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続・ネット規制に関する雑感

2008年04月26日 13時54分17秒 | 社会全般
この問題には、あまり首を突っ込む気はなかったのですけれども、もう少し補足してみます。

ネット規制に関する雑感


規制反対の活動をしている人たちの状況をみると、行政側対応をあまり研究していないのではないかと思わざるを得ない。総務省が携帯電話のフィルタリングについて検討会を昨年末頃からやってきており、資料等に限らず議事録も揃っているのであるから、議論の方向性などを知ることはできるし、自分たちが何を主張すればいいのか、ということを考えることはできるはずだろう。

見えない敵に向かって、無闇やたらと発砲するのが効果的とは思えませんね。まずは、相手側をよく研究し、知ることから始めるべきでは。沙世ちゃん系の方々?が「調べてから意見を言え」とか言っておりましたけれども、まさしくそれが当てはまるかと思います。

政策実現というか(今の場合には阻止ということかもしれないが)、政治的な活動を意図するのであれば、まずこうした資料を丹念に読み込み、相手側主張を理解するとともに、論点の穴や弱点というのを調べるとか、相手側要求に応える為の解を探すといった努力がまず必要であろうと思う。


総務省が行っているのは、「インターネット上の違法・有害情報への対応に関する検討会」というものであった。調べたら、直ぐに出てきたよ。

メンバーはこちら>総務省報道資料

で、現状は大体ココ>中間取りまとめ骨子(案)


結局、これら論点を上回る「何か」をMiAUなり、何なりが出せないのであれば、この基本線を突破することは難しいと思う。しかし、これら案を受け入れるならば、より強力な法規制は防げるということがあるなら、交換ということになるかと思う。総務省プランで行きましょう、だから、例の立法(自民、民主案?)は待ってくれ、という条件を出せるでしょう、ということ。その戦術を捨てるのであれば、真正面から挑んでみたらいいと思いますね。フィルタリングは拒否、自主規制的な第三者評価機関も拒否、ということ。全くの自由を勝ち取る為に玉砕戦を挑んでみたらいいでしょう。


上限金利問題の時にも、こうした行政側資料などをまるで見ないで文句ばかり言ってた人たちがいたわけですが、まさにあれと同じようなものです。ネットの場合、みんなで手分けして作業できるのだし、論点を整理して回答を作成したりもできるし、専門分野ごとに対策とか回答をそれぞれ用意できるはずなんですけどね。法学関係、経済学的観点、技術的部分、経営的なこと、そういうのを得意な誰かがやっていけばいいだけの話だな。

しかし、現実にはそういうことすらやってない。
はっきり言えば、努力が足りんのだ。

誰か1人でもいいので、こういうのを検討して論点を切り分け、答えを探す作業をやればいいものを、頭数だけ揃えたって誰もやっていないのであれば、戦う前から勝敗は目に見えているということ。明らかに負け戦だわな(笑)。誰も「戦い方」ということに頭を使っていないのだ。自分の主張の正しさを言いたいだけなんではないのか、と思わざるを得ない。それとも、政治家や官僚の無能を論って、自分たちの優秀さを示したいということか?
違うというなら、努力の成果を見せてみろ、ってことだな。


相手側論点を知り研究する、というのは、賛成意見を集めてくるより役立つかも、と前に書いたじゃないですか。

多くの賛成意見よりも一つの反対意見の方が役立つかもしれない

もう大体答えは見えたんじゃないでしょうか?
とりあえずの目標地点というか、ゴールを目指して、現状で可能な一手を選択することを考慮すべきでは?
最善手ではなく次善手かもしれないけれど、正面闘争に敗れて玉砕するのとどちらがいいですか、って話だ。



寿司を食いたきゃ箸使え!

2008年04月26日 10時33分32秒 | 経済関連
前の記事に関連して。
今は世界的に寿司は広く知られるようになり、日本以外でも食べられる場所は多くなった。「sushi」は当たり前の食べ物になったのだ。しかし、以前は欧米人は今と全く違った反応であった。

70年代や80年代であっても、日本や日本人のことへの理解はあまり得られていなかったであろう。殆どの欧米人は日本のことなって眼中にはなかったし、知識もなければ興味もなかった。だから、日本人がスシを食べる、ナマの魚を食う、ということで、バカにされたものだ。欧米人の多くがスシや刺身を前にすると、気味が悪いとか気持ち悪いと言っていた。いま風な言い方をすれば、日本人は「キモい」ということだ。映画などでも、箸を使うのは、ふざけた場面とか小馬鹿にする為の典型的な小道具に過ぎなかった。

