成長するならば違うのかもしれませんが。事業拡張、それに見合う借金をする、また拡張、借金増額、拡張、借金増額、・・・と繰り返していくと、いずれ行き詰るのではないのかな、と。何となく、ねずみ講と似てるな。そんな事業や会社というのは有り得ないと思っています。


全く関係ないが、ロシアのサンクトペテルブルクでのトヨタ工場の式典には奥田さんが出向いて行ったようで、何と異例中の異例でプーチン大統領も列席したということらしい。トヨタグループの恐るべき影響力と、日本の資本に下心をもつロシアの顔がちょっと見えたような気もする。この計画については、以前に極東ブログでも取り上げられていたが、ロシアの思惑というのは政治的立場と異なった感じがあり、実利的というか現実的なんだな、と思った。ジャパンマネーはやはり魅力的なんだね。

ところで奥田さんは何歳なのかな?忙しいよね、本当に。60歳はとうに行ってるでしょ?あの行動力というかエネルギーは凄いね。年齢を感じさせないね。少なくとも変な大臣とかよりも、注目しちゃうね。会議だけでも、あれこれいっぱいあるしね。イヤになったりしないのかな?今ではニートやフリーターの心配までしなくちゃならないしね(笑)。病気にならない程度に頑張って下さい。