新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

Z世代」の若者との付き合い方

2023年08月17日 11時36分23秒 | サッカー

毎年、9月1日に東京都内で開かれる、関東大震災の朝鮮人虐殺犠牲者の追悼式典が近づくと、必ず話題になる、この不愉快な都知事の姿勢。
 
小池百合子都知事が朝鮮人虐殺の追悼式に追悼文を今年も送らない方針 7年連続 「目を背けている」と批判も
 

9月1日に東京都内で開かれる、関東大震災の朝鮮人虐殺犠牲者の追悼式典について、小池百合子都知事が追悼文を送付しない方針であることが分かった。小池知事の送付見送りは7年連続。今年は震災から100年の節目の年となる。式典を開く実行委員会は「虐殺から目を背けている」などと批判している。
 会場の都立横網町公園(墨田区)を管理する都建設局公園緑地部は、送付を断った理由について、同日に同じ会場で都慰霊協会が大法要を催し、小池知事が「大震災と極度の混乱の中で、犠牲となられたすべての方々に哀悼の意を表す」ことを挙げている。
 追悼式は1974年に始まり、2006年以降は歴代知事が追悼文を送付してきた。小池知事も就任1年目の2016年は送ったが、17年から送付を見送っていた。
 22年には、都人権プラザ(港区)で関東大震災の朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映が中止され、関連した都職員のメールで小池知事の対応に言及していた。
 実行委は今年7月、小池知事あてに送付再開を求める文書を提出していた。宮川泰彦委員長は取材に「全くもって遺憾。知事は朝鮮人虐殺の歴史的事実から目を背けている。歴史的事実を否定しているとも捉えられる姿勢だ」と話した。

 

 
そもそも自民党出身の「タカ派」に近い小池百合子なので、確信犯的な行為なのだろう。
 
不愉快な話はこれで終わり、大きく話題を変えて、日本経済を語る際、かならずと言っていいほど使われる「失われた30年」という言葉をメディアでよく耳にする。
 
失われた実態は本当なななのか、個人的には大きな実感がない、
 
『在米14年&起業家兼大学教授の大澤裕が、ニューヨークタイムズに掲載された、日本経済を評価する経済学者のポール・クルーグマン氏の意見記事を紹介しつつ、さらに日本を停滞した社会とする見方を全否定するクルーグマン氏の言説を引きつつ、自身の見解を記していた。
 
ノーベル賞経済学者が評価。実は「失われていない」日本経済の30年
 
■日本経済:失われていない30年
「失われた30年」とよく言われます。バブル崩壊直後の1990年代から今までの経済成長の停滞の事です。
この言葉、当然のように語られてきまた。
しかしノーベル経済学賞の受賞者ポール・クルーグマンがこれに反対する意見をもっています。
紹介するのはニューヨークタイムズの7月25日に掲載されたの彼の意見記事です。
意見:日本に何が起こったのか?
1980年代後半、日本はとんでもないバブルに見舞われ崩壊した。
現在でも、日経平均株価は1989年のピークを大きく下回っている。バブルが崩壊すると、経営難に陥った銀行や過剰な企業債務が残され、それが何世代にもわたって経済の停滞を招いた。
この話には真実もあるが、日本の相対的な衰退の最も重要な要因を見逃している。
少子化と移民受け入れの消極性のおかげで、日本の生産年齢人口は1990年代半ばから急速に減少している。
日本が経済規模の相対的縮小を避ける唯一の方法は、労働者1人当たりの生産高が他の主要国よりもはるかに速い伸びを達成することだったが、それはできなかった。
しかし、人口動態を考えれば、日本はそれほど悪い結果にはなっていない。
以下は、1994年以降の生産年齢人口1人当たりの実質GDPの日米比較である。
グラフ:1994年を1として2022年で米国は約1.58、日本は約1.45
人口動態を調整すると、日本は(アメリカほどではないが)著しい成長を遂げている。
人口増加が弱い国は完全雇用を維持するのが持続的に困難になる傾向がある。
しかし、日本は実際、大量失業を回避してきた。その指標のひとつが、働き盛りの男性の就業率である。日本では高い水準を維持している。
日本の経済パフォーマンスは、実際にはかなり良かったということだ。確かに、雇用は大規模な赤字支出によって維持されてきた部分もあるし、日本の借金は急増している。
しかし日本は債務危機に陥っていない。
ある意味、日本は一種のロールモデルである。つまり、繁栄と社会的安定を維持しながら、困難な人口動態を管理する方法の見本なのだ。
解説
よく一人当たりGDPの国際比較はされています。しかし労働生産人口一人当たりGDPをみるのは、新しい視点のように思います。
「生産年齢人口が減少する中で日本経済はよくやっている」というのがこのノーベル経済学賞受賞者の意見です。労働生産人口の一人当たりの生産性はしっかりと上昇しているというのです。
そして、これから労働生産人口世代が減少する中国は、とても日本のようにうまく対応できないだろうと言っています。
こういった視点の分析、もっとされてよいですね。
 さらにポール・クルーグマンは言います。
私が話した多くの人々は、日本社会は多くの部外者が思っているよりもはるかにダイナミックで文化的に創造的だと言う。
この国をよく知る経済学者でブロガーのノア・スミスは、東京は新しいパリだと言う。
日本人は洗練された都市主義で大成功を収めているのは明らかだ。日本を疲弊し、停滞した社会だと思ったら大間違いだ。

