新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

革命を体験していない日本では保守もリベラルも】まだまだ未熟で熟成中である

2024年08月02日 11時07分40秒 | 政治

パリ五輪のおかげで、朝のある民放テレビに、毎週金曜日しか出演しない元プロ野球選手崩れが連日出演し、あたかも自分が経験していない種目でも「物知り顔」でコメントしていることには辟易してしまう。
 
したがってパリ五輪関連ニュースは見ないことにしている。

しかしネット記事には、パリ五輪の開会式に関して、正反対の評価があった。
 
藤井聡(京都大学大学院教授は開会式に関してはこんな評価をしていた。
 
パリ五輪『開幕式』で露呈した日本とフランスの“圧倒的な国力の差”。京大教授が「高校の文化祭レベル」だった東京五輪を思い出し屈辱を感じた理由
 

■パリ五輪『愛の讃歌』の凄まじさ。思い出さざるを得ない、世界に「幼児のような三流国」と知らしめた東京五輪の開幕式
当方、五輪なるもの下品な商業主義に席巻された下らないグローバリズムイベントにどうしても見えてしまうので、さして心躍ることはないのですが、開幕式にはいつも、興味関心を持っています。
その国の国力を推し量るのに、とてもよい実験的イベントになっているからです。
どんな国でも、世界中が注目する五輪の開幕式となれば、恥ずかしくないそれなりのイベントに仕立て上げなければなりません。巫山戯(ふざけ)たものやセンスのない下らないことをやってしまえば、外国から侮蔑されてしまうからです。
だから、五輪開催国は国の総力を挙げて「こうすれば外国からセンスがないとは思われないだろうし巫山戯たものだと思われず、おそらくはセンスがあると思われ、一定の尊崇の念を集めることができるのではないか?」と、世界中の人々の評価を「忖度」してイベントをくみ上げるわけです。
だから、その国の五輪開幕式を見れば、その国の美意識やセンスがハッキリ見て取れるわけです。
とはいえ無論、これがいいだのアレがダメだのとの議論は百科騒乱となり、なかなか一つに纏めるのは難しい筈。ですが、そんな多様な意見をどうやって纏めて、一つのイベントを作り上げていくか…ということもまた、その国の力量を推し量る上で重要な要素となります。
ですから、その国の五輪開幕式は、第一に、その国のその時点における一般的国民の美意識・センスのレベルを暗示する重要な情報源であると同時に、第二に、その国がどの程度成熟した実務的実践能力(これは行政能力・実務的政治能力と等価の物です!)があるかを暗示する重要な情報源となるわけです。
はたして今回のパリ五輪はどうだったかというと、少なくとも色んな記事を見てると、ダラダラしたイベントだったとか、LGBTアピールが強すぎるだとか、韓国の紹介が間違えていただとか、アンチ・クリスチャン的要素が最悪だったとかいろんな批判が出ている様子。
このあたりの批判は、フランス革命によってアンシャンレジームを破壊した革命の影響で、フランスも随分と出鱈目な国になったということを指し示すものなのだろう…とは思いますが、当方が唯一目にし、そして、心底感動したのが開幕式のエンディングに登場したセリーヌ・ディオンの『愛の賛歌』の熱唱シーン。
当方、セリーヌ・ディオンという歌手は、そもそもあまり好きな歌手ではありませんでした。自分の歌唱力の高さを鼻にかけているところがあり、ポップシンガーとしてさして好きではありませんでしたが、今回の熱唱には、感涙むせび泣くほどの感動を覚えました。
まだご覧になっていない方は是非、下記よりご覧になってみて下さい。
● 【開会式】セリーヌ・ディオン「愛の賛歌」(TVer)(https://tver.jp/olympic/paris2024/video/6359394953112/)
■思い起こしてしまった東京五輪の「残念」極まりない開幕式
そもそも『愛の賛歌』というのは,フランス人にとっての「大衆」歌謡曲である「シャンソン」の代表曲であり、世界中の人が知る曲。いわば、フランスの誇りとなり得る一曲。
この曲が素晴らしいのは、そのメロディと共にその歌詞。何という素晴らしい歌詞なのでしょう…というような素晴らしい歌詞です(そう感ずるのはフランス人だけでなく、当方だけでなく、世界中に数限りなくおられる、本当に素晴らしい歌詞です)。
愛の讃歌日本語の意味?和訳と解釈は?パリオリンピック開会式 (https://mamareads.wpx.jp/ai-japanese/)
なんと素晴らしい言葉の数々でしょう…。
この素晴らしい言葉とメロディを、歌うのがセリーヌ・ディオン。
彼女は勿論カナダ人。フランス人ではありません。
しかし彼女はフランス系のカナダ人。というか、カナダ人は8割以上が、実はフランスからの移民の子孫であるところのフランス系の人々なのです。したがって、セリーヌ・ディオンの「ナショナリティ」(国民性)は「カナダ国民」になりますが、「エスニシティ」(民族性)は「フランス人」なのです。
というより彼女の名前はフランス語系の名前ですし、言葉も英語よりもフランス語を母語とする方です。
それはいわば「ほとんど日本語しかしゃべらない日系アメリカ人」の様な存在です。そんな方がもしいたら、我々日本人だったら「アメリカにたまたま今住んでいる日本人」だと認識することでしょう。
しかも彼女は、1995年に発売されたフランス語アルバム『フレンチ・アルバム』がフランス国内で400万枚を超える歴代最高の売上を記録しています。そしてこの功績により翌年1996年にフランス政府より芸術文化勲章を授与されています。
その彼女は、スティッフパーソン症候群という難病にかかり、歌えば激痛が走るため、長い間歌えなかったとのこと。そんな中、今回の開幕式での「復活」とあいなった次第。
そして彼女が歌い上げた舞台は、これもまたフランス、パリを象徴するエッフェル塔。
すなわち、100年ぶりとなるパリ五輪の開幕式は、フランスの国力の象徴とも言えるフランス人移民を中心に作り上げた北米国家のフランス人の末裔であり世界を代表する歌姫のセリーヌ・ディオンが、世界中の人々が知るフランス・パリの象徴であるエッフェル塔で、世界中の人々が知るフランスの大衆歌謡を歌い上げる演出でエンディングを迎えたのです。
それは「フランス」という一つの大国の文化的、社会的、政治的な水準の高さを世界中に見せつけるイベントだったわけです。
当方は、このセリーヌ・ディオンの歌で感激をしながら、前回の日本の東京五輪の「残念」極まりない、というより「世界中の人々に恥ずかしいことこの上ない」開幕式を思い起こし、次のようにX上でツイートいたしました。
 

