新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

酒は飲んでもお上の言うことは鵜呑みするな

2024年03月14日 11時49分54秒 | お好みの時間

最近は半世紀余り権力の座にしがみついていた自民党の劣化どころか腐敗ぶりが顕著になってきており、政界に腐臭が漂う毎日なのだが、国家の財政もかなり怪しくなってきており、財政健全化推進本部の如何わしさも指摘されている。
 
自民党・財政健全化推進本部の『大いなる欺瞞』…馬車を前に進める気がない男が御者である限り日本は確実に地獄に落ちる
 

■このままでは日本の衰退は止まらない
岸田総理は今、財政を健全化するために、官邸直属の委員会として「財政健全化推進本部」を設置しています。座長は、自民党の古川禎久議員です。
その古川氏が、NIKKEIのラジオポッドキャスト番組「NIKKEI切り抜きニュース」(1/11(木)配信)でお話しされている内容を過日たまたま耳にしたのですが、卒倒しそうになる程に酷い内容でした。
一言で言いますと、この方に日本の財政の「御者」(ぎょしゃ=馬車の運転手)を任している限り、日本は停滞・衰退を続け、日本国民には最悪の未来しか訪れ得ないということがハッキリを分かる内容だったのです。
彼はまず、次のように発言されているのですが、これに関しては全く「正しい」例えです。
馬車の手綱を取る役割が財政。馬の中には社会保障馬がいたり、防衛馬がいたり、あるいは公共事業馬等。時として暴走すれば馬車は転覆。御者は時に応じて手綱をひいたり、緩めたりして馬車を安全に走らせなければならない。これが財政の役割」
要するに財政が拡大しすぎて、それで何らかの「破壊的事象」が起こると大変である(これは、古川氏が「転覆」と表現している事象ですね)、だから財政を「引き締める」ことが必要な時がある、という指摘はまさにその通りです。
しかし、御者には、古川氏が繰り返しているような「手綱を引く」ことだけではなく、「手綱を緩める」ことも求められます。
ところが不思議なことに古川氏は、「手綱を引く」という行為の根拠となる「馬車の転覆」という危機的事象を避けて「安全な運行」をなすべしという点について言及するばかりで、「手綱を緩める」という行為の根拠となる事象については一切触れていないのです!
■馬車を「前に進める」ことの重要性
通常、御者は、「転覆を避けて安全に運行する」という役割を担う一方で、「前に進む」という目的を持つ存在です。だからその御者が「無能」でない限りにおいて、安全のために「手綱を引く」一方で、前に進むために「手綱を緩める」のです。
とりわけ、他の馬車と「競争」をしている場合には、「安全を確保しながら、できるだけ早く前に進む」ことを目指します。
つまり、御者としての財政は、支出しすぎて(例えばハイパーインフレになる等の形で)「転覆」するという破壊的事象を避けることは重要な任務ですが、支出しなさすぎて(例えばデフレやスタグフレーションが続くという形で)「停滞」「衰退」するという破壊的事象を避ける(つまり成長させる)こともまた重要な任務なのです。
というよりも、そもそも御者は、馬車を前に進めるために雇われてるのであって、本来的には前に進めることこそが職務だとすら言える存在なのです。今日のように激しい国際競争が繰り広げられるグローバル化の時代においては、御者として馬車を「前に進める」ことの必要性はとりわけ重大なものになっているのです。
それにもかかわらず古川氏は、「安全の必要性」や「ハイパーインフレによる転覆」については言及しているものの、「前に進むことの必要性」や「デフレやスタグフレーションによる停滞・衰退」という点については、一切言及していないのです! 何という欺瞞でしょう。
古川氏がイメージしているのは、兎に角、安全だけを確保しようとしていて、前に進めようという意図を持たない御者なのです。
そんな御者は手綱を「引く」ことはあっても「緩める」ということはしないでしょうから、結局、その馬車は「止まって」しまうでしょう。そして、その馬車が「競争」状態におかれているとすれば、そんな馬車の敗北は確実です。それは単に、御者としての職務放棄と言えます。
この時、馬車に乗っている乗客が、「停滞・衰退していたら俺たちの暮らしも人生も最悪だ、もっと前に進まないとマズい」と感じていたとすれば、激怒するはずです。そして、そんな御者を「虐待者」「人殺し」として認識することでしょう。
■今の日本はどういう状態なのか
御者が職務放棄しているのですから、客が激怒するのも当然です。ところが古川氏は、そんな「乗客(国民)」の焦燥や憤怒は、劣悪で危険な「ポピュリズム」に過ぎないと、次のようにレッテルをはりつつ激しく批判するのです。
「手綱を引いたり緩めたりするときには当然、世の中には反発もある。ポピュリストには御車の役割はつとまらない。財政はポピュリストが扱ったらだめ。財政は国民の反発を恐れて良いことばかり言っているポピュリストには務まらない仕事。翻って今の財政はどうだと言ったときに、国民の反発を恐れてなのか、手綱を緩めっぱなし」
「財政を預かっている政治家が国民の皆さん、ここは国民負担をお願いしますとか、あるいは歳出を削らしてくださいとか、言いにくいことであってもきっちり正面からごまかさずに国民に説明をしてお願いをしてこなければならなかった。我々政治家はそこから何十年逃げてきた」
要するに古川氏は、「前に進めろ進めろ」という乗客(国民)の意見など、愚かな大衆の戯れ言だと見なしてガン無視すべきであり、兎に角、今よりももっと強く手綱を引いて、増税して、支出カットを拡大すべきだと主張しているわけです。
では、今の日本はそういう状態なのでしょうか? つまり、古川氏が言う、「社会保障馬」「防衛馬」「公共事業馬」が牽引する「日本という馬車」は「暴走」している状態なのでしょうか?
決してそんなことはありません。事態はむしろその正反対の状態にあります。
(略)
ご覧のように、世界中の国々・地域が成長し続けている中、日本だけ1990年代半ばから停滞していることが見て取れます。
これは、日本は今、古川氏が言うように「手綱を引かねばならない暴走状態」からはかけ離れていることを意味します。それよりむしろ、「手綱を緩めて、前に進めなければならない(そうしないと“ヤバい”)状態」であることを意味しています。
すなわち、日本は、1990年以降、「手綱を引きすぎ」であり、その結果として、成長がストップしてしまったのです。そして、2010年には中国に抜かれ、今年はついにドイツにも抜かれてしまったのです。
■岸田総理の任命責任
このような状況にもかかわらず、古川氏は「日本は暴走している!もっと手綱を引け!」と主張し、実際に、これまで四半世紀以上も続けられてきた増税と予算カットに基づく財政引き締めが、継続・加速されようとしているのです。
これはもはや「狂気」です。
こんな「狂気」に日本が支配されれば、日本経済が成長し、国民が貧困から逃れられると同時に成長し、国際競争で諸外国に追いついていく、という「明るい未来」は絶対に訪れないでしょう。
古川氏のような状況認識のできぬ者に、もうこれ以上、我が国の財政の「御者」を任せては絶対になりません。このままでは、我々に訪れるのは国家的な“死”以外にあり得ないでしょう。
岸田総理の任命責任は、当人が気付いているか否かはさておき、途轍もなく重いものなのです。