 
賃金労働者たちからみれば、この10年ほどは賃金の大幅なアップはなく、むしろ実態は生活が苦しくなったと思っている国民は多いのだが、「働き盛りの男性の就業率は日本では高い水準を維持している。」らしく、よそを見ればきりがないのだが、「日本人は洗練された都市主義で大成功を収めているのは明らかだ。」というポール・クルーグマンの言葉に勇気と希望をもってもよいのではと思う。
 
最後に紹介するのはサッカーに全く興味のない方はスルーしてほしいのだが、難しい「Z世代」の若者を部下に持つ人に薦めたい記事がある。

朝、一緒に走ってもらえませんか…重圧に苦しむ選手の『懇願』に対し、サッカー日本代表・森保一監督が取った『意外な行動』
 

■「Z世代」を理解するカギ
「最近の若者は、目上の者を尊敬せず、親に反抗、法律は無視。妄想にふけって、道徳心のかけらもない。このままだとどうなる?」
これは大哲学者のプラトンが言ったとされる言葉である。
かの清少納言も枕草子で「最近の若者は、非常に言葉が乱れており嘆かわしい。何から何まで省略してしまうような言葉を使って、みっともない」と嘆いておられる。
こうしたことからもわかるように、「いまどきの若モンは~」との嘆き節は、古来あったようだ。
ここにきて「Z世代」なる言葉を目にしない日はない。これは'90年代半ばから'10年代前半までに生まれた若者のことで、米国の「ジェネレーションZ」に端を発する。
この世代の特徴として、真っ先に挙げられるのがデジタルネイティブであること。物心ついたときからパソコンやスマートフォンなどのデジタル機器が身近にあり、インターネットなどのサービスを当たり前のように享受してきた。
また彼らは、少子化のど真ん中の世代に位置している。参考までに述べれば、少子化という言葉が初めて国民生活白書に登場したのは'92年のことだ。
要約すればデジタルネイティブと少子化―この二つこそが「Z世代」を理解する上でのカギとなる。
では、この世代と折り合いをつけ、成果を得るには、どうすればいいのか。Z世代を率いて成功を収めた二人のスポーツリーダーから学びたい。
まずは昨年冬、カタールで開催されたサッカーW杯において、日本代表をベスト16に導いた森保一(54歳)。日本がW杯本大会で、W杯優勝経験国(ドイツとスペイン)を破ったのは初めてだった。
W杯での手腕が認められ、大会終了後、国際サッカー歴史統計連盟は、森保を「ベスト代表チーム監督」('22年)の5位に選出した。
もうひとりが野球の侍ジャパン前監督・栗山英樹(62歳)である。彼の采配なくして今春のWBCでの侍ジャパンの3大会ぶりの"世界一"はなかっただろう。もしWBCに「最優秀監督賞」が設けられていれば、それは彼のものだった。
■上から目線はご法度
Z世代の若者は、他の世代と比べても「承認欲求」が強いといわれている。その第一の原因は少子化にあると見られる。親から大事に育てられてきたため、"自分を見てほしい"という欲求が特に強いのだという。