それらのことを別に非難したわけではない。奇妙なカタツムリだの、昆虫を食べるのも、大差ないからね。日本人にだって苦手な食べ物くらいはある。欧米人が刺身や寿司を苦手に思うのは無理もない。けれども、海外での紹介のされ方というのは、日本人は「魚をナマで食う」ほどの蛮族、のようなイメージを与えていたかもしれない。そういう目で日本を見ていた、ということだ。日本の文化や伝統などに敬意を持ったものではなかった。一部の人たちだけはそうではなかったかもしれないが、殆どの欧米人は日本を理解しようとしなかった。だからこそ、刺身を箸で食う、寿司を食べる、というのは長い間受け入れられなかった、ということだ。

日本人は違う。昔は大量に並べられるフォークやナイフの使い方なんかは知るはずもなかったが、フランス料理などを食べる時のテーブルマナーを学び、理解しようと努めた。だから、日本人はフランスの三ツ星レストランに行った時に、「箸で食べたい。だからフォークじゃなくて箸を出せ」などと言うことなど殆どない。日本人は行った先の、当地のやり方に合わせるからだ。そこのやり方を学ぼうとするからだ。


しかし、欧米人の多くは箸を満足に使えずにうまく食べられないと、「箸は日本独自のルールだ、だからフォークをくれ、フォークで食べられるようにせよ」と文句を言う、ということだ。日本のやり方を変えろ、と常に求めるのは、それと同じことだ。寿司屋に来ているのに、そこのやり方を学ぶことも理解することもせずに、フォークを出せと要求するのである。それがおかしいと考えることがない、ということでもある。欧米人が寿司をうまく食べられないのは、日本人のせいじゃない。欧米人が箸を使うのが下手だからだ。欧米人には、「郷に入っては郷に従え」という日本の諺は通用しない。ビジネスがうまくできないのは、自分たちのせいではなく日本に問題がある、ということだけを主張するのである。


これはまるで「寿司屋で箸を使うというルールが悪い、だから箸を使うのではなくフォークにせよ」と再三要求してるのと同じである。日本がいくら「日本では普通箸を使うんです」と説明しても、それは日本独特の慣習だ、と非難する。日本人が自分の努力でフォークやナイフの使い方に慣れてうまく食べると、「日本人は我々の用意した自由を享受して儲けている」と文句を言うのだ。それは日本人がフォークとナイフを上手く使う自助努力の成果であり、「日本では箸を使うから箸をよこせ」などという要求をしたことなどないのに、非難されるのだ。


今では、寿司を食べる外国人はかなり増えた。ナマ魚はキモい、とか、日本人キモい、とか言われなくなった。箸を使って「sushi」を食べる外国人が殆どになった。それは寿司への理解が進んだからであり、箸を使うことに慣れるように努力してくれた結果であろう。けれども、今から20年前には、そうではなかった。それと同じで、欧米人の中には、未だに「箸を使って食べる日本の慣習や文化はおかしい」と、お門違いの文句を並べる人々がいるのだろう。


日本の寿司屋で「sushi」を食べたければ、箸を使えばいいだけだ。
悔しかったら、箸を使えるようになってみなさい、ということ。
箸という日本の文化や伝統に文句を言う人には、無理に寿司を食べてもらわなくてもいい。



出島よりも種子島を知るべきだ

2008年04月26日 02時11分38秒 | 経済関連
どうも日本への誤解が解けないようだ。その理由を彼らは考えたことがあるのだろうか?
その必要性を感じることがないから、恐らく自らは答えを見つけ出せないだろう。

「出島」思考にとらわれる日本――フィナンシャル・タイムズフィナンシャル・タイムズ - goo ニュース

この論説を読むと、不可解な日本の姿が浮かび上がってくる。何事においても不透明なのだ。欧米人にとって日本は、今も昔もミステリアスな国なのだ。
一部の個人に理解者が存在しているだろうが、有力な政治家や経済人や知識人であっても、日本のことをよく知らない。知る必要性がないからだ。何故なら、彼らにとって「判らない」ことは自分の責任ではなく、相手にその責任を求めるからだ。それが考えの基本である。日本人の気質は大きくかけ離れている。


まずEUの姿を見てみよう。

EU統計


直接投資受入額は約1700億ドルであり、GDP(約14.5兆ドル)比ではたったの1.2%に過ぎない。要するに域内でしか投資は行われていない。日本のGDPの3倍近くありながら、日本の対内直接投資額(=海外からの投資受入)約1000億ドルと比べれば、とび抜けて多い額とも思われない。単なるブロック経済主義なのではないか、という疑問には答えられるのだろうか。EU内のある国がドイツやフランスから投資受入をしているとしても、それは日本で言えば、宮崎県が東京からの投資受入をしているのと大差ないということだ。

