世間では「10年ひと昔」といわれるが、10年前、一瞬にして家も土地も、そして家族までを奪ってしまった2011年3月11日に発生した東日本大震災。
依然行方不明者も多数いるが、2020年3月7日時点で2,529人となっていたが、今月の4日には、「震災10年を目前、遺体身元判明 行方不明の61歳女性―宮城県警」というニュースがあり実に9年9カ月ぶり遺族の元へ遺体が返された。
まだまだ多くの遺族が行方知らずの家族の帰りを待っており、10年経っても忘れることはできない「想定外の大津波」の傷跡は10年たっても癒えていないほど深いものがある。
今週から10年前を振り返る様々な特集が各メディアで組まれている。
幻となりそうな「2020東京五輪」も当初は「復興五輪」と呼ばれていたが、時の経過とともに、被災地のことは忘れ去られ、昨年からは100年ぶりのパンデミックにより、「人類がコロナに打ち勝った証の五輪」などと叫ばれている。
当時の象徴的な被災地の「10年後」の様子を 「『復興する風景』NPSオリジナル2/10地区10様の『再建』」から紹介する。
第十八共徳丸は津波で宮城県気仙沼市の市街地に乗り上げた。
共徳丸は解体され、いまは更地になっている。
岩手県陸前高田市の港町も今は更地になっている。
宮城県気仙沼市の気仙沼大橋から見た大川の河原
宮城県石巻市の旧石巻ハリスト正教会教会堂と石ノ森萬画館は奇跡的に津波を生き延びた。当時は瓦礫に囲まれていた。
宮城県石巻市の日和山から見た市街。まだ復興には程遠い。
宮城県南三陸町志津川。インフラ整備は進むが町の再建はこれから。
こちらも志津川。瓦礫の山はなくなったがほとんど手つかず状態。
宮城県名取市閖上地区の東禅寺では、地震で壊滅した墓が再建された。
こちらも閖上地区。風景は様変わりした。
復興のシンボルとなった岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」は、その後枯れてしまったため補強されてモニュメントとして整備された。
公共事業としての土木工事関連はそれなりに進んでいるが、残念ながら人々が行き交う「コミュニティ」の再建にはまだまだ時間がかかりそうである。
「福島の復興なくして東北の復興なし、東北の復興なくして日本の再生なし」という、9日の閣議で菅義偉が発した使い古された空疎なスローガンを被災者たちはどんな気持ちで聞いていたのだろうか、とオジサンは思う。