 
上記の記事を書いた京都大学大学院工学研究科教授の藤井聡が、返す刀で厚労省の「バカ丸出し」の「飲酒ガイドライン」を徹底的に批判していた。
 
アホ丸出し厚労省の「飲酒ガイドライン」を京大教授が完全論破。酒豪も下戸も“コロナ以来の真っ赤な大嘘”に警戒せよ
 

厚生労働省が先月19日に公表した「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン[PDF]」は、従来のジョッキやグラス数換算ではなく「酒に含まれる純アルコール量」を基準に飲酒の健康リスクを示すもの。基準以上のアルコール摂取により「脳梗塞」「高血圧」「胃がん」「大腸がん」などへの罹患率が高まるとしていますが、この基準を「アホか!?」とバッサリ切り捨てるのは、メルマガ『藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~』の著者で、京都大学大学院教授の藤井聡さんです。日本という国を破壊し、逆に国民を不健康に追い込んでしまう“厚労省基準”の問題点とは?
■厚労省「飲酒ガイドライン」は大きなお世話、しかもデタラメ
今朝、朝日放送の「正義のミカタ」で、厚生労働省が「飲酒ガイドライン」をまとめた、というニュースが取り上げられました。このニュースを解説した「専門家」は、医師の和田秀樹先生。
どうやら政府・厚労省がまとめたこの「飲酒ガイドライン」では、健康のために、純アルコール量が男性なら40グラム未満、女性なら20グラム未満になるようにしましょう、ということのようです。
で、この20グラム、というのは…
ビールならロング缶一本
酎ハイなら缶酎ハイ一本
ワインなら小さいグラスで2杯
焼酎ならコップ半分
ウィスキーならダブル一杯
という分量。
要するに厚労省は、女性なら上記のいずれか一つでも飲んでしまったら、もうリミットになるので、それ以上に飲むのは止めましょう、と言い出したわけです。
しかも厚労省は以上を示した上で「体質などによってはより少ない量にすることが望ましい」とまで言ってのけたようです。
しかもしかも、「純アルコール量」を60グラム以上摂取すると、急性アルコール中毒などが起きる可能性があるため、避けるべき」とすらのたまっています!
つまり、焼酎コップ一杯と、ビールロング缶ずつ飲んじゃうと「急性アル中」になる可能性があるから避けろと言ってるわけです。