そんな世代に対し、"上から目線"でモノを言うのはご法度である。まして人格を否定するような言葉は、絶対に口にしてはいけない。Z世代は言葉に敏感な世代でもあるからだ。
「いろんな監督とやってきたけど、間違いなく一番尊敬できる監督」
こう語ったのは元日本代表キャプテンの吉田麻也(34歳)だ。彼はZ世代の上のY世代('80年代前半から'90年代半ば生まれ)だが、ここまで言われたら森保も、監督冥利に尽きるのではないか。
若い選手の承認欲求を充たす上で1対1の関係構築は欠かせない。1対多ではなく、あくまでも1対1が基本だ。
選手ファースト。チームを率いるにあたり、そう答える監督は少なくない。しかし、それがタテマエにすぎなかったことは、これまでの多くの事例が証明している。
サンフレッチェ広島の監督時代、森保は言葉通り、選手ファーストを実行した。
U-23日本代表として'04年アテネ五輪に出場した森崎浩司(42歳)が、目に異変を感じたのは、五輪直後のことである。
J2からの昇格争いに日の丸を背負う重圧が重なり、睡眠に支障が生じるようになった。
心療内科を受診すると、「オーバートレーニング症候群」という診断が下された。
「睡眠がとれないと疲れが抜けなくなる。最初は睡眠薬を飲んでいたのですが、やっぱり薬に頼ると熟睡は難しい。そうなると朝がだるくなり、徐々に思考力も低下していった。要するに鬱病と同じような症状に陥ってしまったんです」
'12年、森保は監督としてサンフレッチェに戻った。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(65歳)の下でのコーチ以来、3年ぶりのチーム復帰だった。
■選手の心を掴んだ行動
新監督の期待に応えたい―。しかし、その思いの強さが、逆に自らを苦しめた。そこで森崎は正直に自らの体調を森保に打ち明けた。
「その頃の僕はチームメイトと顔を合わせるのも大きなストレスで、一緒に練習することもできなかった。まわりが自分のことを、どう思っているか。それが気になって仕方なかったんです」
ある日、森崎は勇気を振り絞って、森保にこう懇願した。
「朝、一緒に走ってもらえませんか」
普通の監督なら、きっとこう答えるだろう。
「キミの大変さは理解している。だが、それは僕の仕事ではない」
中には「僕は全員の選手を見る立場にある。いくら病気だからといっても、キミひとりを特別扱いするわけにはいかない」とピシャリとはねつける者もいるかもしれない。
「だが森保さんは違いました」
森崎が続ける。
「二つ返事で引き受けてくださり、一緒に走ってました。"今日は顔色がいいね"とか"走りのペースがいいね"とか言いながら。それも1回や2回じゃないんです。
森保さんは、いつも練習場を最後に出るような人だった。次の日の練習メニューも考えなくてはいけない。それなのに、また次の朝が来ると、僕の側にいてくれる。涙が出るほどありがたく感じられました」
そのことについて聞くと、森保はこう答えた。
「まずはサッカー選手というよりも、ひとりの人間としてどのように平穏な日々を送ってもらうか、安心の日々を送ってもらうか。そのことを考えました。サッカー選手としてどうするかは、次のアプローチでした。
僕は奥さんと相談しながら、どうすればいいかを考えました。とにかくこの病気はわからないことだらけなので、彼を追い込まないことだけを意識しました。何気ない一言で追い込んでしまうと、取り返しがつかないことになりますから……」
―監督は激務です。ひとりの選手を救うのは大事だけど、チーム全体の利益を優先すべき、という考えもある。
「目の前に苦しんでいる選手がいる。僕はそれを見捨てることができなかった。サッカーはピッチの中だけでなく、ピッチ外でも、たくさんの問題が起きている。僕はその部分に対しても逃げずに対応してきたつもりです」
吉田同様、森崎もY世代だが、クラブの監督時代に培った経験が、代表でも活きたのだ。
■趣味はピープル・ウォッチング
バイ(1対1)の関係を構築する―。ドイツ戦で決勝ゴールを決めた浅野拓磨(28歳)との間にも、深い信頼関係があった。
浅野は自著『浅野拓磨 奇跡のゴールへの1638日』(朝日新聞出版)で、勝利の瞬間の気持ちを、こう述べている。
〈自分は持っている、やれる。苦しい展開はむしろ好物、ヒーローになるチャンスだ。いつも、そんな風に考えてきた。だけど、いくら自分でそう思っていても、それを実現できる機会が来るかどうかはまた別の話だ。他の監督だったならば、負傷明けでW杯のメンバーに選んでいたかどうか。この大事な初戦で、信じて起用してくれていたかどうか。
 確かにゴールを奪ったのは僕だ。ただ、その僕をピッチに送る選択をしたのは森保さんであり、その選択が生んだ結果だ。この人、本当にすごいな。心の中で言っていた〉
森保は、自らの趣味を「ピープル・ウォッチング」と言うほど、よく人を観察している。それは言葉や行動だけにとどまらない。選手に対しては、人間的成長の歩留まりにまで目を凝らす。
'18年ロシアW杯、森保は西野朗(68歳)の下でコーチを務めた。浅野は最終メンバーに残れず、日本戦をスタンドから観戦した。
「自分が出られないのなら、テレビも観ない」。こう語った選手を私は何人も知っている。サッカー選手にとって、自分のいないピッチを見詰めることほど辛いことはない。気持ちは痛いほど理解できる。
もちろん浅野も例外ではなかった。コロンビアに2対1で勝ったにもかかわらず、〈W杯を現地で見られてよかった、日本の勝利を目にできてよかった、という感覚はなかった。「やっぱり出たかった。悔しい」という思いばかりだった〉(前掲書)
と述懐している。
森保はピッチからスタンドの浅野を見ていた。浅野とはサンフレッチェ時代からの付き合いだ。
「他のサポートメンバーが帰国したり、プレーしている国に戻る中、彼だけがロシアに残り、初戦までいました。彼がスタンドからピッチを見詰めている姿は今も覚えています。4年後にかける思いが、ひしひしと伝わってきました」
'21年10月、カタール行きに首の皮一枚つながったホームでのオーストラリア戦。決勝点のオウンゴールは浅野が誘発したものだった。
森保は続けた。
「あれは彼の得点といってもいい。結果的に、あの勝利が日本をカタールに導いてくれた。最後はW杯への思いが強い選手がやってくれるんだ、と再認識させられました」


 
幸いにも、カタール行きに首の皮一枚つながったホームでのオーストラリア戦。決勝点のオウンゴールと、ドイツ戦で決勝ゴールを決めた浅野拓磨の雄姿をオジサンはテレビ中継で見ていたので、改めて森保一という一人の指導者に改めて敬意を表したい、とオジサンは思う。

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