いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

旧体制の反攻

2006年06月05日 00時00分22秒 | 俺のそれ
ホリエモンに続いて、村上ファンドにも司直の手が及んだ。かつて書いた記事(プロ野球界の「壁」)での自分の印象というのが、非常に甘いものであったと思い知らされた。日本という特別な社会を支えている人たちというのは、易々と退場などしないものなのだ。日本社会のルールをつくり、日本人を支配し、集団をコントロールする人たちは、未だに影の存在として君臨しているのだ・・・。

日本という社会は、本当は何も変わってなどいなかった。


以下に、単なるフィクションを書いてみようと思う。


表舞台から消し去られた守旧派たちは、ひっそりと息を潜めていた。彼らは、それまで占めていた主要なポジションを次々と追われていった。反乱軍の先頭を突き進んできたのは、時代の旗手と目された人たちだった。


華々しく登場した最初の男は、時代の寵児ともてはやされたが、羨望と怨嗟の渦に身を投じて、法の裁きを受けることとなってしまった。まさか自分自身にそうした災難が降りかかることになるとは、予想だにしていなかったであろう。

結果的に、彼があぶり出すことになってしまった閉鎖的序列社会の長老たちは、次々と非難を浴びて社会の日影に追いやられてしまった。それまで築き上げてきたものを、奪われてしまうことになった。その時の恨みの大きさというのは、筆舌に尽くしがたいものであったろう。永遠に癒すことのできない深い傷を負わされることになった彼の所業は、憎んでも憎み切れない、激しい嫌悪感と怨恨を心に刻みつけた。彼の、完全な破滅をもたらすまでは、長老たちが彼を許すことなど絶対に有り得なかった。

そうして、彼は追い込まれていった。自らの勝利を確信したことが、大きな油断を招いた。順調と思えた戦果には、「埋伏の毒」と同じく息の根を止める為の計略が仕込まれていた。一時的な敗北や撤退は、最終的な目標―彼を葬り去ること―の大きさに比べれば、ささいな損害に過ぎなかった。恐らく、もう1人の成功者のように、閉鎖社会の掟に従い、長老たちの末席に列するという選択をしていれば、彼は抹殺されることはなかったであろう。

権力に傅き、年長者を敬い、長老たちから差し伸べられる手に素直にキスをする覚悟があれば、きっと成功者の1人として、長きに渡り権力の一部の恩恵に浴し、歴史にも名を残すことができたであろう。しかし、彼にはそういった臭いを発しているような長老たちへの拒絶感と、あくなき欲望と、自己への絶対的な自信があったのだった。彼がもっと貧乏で、愚かで、そして、低い志しか持たず誰にでも靡きやすい、野心のない男であったなら、旧体制を破壊することもなく、静かに空いた席についていたに違いない。それが彼にとっては最も望ましい選択となっていたはずだ。だが、そうした道を選んだりしなかった。そのことが彼の破滅への、もう一つの道へと彼を導いていったのだ。

大衆はそうした道の行く先を知ることはない。どこの道を歩くのか、興味深々ではあっても、道の選択も行く先にも無責任なのだ。そして、地獄への道を選択してしまった時、堕ちて行った者へも、その後の顛末にも興味を失う。というより、忘れる。それが、もてはやした人々の流儀でもある。


彼の破壊した秩序と体制は、外から見れば無残にも壊れてしまったように見えるが、実際には完全破壊から免れていた。その破壊の代償は、彼にとって非常に大きなものとなった。

特捜部の逮捕劇―それは彼の最も好きな作戦、「電撃作戦」で行われたのだった。



池に投げ込んだ石について

2006年06月03日 19時14分45秒 | 俺のそれ
私の行動が、正しいなんて思いません。それは否定しません。しかし、敢えて池に石を投げ込みました。これも、意図があってのことです。以前の時にもそうですけどね。その非難は甘受したいと思います、当たり前ですけど。

ご迷惑をかけてしまったことは事実ですし、それについてはお詫びしたいと思います。



自分の意志や立場の表明なのであれば、何を言おうと構わないと思います。ふざけたり、嘲ったりすることだって、あるでしょう。まあ、個人の自由ですよね。学者たちにしても、他の立場の理論には明瞭に批判をしていることもしばしばですし。それは別にいいと思いますが、単に「~学を知らないで議論なんかするな」ということを、他人に求めることがいいとは思わない、というのが私の考え方です。経済学の理論を用いて考える事は、あくまで手段の一つを知っているというだけだろう、ということです。何かの絶対的基準を示したり、他人の価値判断に踏み込むことなんかできないのではないかと思えます。そういうことを認識した上で、経済学の理論に沿って主張するのは、「一つの意見・考え方」の提示として有用であると思います。