■日本の経済と文化を破壊する「馬鹿丸出し」のお役所仕事
僕の知り合いでもお酒の弱い人は生中一杯以上飲めない人も居ますし、全く飲めない人も居るのは事実ですが、もっともっと飲んで長生きする人もたくさん居ます。
それなのに「ガイドライン」と称して十把一絡げに「お酒の量は、一日あたり、ビールロング缶一本にしましょう!」「焼酎とウィスキー一杯ずつのんだら急性アル中になるかもしれませんから止めしょう!」なんていう事を、政府のガイドラインとして公表するなど、ハッキリ言って「馬鹿丸出し」。
酒の神様の京都の松尾大社や奈良の大神神社の神々やギリシャのバッカス等の神々の逆鱗に触れること請け合いな、神々を冒涜する愚か極まりない話です。
この厚労省の「飲酒ガイドライン」の背後には勿論、医師達がいます。どっかの論文引っ張ってきて、それを根拠に「それ以上飲むと、生活習慣病リスクを高めるという事が統計学的有意になったというエビデンスがあるのです」なぞと言いつつ策定したものに違いありません。
ホンット、こういう馬鹿のせいで、今、日本は潰れそうになっている、っていうことが、その医師達も厚労省の役人達も全く分かってないのでしょうね。
こういう医師や厚労省の小役人達(以下、コイツらと呼称しますね 笑)の態度を筆者は、拙著『過剰医療の構造』でも詳しくガッツリ批判しているのですが、ここでは改めて、コイツらがどれだけバカなのかを以下に解説いたしたいと思います。
■不適切にもほどがある「健康リスク」の嘘八百
そもそもコイツらは、「生活習慣病リスクが上がってしまう酒量はいくらなのか」という研究を踏まえているのでしょうが、コイツらが評価しているのは「飲酒についての生活習慣病リスク」だけなのです。
しかし、「酒量」というものは「生活習慣病リスク」だけに影響するのではありません。万が一にでも、「生活習慣病リスク」だけに影響しているのなら、僕もこのガイドラインに賛成しても別に構いません。
しかし「酒量」は、人々の社会的行動、文化的行動、芸術的行動に強烈に影響を与えると同時に、それを通してメンタルヘルス、つまり、精神的健康に巨大な影響を与えているのです。
社会的行動や人々の精神的健康に影響を与えるということは、政治の有り様や社会の有り様や経済の状況にも巨大な影響を与えている、と言うことになります。
そういった事を全て度外視して、「生活習慣病リスク」に及ぼす影響だけに基づいて「酒量のガイドライン」を決めるなぞというのは、バカにも程があります。
しかも、コイツらが言う「ロング缶一本飲んだら生活習慣病リスクが上がるぞ」という話は、「上がるか上がらないかと言えば、上がらなくはない」というだけの話であって(それこそが、コイツらが準拠する“統計的有意”という奴です)、「どれくらいヤバいのか」という点については何ら配慮していないのです。
この点は拙著『過剰医療の構造』でも詳しく批判しましたが、重要なのは、「上がるかどうか」という話ではなく「どれくらい上がるのか?」という点なのです。
■「ゼロリスク」を国民に押しつける厚労省の無責任
例えば、外に出れば、クルマに引かれる確率は確実に上がります。
だからといって、どっかの役所が「クルマにひかれるリスクが上がるので、外出するのは止めましょう」というガイドラインを作ったら、誰もが「アホか!?」と思うことでしょう。
なぜなら、「そんなの分かってるよ!あたりめーだよ!!」という話だからです。
ここで重要なのは、「どれくらい上がるか」なのです。
「外出すれば、クルマでひかれて死ぬ確率が、1割を超える状況になりました」とか言われれば、「まぁそれならしょうがない…」と思う人が出てくるでしょうけれど、「轢かれるリスクが上がるのダ~!だから、外出してはいけないのダ~!」っていうアホがでてきたら、万人がお前はバカボンのパパか!?と思うに違いありません。
つまり、リスクが「上がる」ということ事態は、殆ど何の意味もない話なのです。