難病と闘うセリーヌ・ディオンの「愛の賛歌」の素晴らしき歌声に心の底から感激しつつ,我が国日本の前五輪開幕式を思い起こし重ね合わせ,日本とフランスの国力にここまでの差が付いているのかと悲しく感じたのは私一人ではないのではないかと…思います
当方はこのツイートに反発する日本国民は大量にいるだろうし場合によっては少々炎上気味になるかも知れないと思い、少々ツイートすることがためらわれましたが、この「恥」を契機として、再び誇り有る国家日本を目指す気概を喚起するためにも、改めてツイートする事と致した次第です。
■日本を二流国、三流国であることを知らしめた東京五輪の開幕式
本メルマガの読者の皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか?
(ちなみに、「いいね」率はおおよそ2%程度で、当方が当初予定していたよりも多くの方々に肯定的に共感されているようです)
僕は前回の東京五輪の開幕式は、日本はここまで落ちぶれたのかということを思い知らされる大変につらく悲しい思いをするものでした。日本人の内輪のノリしかできないお笑い芸人が登場し、高校の文化祭のような世界には全く届きようのない演出が繰り広げられ、外国の技術(米国インテル)が運営するドローン演出を行い、挙げ句に本来陛下を思い国民皆で謳う国家をソウルソングの様にうたいあげたあの五輪は、日本は要するに「子供」というよりも「幼児」の二流国、三流国であることを世界に知らしめるに十分なイベントだった…と筆者の目には映りました。
その一方で、あのセリーヌ・ディオンがうたいあげるあの時間は、フランスの威光をこれでもかこれでもかと知らしめる、フランスという国が成熟した「大人」の国であることを明らかに知らしめるものでした。
あの歌だけが素晴らしく、後は最悪のイベントだったという声も有るようですが(当方はそうは思いませんが)、仮にそうだとしても「あの瞬間」があるだけで、フランスの国力と日本の国力がここまで開いてしまったということが誰の目にも明らかになる開幕式エンディングであったと強く思います。
本当に、日本人であることが恥ずかしく、悲しく感じます。
この「屈辱」を胸に、奮起する国民が一人でも二人でも増えん事を、心から祈念したいと思います。万一、そういう国民が他におられなかったとしても、当方一人だけでも、これを契機として、日本を誇り高き国にするために自分自身でできうる限りの事に全力で取り組んで参りたいと思います。そして繰り返しますが、そう思う日本人が一人でも二人でも増えん事を、重ねて祈念したいと思います。

 
「愛の讃歌」は日本では越路吹雪が歌う場面が印象に残っているのだが、同じパリの開会式では実像ではない怪しげな映像と音楽があ余りにも酷かったと「酷評」している御仁がいた。
 