私は貸金業の市場構造について、「寡占市場」と誤ってコメント欄に書いてしまった(この記事のコメント欄の一番最後)のですが、47thさんの記事を読んで初めて「独占的競争」という言葉を知りました。それまでの意見の多くは、貸金業の市場構造については、「(完全)競争市場」という捉え方だったのでは、と思います。件の早稲田大学消費者金融サービス研究所のペーパーでも、そういう前提でシミュレーションが行われておりますが、それには疑問を感じました。

しかし、「経済学をよく知っている」と自認しておられるかどうかは不明ですけれども、経済学に詳しいと思われるような人々は、「競争市場」として通常の需給関係(何と表現するのかは不明ですけど、とりあえず)であるという前提と、均衡金利水準の存在範囲が判っているものとして、金利規制に対する反対意見が述べられていたと思います(違ってるならゴメンナサイ)。「マークアップ」についても同様です。その可能性については誰も述べておらず、47thさんの記事で言及があったのを見て、初めて知ることができました。


つまり、ある人たちにとっては、そういった解釈や可能性については、もっと前から答えが判っており、それ故に市場構造について疑問を感じたりしないし、件のペーパーのシミュレーションも妥当であると判断しているのではないかと思えます。ならば、独占的競争状態については反対の立場をとるはずではないかと推測していますが、今の所そういう反対意見はお目にかかっていません。


特に一部の方々にはご迷惑をかけてしまって申し訳なかったのですが、石を投げ込むことによって、結果的には、いくつかのことが判りました。


学術的な信頼性、意見の質や理解レベル、要求水準、専門性と思考過程、みたいな感じで、色々と考えさせられました。ありがとうございました。



「複雑な生態系」~47thさんへのお答え

2006年06月03日 18時31分37秒 | 俺のそれ
47thさんからコメントを頂戴しておりましたが、お返事が大変遅くなりました。お詫び申し上げます(下の記事へのコメントです)。

貸金業の上限金利問題~その13
数字の大きさ


今までにも何度か申し上げておりますが、決して経済学の理論で考えることに文句を言いたいのではありません。経済学そのものに違和感を持つ訳でもないのです。ただ、ある種の絶対的モノサシという感じで、経済学理論や正当性を主張する人々が一部に存在するということには、違和感があります。


頂いたコメントの中から、一部引用させて頂きます。

『こうした複雑な生態系が成立しているところに、「上限金利」という単一のバーを課してしまうと、非常に副作用が大きいんじゃないかというところで、手段としての「上限金利」規制には反対というところに戻ってくるんですよね。

ちょっと上限金利規制という手法の問題点ばかり強調し過ぎてきましたが、私の基本的な立場は、色々な症状が出ている病人に対しては、それぞれの原因をきちんと観察した上で、その原因に見合ったきめ細かい治療計画を立てるべきというものですので、上限金利規制を否定する代わりに、きめ細かい治療計画の方向性や見つけ方(のヒント)ぐらいは提示したいと思っていますので。』


47thさんからこのように仰って頂けたことは、本当に感謝しております。素人の世迷言にお付き合いさせてしまって、申し訳ないです。でも、私なんぞが何かを言っても何の意味もないでしょうが(笑)、信頼のある人であれば多くの人はその論を受け入れるのではないかと思います。なので、47thさんが詳しく論じて下さっておられるので、大変有り難いです。


上限金利規制が妥当な判断かどうかについては、実際のところ私にはよく判りません
貸金業の上限金利問題~その12)。個人的には上限金利引下げを支持してきたのですけれども。元々の個人的な嫌悪感というのがあるのかもしれません。多くの人々を悲しませるような商売には、必ずどこかに間違いがあるはずだ、という思い込みがあるからだろうと思っています(笑)。


確かに政策パッケージということで考えるならば、あまり推奨できない可能性もありますね。では、市場ルールに任せておいてきちんとなるかと言えば、今までには実際ならなかった訳で、その為に「規制をどうするか」という所にまできているということも考えるべきではないかと思えます。有効な方法が見つかって、それによって相当程度の効果が期待できるのであれば、「絶対に上限金利を引下げろ」とまでは言いませんけれども、最終的な判断は懇談会の議論に委ねてみようと、とりあえずは思っています。


また、貸金業界が「複雑な生態系」であるからこそ、単一の規制は慎重にするべきだ、というのは、まことにその通りだと思いました。しかし、「複雑な細菌叢」を構成する細菌群の中に、「害毒」を撒き散らす悪い菌種が増えてしまって病気が悪化してしまうなら、たとえ全くの無害か善玉と思われる細菌が一緒に生息していても、「抗生物質」で一気に叩くしかない、という場合もあるのではないかと思えます。「抗生物質」を使えば「いい細菌」も一緒に死んでしまうことが判っていても、あるいは交代現象が起こりえると判っていても、「使わざるを得ない」という場合は存在します。