ある行為をすることであるリスクが上がるということがあったときに、その行為によって得られる「メリット」と、そのリスクの「デメリット」とを「比較」して、その行為をするか止めるかを、我々は日々判断しているのです。
というか「そうすべき」です。「リスクがある」というだけで全てのリスクを回避しているようでは、我々は普通の幸福な生活など絶対手に入れることができなくなるのです。これは、まったくもって「常識」と言う他無い、当たり前の話です。
■“ガイドライン遵守”で、逆に健康を損なう恐れ
にも関わらず、この厚労省のガイドラインは、そんな人間の「常識」を完全に無視し、飲酒を止めることの「デメリット」を度外視し、どれほどの「メリット」があるのかについて何も言及せずに、強制的に飲酒をヤメろと主張しているわけです。
そんな事すれば、伏見や灘の作り酒屋から大手酒メーカーを含めた酒産業や、居酒屋やバーやレストラン等のあらゆる種類の飲食業が深刻なダメージを被るのはもちろんのこと、酒場で繰り広げられた様々なコミュニケーションが失われ、それによって支えられてきた良質な社会活動や組織運営、効果的なビジネスや政治判断や、ひいては高度な学術活動を激しく毀損する事になります。
さらに言えば、本日、医師の和田先生が主張されていたのは、飲酒には「健康増進効果」があるという話。
良好な「飲酒コミュニケーション」は、精神的健康を高め、うつ病をはじめとした精神疾患の発症リスクを引き下げます。そして精神的健康の維持や幸福感の増進は「免疫力」を高め、それを通してがんの発生リスクが低下するというメリットを持つのです。
そしてもちろん、免疫力はがんの発生リスクのみならず、風邪やインフルエンザやコロナをはじめとしたあらゆる感染症のリスクを引き下げることにもなります。
そう考えれば、飲酒を全くしないことで、かえってトータルとしての健康が劣化することすらあるわけです。
にも関わらず、「ロング缶一本以上飲むのはやめましょう」なぞという単純極まりないメッセージを発するなど、バカとしか言いようがありません。
このバカ話は、コロナのバカ騒ぎと全く同じ構図を持つものです。
要するに、現代の医師や医療行政は、特定の疾患リスクを限りなくゼロに近づけるためのあらゆる自粛を要請し、それを通してトータルの健康水準にダメージを与える愚かな帰結をもたらし続けているのです。
ついては、コロナのバカ騒ぎのような阿呆な社会的風潮が、この飲酒ガイドラインの公表を通して僅かなりとも進展しないように、こんなガイドラインは国民皆で徹底無視し、我々の「常識」に基づいて、「飲み過ぎ」には気を付け、「一人飲み」「深酒」は極力避けつつ、週に一、二度は「休肝日」を設ける…という恰好で、上手に酒と付き合って行くことが、大切です。
我々は下らない数値基準などに惑わされず、今一度、自らの身体性と社会性、倫理性ある常識を鍛え続けていかねばならないのです。
酒は飲んでも飲まれるな、かしこく上手に(そして、時には医者の話にももちろん耳を傾けつつ)、酒と付き合って参りましょう。
 
オジサンは毎晩欠かさず350mlの缶ビールと350mlの缶酎ハイを1缶づつ飲んで毎日健康に暮らしているつもりである。
 
もちろん、若いときは一晩でビール大瓶を2人で1ダース飲んだり、後輩と一緒に日本酒の一升を飲み干したこともたびたび経験している。
 
当然ながら深酒は翌日の活動に若干ながらも影響するが、それも「生きている証」と密かに思っていた。
 
まあ、厚労省の「お役所的」なガイドラインは一般の国民感情からはかなり乖離していることの証でもあるのだが、少なくとも飲酒に関しては国家統制を受けずに「自己責任」で飲み続けたい、とオジサンは思っている。    
  
【付録】
  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 銃を持たない日本型ギャング... | トップ | 美しい「レインボー」な絶景... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

お好みの時間」カテゴリの最新記事