パリ五輪“生首ギロチン開会式”本当の大問題は何か?小林よしのり氏が疑問、なぜ日本の「保守」も「リベラル」も黙っているのか
  
■パリ五輪「マリー・アントワネット斬首ショー」の何を批判すべきか?
パリ五輪開会式における「マリー・アントワネットの生首」の演出が物議をかもしている。

ところが日本の「識者」からは、ろくな批評が出て来ない。中には「常識人に不快感を与える」から表現として芸術として良かっただの、「マンネリ化していたのがすべて吹っ飛んだ」だのと、狂っているとしか言いようのない評価まで出てくる始末である。

開会式のショーはそれぞれテーマがつけられた、いくつかのパートに分かれていて、問題のシーンは「Liberte」(リベルテ=自由)と題されていた。
フランス革命の際、王妃マリー・アントワネットがギロチンにかけられるまで実際に投獄されていた建物「コンシェルジュリー」の窓に、自分の生首を抱えたマリー・アントワネットが立つ映像が映り、その生首がフランスの革命歌『サ・イラ』の冒頭を歌う。

それに続いてデスメタルバンド・gojira(ゴジラ)がその続きを爆音で演奏し、コンシェルジュリーが真っ赤な砲火に包まれる。

クライマックスには、あちこちの窓からギロチンの血しぶきを表現した真っ赤な紙テープが噴射され、ジャンヌ・ダルクに扮した女性が、その血を浴びながら気持ちよさそうに革命歌を歌う…というのが、そのショーだった。

泉美木蘭さんがブログで紹介してくれたが、マリー・アントワネットの生首が歌っていたのは、こんな歌詞だ。

Ah! ca ira, ca ira, ca ira
les aristocrates a la lanterne!
Ah! ca ira, ca ira, ca ira
les aristocrates on les pendra!

ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯に吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!

● パリ五輪の開会式でマリー・アントワネットの生首が歌う。

このあとgojiraとジャンヌ・ダルクが原曲の通りに歌ったかどうかはわからないが、「サ・イラ」の歌詞はこう続く。

吊るすのでなけりゃ
奴らを壊そう
壊すのでなけりゃ
奴らを燃やそう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯に吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!

われらはもはや貴族も聖職者ももたぬ
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
平等があまねく支配するだろう
オーストリアの奴隷もこれに従うだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
そしてそれらの忌々しき連中は
地獄に落ちるだろう
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを街灯へ吊るせ!
ああ!うまくいく、うまくいく、うまくいく
貴族どもを縛り首にしろ!
そして全員を吊るしてやったら
奴らのケツにシャベルを突き刺してやれ