今の状況がそこまで深刻な状況なのかどうかは、色々と議論のあるところでしょうけれども。その判断は誰がどうやって行うか、ということは難しい面があるかと思います。たとえば「死亡率1%」ということへの評価は、「多い」と判断する人と、逆に「少ない」と判断する人がいるので、どこの水準で線引きを行うのか、簡単には答えが出せず、検討が必要かもしれないですね。


貸金業界にしても、大手の新規貸付は20代、30代で約3分の2を占めますから(特に20代は半分近くです)、この傾向が継続していけばいずれ問題が発生することになるでしょう。少子化によって、若年人口が減少していくためです。今までは新規貸付の拡大によって貸倒損失をカバーしてきましたが、そのビジネスモデルも限界に近づくでしょう。貸倒率が経年的に上昇してきており、他方で新規貸出が頭打ちになれば、貸倒損失の拡大はモロに営業利益減少につながります。更に大手貸金業の信用供与額が段々と減少すれば、今後の「調達金利上昇の可能性+貸倒率上昇傾向」で、苦しむことになるのではないかと思っています。


実は当初から、あまり懇談会の資料などは見てなかったのですが(量的に膨大で、自分で資料を全部見ていくのは大変なので・・・)、一応いくつか見ていきますと、議論の中で、超過需要の話も外国の広告規制の例なども出ていて、案外と論点は広くカバーされているような印象でした。個人の印象ですから、当てにはならないのですけど。特に私の場合には(笑)。

闇金が増加したワケ(追加あり)の一番下に資料が入れてあります)


今後、47thさんの記事で「政策パッケージ」としてのご提案を、コッソリ待ちたいと思っています。凄く期待しています。余計なことを書くと、かえって負担に感じられても申し訳ないのですが。スミマセン。無理のない範囲でよろしいので・・・って、借金のCMみたいになってしまいましたね。



出生率に怯える社会

2006年06月02日 21時20分21秒 | 社会全般
報道でかなり取り上げられていたので、今更感が漂い申し訳ないが、一応思う所を書いておこう。

合計特殊出生率は1.25だそうで、これも仕方がないのかもしれない。「人口が減って大変だ」と言うのだが、私が生まれた頃には1億人もいなかったのだ。40年前というのはそういう時代であり、それでも日本人は普通に生活していたのだ。逆に今の状態が、「多すぎ」なのかもしれないね。


生物というのは、縄張りとかテリトリーみたいなものがあったりするから、人間も自分の「生活空間」というかテリトリーが侵されてしまうと、過密状態となってしまうのが問題なのかも。通常、個体数の過密は高ストレス状態となることが想定され、その為に異常個体や免疫力の低下した個体などが多くなると思う。また、「非常に攻撃的なオス」なども登場する確率がアップするのではなかったかな?人間が他の動物の繁殖と似ているかどうかは判らないが、今の日本は極めて「ストレス負荷の大きい」社会環境であり、繁殖力が低下することも止むを得ないのかも。


沖縄の出生率の高さは、ある意味気になりますよね。産みやすい環境なのかもしれないし、「若年層の失業率の高さ」とか「教育投資(学歴)の額」というような他の要因が関係するのかもしれないし、よくわからない。ベッカー先生が言うように、収入がある程度増えると子供の高学歴化へ向かう、ということがあるとすれば、「所得の少なさ」とか「教育投資額の少なさ」とか、そういうことが影響するのかな、とも思ったりするんですよね。でも本当は、沖縄って長寿の人が多いからそういう年寄りの話などを聞かされていて、「子育てはいいものだ」と感じている若者が多いからなのかもしれない。友達が結婚してかわいい子どもを産んで育てているのを見たら、通常は「超ーカワイイ」と思ったりするんじゃないかな、と。


なので、産んでるグループの周りは結構産んでるようにも思える(笑)。それは所得階層にはあまり関係ないように感じるけどね。

東京は1を切ってしまったけど、まあ仕方がないよね。「結婚したい若者は田舎へ行こう!」とかやってみる?地方で産んで育てた若者を「東京」に供給してしまうようなものかもしれんな。新入社員をある程度育てたところで「ヘッドハンティング」にあってしまい、どこかに引き抜かれて行ってしまう、というようなことと似てるのかもしれない(笑)。