また、日本からの輸出は約970億ドルしかない。EUから日本への輸出額がこの半分くらいしかないから、日本の輸出超過であるには違いないので、日本から何か文句を言ったりすることはない。しかし、日本から見ればEUは閉ざされた市場である、と言うことは可能である。何故なら、日本から香港・韓国・台湾のたった3地域に1400億ドルもの輸出をしているのに、EUはその7割に過ぎないからだ。EUのGDPの大きさとこの3地域の大きさは比べるべくもなく、EUが圧倒的に大きいのは明らかだろう(笑)。
EUにとって「日本よりもスイスとの貿易額の方が多い」という事実を突き付けているが、こうした一部の事例を取り上げて日本の一般的批判とすることがいかに不適切であるか、ということを彼らは考えない。

エアバスのシェアが低すぎることは、エアバスにとっては不幸な出来事だが、それはボーイングに文句を言うべきであって、日本に文句を言う筋合いのものではない。日本人の客がルノーをあまり購入せず、シボレーを多く買うと、同じように不満を言うだろうか?
確かに日本の姿勢が米国企業に対してやけに媚びているということがあるかもしれない。ならば、そういう米国側の圧力を緩衝するような助力を日本にしようとしたのだろうか?常任理事国入りの問題が持ち上がった時に、ドイツと日本が目指したにも関わらず、フランスやイギリスという常任理事国が日本の支援に回ることを約束しただろうか?日本が常に米国側からの強い圧力を受け続けている時に、EU諸国は日本にどのような支援をしたのだろう?米国に対し「あんまり日本をいじめるな」と忠告して庇ってくれたりしたのだろうか?

日本がEU諸国に助けてくれ、とSOSを発することなどしなかっただろう。だが、結果的には超大国である米国の圧力の前に屈し、エアバスを購入せずにボーイングを嫌々ながらも買わされる、或いはロールスロイスエンジンを購入できずにGEのエンジンを購入させられる、ということになってしまっただけではないか。日本が米国の前に跪かされることをいつも放置していたか、それを肯定してきたからこそエアバスのシェアはたったの5%になってしまったということだ。その事実から常に目を背けてきたのは、EUの中の大国だ。


日本というのは不思議な国で、全世界のヴィトンのバッグを半分近くを購入するのだそうだ。女子高校生程度であっても、どういうわけかヴィトンのサイフだのバッグだのを持っているのだ。私にはその理由は判らないが、そういう国なのだ。別に欧州のことが嫌いとか、排他的ということではないだろう。イケアの巨大店舗だって、きちんと開業している。本当に戦車に潰されないかどうか確かめたことはないが、ボルボだってたくさん走っている。世界中のローバーミニのかなりの部分は、日本で走っている。レストランなどに行けば、私のようなワイン音痴であっても、お店の人に頼めばいそいそとお勧めのフランスワインだのドイツワインだのを取り出してくる。孫の為にレゴブロックを買う爺さんはたくさんいる。日本人の大半は、欧州は好きであっても嫌いなわけではない。

文化、慣習や伝統ということへの考え方が、日本のビジネスマンと欧州のそれとでは異なっているだろう。日本人は、行った先のやり方を学びそれに合わせてビジネスをやろうとすることが多いのではないかと思う。日本人が相手国のやり方に合わせるのだ。極端にいえば、現地の人々に同化しようとする、ということだ。中東では中東の、欧州では欧州の、南米では南米の、慣習や文化を学んでそこの土地に合ったやり方に合わせるのだ。しかし、欧米人は自分たちのやり方にあったビジネスをやろうとすることが多いのではないかと思う。日本の文化や慣習を学ぼうとするよりも、まず自分たちのやり方と同じく相手に変えさせる、ということだ。


琴欧州という関取は、日本の大相撲という伝統と文化を学び、それに合わせて立派な関取となった。彼に限らず、海外からやってきて日本の関取として成功した人は大勢いる。彼らはみんな、日本の伝統と文化を学んだからこそ、成功したのだろうと思うし、大相撲のやり方を変えたりすることを要求したりはしなかった。欧米人が日本に「やり方を変えてくれ」と求めるのは、将棋をしようとするのにチェスのルールを適用してくれ、と要求するのと同じようなものだ。2つのゲームはよく似ているが、ちょっと違う。盤のサイズも駒も違うが、何といっても「合駒」が大きく異なる。取った駒を使えるかどうか、というのは、大きな違いを生み出している。
日本人は欧米でビジネスを行う時には、将棋のルールに変えてくれと求めたりはしない。チェスのルールを学び、チェスの定跡を研究し、勝ち方を知ろうと努力するのである。しかし欧米人の多くは、将棋のルールはよく判らないからチェスのルールに変えてくれ、と要求するのである。日本が「将棋のルールでお願いします」と言っても、「それは日本独自のルールだから日本が勝つので、イヤだ。チェスのルールじゃないとやりたくない」と言うのである。そもそもここは日本なのだから、将棋をやることを受け入れて、将棋のルールや定跡を学べばいいだけなのに、どうしても「チェスのルールにせよ」と要求するということである。そのことに全く自覚がないのである。