● パリ五輪の開会式でマリー・アントワネットの生首が歌う。
これが、フランスが「Liberte」と題して全世界に披露したショーなのだ。
フランス人にとって「自由」とは王妃をギロチンにかけ、貴族や聖職者たちを血祭りに挙げたことをいうのである。
■暴力によって歴史を寸断してもいいと考えるリベラル
問題は、フランス人があの表現を「誇り」だと思っているということだ。
開会式のショーでは、LGBTのダンサー(どらぁぐクイーンとかいうらしい)が名画「最後の晩餐」のパロディを演じるシーンがあり、「キリスト教を揶揄している」という抗議の声が挙がっている。
演出家は「多様性」を表現したかったと言っているようだが、これもやはり、フランス革命で宗教を否定したことに対する誇りが根底にあるのだろう。
いずれにしても、それがその国の誇りだというのなら仕方がない。フランスが、王も王妃も貴族も聖職者もギロチンにかけまくった、人殺しの過去を誇らしいと思っているのなら、それを他国の者がどうこう言うこともない。
しかしそれを見せられる側としては、特に日本人を始めとする今も君主制を採っている国民としては、眉を顰めたり、くだらないと思ったりするのは当たり前のことだ。きっとイギリス人だって、そう思っているだろう。
イギリスの哲学者で「保守思想の父」といわれるエドマンド・バークは最初からフランス革命を完全否定し、『フランス革命の省察』を出版した。
国家の歴史の上に長い年月をかけて醸成されてきた政体を、単に一時的な感情によるものかもしれない暴力によって倒すということに対して、バークは嫌悪感を持った。このバークの考えこそが、「保守」の出発点である。
一方、フランスの「リベルテ」を英語でいうと、「リベラル」である。
ここで改めて「保守」と「リベラル」の定義をしておこう。
以前、「保守」とは「右翼」、「リベラル」とは「左翼」を言い換えたものだと説明したが、今回はそれを少し違う表現で論じることにする。
リベラルとは、歴史の蓄積による知恵の力よりも、人間の「理性」の力の方が上位であるとする考え方のことだ。
リベラルとは本来「自由」という意味だが、ここでは人間の「理性」の赴くまま、自由に行動するという思想となる。
人間には価値観の基準となる「理性」というものが備わっていて、宗教より健全な、より良き観念で、人々をより良きところに導いていくものだというのが、リベラル思想の基本だ。
だから「理性」が望むのなら、自由に暴力を振るえばいいということになる。
一般的に暴力的な行動をとると「理性的ではない」などと言われたりするが、暴力も含めて人間の「理性」がより良き判断をして、より良き行動に移すものだと信じるのがリベラルであり、暴力によって歴史を寸断してもいいと考えるのがリベラルなのだ。
リベラルとは、そう定義するしかないものなのである。
このような本当のリベラルの定義を、日本でリベラルを自任している人は、よく考えた方がいい。
繰り返すが、人間の理性の力を信じるというのが、フランス革命に発するリベラルの考えである。
これに対して、人間の理性なんてものは非常に曖昧で、何も確実性や真実性はないと主張したのがエドマンド・バークであり、それが保守思想の原点となった。
つまり「保守」とは、人間はそんなに素晴らしいものではなく、間違うこともあるということを大前提として、それよりも先人が重ねて来た歴史の知恵の蓄積を大切にしようという考え方である。
バークの考察は、いま見ても当たり過ぎるくらい当たっていたと言うしかない。
■隣国の歴史に学ぼうという冷静さが皆無だったフランス人
イギリスではフランス革命から140年さかのぼる1649年、ピューリタン革命が起きた。
鉄騎隊を率いて国王軍・スコットランド軍を打倒したオリヴァー・クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑して王制を打倒。イギリスは共和制となった。
しかし革命の英雄として権力を握ったクロムウェルは、次第に独裁的な政治を行うようになり、ついには軍事独裁体制を作りあげ、共和政は実質的には棚上げにされ、反発が強まっていった。
そしてクロムウェルの死後に王政復古の新体制が作られ、共和政はわずか10年で終了した。
だが王政が復活すると、ジェームズ2世の専制政治が国内外に反発を生み、1688年、名誉革命が起こる。
イングランド議会と結託したオランダ総督ウィレムが率いるオランダ軍がイングランドに進軍。ジェームズ2世は海外逃亡し、議会は王位の空座を宣言、オランダ総督ウィレムをウィリアム3世とし、その妻メアリ2世と共に君主としたのである。
そして議会は「権利章典」を定め、これにより国王も憲法によって権利が制限される「立憲君主制」の基礎がつくられたのだった。
このような歴史を熟知していたからこそ、バークはフランス革命に反対したのだろうし、フランス人にも隣国の歴史に学ぼうという冷静さがわずかでもあれば、少しは違った歴史になっていたかもしれない。
歴史の知恵や伝統とは、ワインのように熟成されていくものである。
ワインは醸造された時点で完成というわけではない。樽やボトルの中で熟成される。熟成とは「変化」である。ワインは一定のところで固定された、不変のものではない。常に変化し続けているのだ。
ところが、こういう認識が日本の自称保守・馬鹿保守には全くない。
自称保守は、伝統といったら永久不変で、絶対に何ひとつ変えてはならないものだと思い込んでいる。これはワインで言えば、樽詰めされた瞬間のワインが完成品であって、熟成されたものはワインじゃないと言っているようなものである。
「先例」は「掟」であり、天皇であろうと一切変えてはいけないのダー!!などと叫ぶような考えは、保守でも何でもない。何ひとつモノを知らない、無知蒙昧の野蛮人だというだけのことである。
ワインには「何年もの」といって価値の出るものがあるが、何年間熟成したら出来上がりと決まっているわけではない。その時のブドウの果実や種、果皮の質によっても違ってくる。
歴史の知恵も同様に熟成していくもので、何年経過したら出来上がりと決まっているわけではない。
わしは「SPA!(7月2日号)」に掲載した『ゴーマニズム宣言』で、「キリスト教だって、誕生した時はカルトみたいなものだったともいわれる。今でもカルト性は残っているようにも思うのだが、それでもキリスト教は誕生してから2,000年を経過している」と描いた。
つまり、キリスト教は2,000年かけて熟成され、そこに歴史の知恵といえるものも生まれているということである。
人間の「理性」を信じるという235年前のフランス革命に始まった思想にしても、わしにはカルトにしか見えないのだが、それをずっと熟成させていき、さらに100年、200年、300年とかけていけば、そこに変化が生じて、何らかの知恵が生まれてくるかもしれない。
ところがリベラルの人の中にはフランス革命を絶対視してしまって、フランス革命こそが原点であり、行き詰ったらフランス革命に戻ればいいとか言い出す者までいる
それは要するに、時代による変化を一切認めないということであり、それではリベラルといっても、日本の自称保守と思考が何も変わらないことになってしまう。
問題となるのは、フランス革命が生んだ理性主義や人権思想、そこから発生した民主主義というものが、これから長い時間を経ていくうちに、歴史の知恵といえるものになるまで熟成されていくかどうかということである。


 
やはり、与えられた日本の「民主主義」は熟成するまでにはまだまだ長い年月が必要なのであろう、とオジサンは思う。  

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