話は変わりますが、出生率の問題は「年金問題」に直結しているんですよね。当然のことながら、年金問題の専門の学者なんかもたくさんいるようですが、これも例に漏れず主張や話がバラバラなんですよね。04年の年金改革の時、5案くらいあったらしいんだが(また「らしい」ですか、笑)、今の改革案に強行採決されてしまったのです。改革案の出生率を(前年実績の)1.32として計算して、07年に1.31の底をつけた後、漸増するという前提で保険料率のアップや、マクロ経済スライド、物価スライドなどが入れられたのです。マクロ経済スライドというのはクセモノで、必ずしも下げられるということではないからね。プラスがあまり大きくなかったり、そもそもマイナス改定の時にはそこからは下げられないからね。まあ、これは本題ではないからいいけれど、問題は現在の年金の構造上、払う人が減ると、給付削減か保険料率を上げるかしかないんですよね。


04年当時、「本当は1.29騒動」というのが持ち上がって、でも、法案を強行採決した後に公表したように思うけど、忘れた。重大な問題は、年金財源がピンチ、ということ。厚労省は「1.32」から最低でも「1.31」だろ、という前提で計算していたから、今とは全然見通しが違うんですよ。


<ちょっと寄り道:学者の中には「保険料方式じゃないと減額リスクがある」(=消費税のような方法には反対)とか言う人がいるんですけど、税方式だろうが、保険料方式だろうが、払えないものは払えないんじゃないと思いますけどね。いくら国民に「これだけ給付します」とか口約束をしてようが、払える財源がなければ払えないことに変わりはないと思えます。年金保険料負担者が減少し、受給者が増加していくことに違いなどないのですから。国民年金保険料の免除だろうが猶予だろうが、社保庁が全部自動的に手続きをできるようにしてみた所で、保険料が全額入ってこないことに変わりはないし、コストが増えてるだけではないかと。仮に、それが100%達成できても、未納がなくなるわけじゃないでしょ。免除をいくら増やしても、年金財政の改善になんてならないんじゃないの?むしろ、年金債務の積立不足額が増加すると思うけど。○○ってのは、本当に××が多いね。>


話を戻しますと、出生率が1.32から1.25まで0.07ポイント低下していますので(予想よりも0.06ポイント低い)、平準保険料で言えば1.3~1.5ポイント相当分に該当すると考えられ、それだけの保険料率アップが必要になるか、給付削減を行う必要が出てくるでしょう。たった2年前の再計算でなんとか誤魔化したばかりの年金改革でしたが、もう予定が大幅に狂ってる、ということですね(笑)。これで、今のままでも十分持続可能である、ということを信じられる人は多くはないと思うね。因みに、約400名の有識者への未来予測アンケート(こんな名称なのかどうかは知りませんが)で2050年時点の出生率を聞いたそうですが、1.10が最多だったそうですよ。でも厚生労働省は1.39と言ってるんですけどね。


現在の年金保険制度は、「ポンジー方式」(笑)なので将来世代の人口が減少すれば、現状維持を続ける限り必ず破綻します。たとえ年金改革で保険料率を上げ、給付を抑制したとしても、少子化と保険料未納などの減収によって年金財源は悪化するし、給付水準を維持することなど出来ないでしょう。もしも出生率が0.1ポイントとかそれ以上の大きな水準で厚労省予測と乖離していれば、年金積立不足額は百兆円とかそれを超える額が予想され、その分を誰かが払い続けない限り維持出来ないでしょう。


<また寄り道:「ポンジー」とは、チャールズ・ポンジーのことで、ネズミ講を行ったアメリカ人です。ヨーロッパでは1セントで売られていた国際返信用クーポンが、アメリカでは10セント切手と交換でき、何と10倍の交換率だったのだそうです。これに目を付けたのは良かったのですが、交換した10セント切手を売りさばけなかったのだそうです。で、「3ヶ月で50%の利益」を謳って出資者を集め、出資者達がどんどん増加していくので、利益の支払いを続けることができたのだそうです。ところが密告によって逮捕されました。蓋を開けてみると、実は切手の交換事業なんかやってなかったんですね。後から後から申し込みがやってくるので、増え続ける間は支払いが可能なのだ、ということです。年金も保険料を払う人が増え続ける間はいいのですが、減ってくると・・・・>


出生率が低下すると、その後ずーっとその影響を受けることになりますから(途中で増えることはないので、移民でも多くするなら別だけど)、年金制度の改正を早く行う方が後々の苦痛は少なくて済むと思うのですけどね。これから毎年、下がり続ける出生率の話が出るたびに、「年金は・・・」と心配せねばならんというのも、勘弁して欲しい。国債の残高よりも年金債務の方が大きいかもしれないのにね。