今から200年前の出島を取り上げていたが、400年以上前を考えてみよう。大航海時代にスペインやポルトガルといった大国は海外進出し、征服先で彼らのやり方を現地人に強要した。言語も宗教も全てだ。それが彼らのやり方なのだ。伝統、文化や慣習などといったことへの敬意や配慮など微塵もなかった。自分たちのルールを押し付けただけだ。フィリピンをスペイン艦隊が滅ぼした頃(アルマダの海戦などでイギリスに無敵艦隊が敗れるのは、もう少し後だ)、日本はオランダやポルトガルと貿易をしていた。日本は金と銀の交換比率が欧州とは異なっていたので、日本の金は大量に欧州に輸出されていた。簡単に言えば、騙されていた、ということだ。鎖国を完全にして出島に外国人を閉じ込めたのは家康だが、ウィリアム・アダムスは1600年に日本にやってきていた(漂着したところを日本人に救助されたのだ)。宣教師たちに処刑することを進言されたにも関わらず彼を助け、三浦按針という名前を与えて保護した。日本人は外国人を排除するだけではなかった。

これに先立つこと約50年、辺鄙な島でしかない種子島に漂着したポルトガル人を救助し、将軍に合わせたのも日本人だ。火を吹く棒みたいなものを持ち、今でいえば宇宙人なみにおかしなヤツを、言葉も判らないのに殺しもせずに助けたのだ。そういう伝統と文化を日本が持っていたことを、欧米人の多くは知らないだろう。彼らが持っていた鉄砲を研究し、日本で製造できるまでになった日本の技術力も知らないだろう。僅か20、30年で大量に実戦投入されるようになったのだ。


要するに、日本人は海外の国に学ぼうとする姿勢があったが、欧米人は日本を知り理解しようと努力することはあまり多くなかっただけなのではないか。一部個人がそれをやってきたに過ぎないのではなかろうか。長年、自分たちのやり方や考え方を現地人に強要してきたので、それが今でも続いているのではないか。そのことが無自覚であるがゆえに、日本は不透明だと考えるのではないか。

これに類するものがある。柔道だ。柔道は日本が本家ではあるけれども、これも日本人と外国人の考え方は違っているであろう。日本の柔道家は形とか一本とか、そういうこだわりがあるけれども、「判りにくい」という理由でルール改正が行われるのは欧米人の考え方なのだ。日本人にとっては、判り難いかどうかは関係がなく、そういう伝統と文化なのであるからそういうものだと考えるだろう。しかし欧米人は違う。判定が難しいという理由で、柔道を変えるのである。それは既に柔道なのではない。JUDOなのだ。

日本人がバレエの型とか表現が分り難いので変えてくれ、と言ったりするだろうか?
伝統と文化を理解しようとするというのは、そういうことだ。伝統や文化に敬意を払い、そこから学ぼうとすることが大事なのであって、自分たちにとって判りやすいとかやり易いといったことを求めたりはしないものである。


<ちょっと寄り道:
私はフィリップスのシェーバーを愛用している。ヒゲがあまり濃くなく、自分に合う製品は少ない。かつて日本製品を使ったこともあるが、剃る時にとても痛いし皮膚がヒリヒリしてしまうのだ。そういう経験があったりして、痛みの少ない今の製品を使っている。良い製品やサービスには需要があると思うが、そうでないなら日本の市場では生き残れないのではないだろうか。昔に使っていたシェーバーも同じくフィリップスであったが、充電池がすぐにバカになってしまい、充電時間1日で動かせる時間がたったの2分じゃ、お話にはならんわけです。何かの景品で当たったものだったので、別にどうってことはなかったが、これでは日本製品には勝てないだろうなと思ったんですよ(今使ってる製品は、良くなったけど)。信頼が得られない限り、日本でのビジネスは成功しないのではないかと思う。>


まずは、日本の文化や伝統について理解する努力をすべき、ということ。それを阻害する最大の要因は、自己中心的な発想か、白人至上主義のような思いあがりや傲慢さではないかと思う。