不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

[韓国語] 『吾輩は猫である』をどう訳しますか?

2012-10-10 21:32:03 | 韓国語あれこれ
 あ、このタイトルの意味ですが、小説の中身の訳し方ではなくて、その題名の『吾輩は猫である』をどう訳すか、という意味ですよ。

 先月川崎図書館に行って韓国語本の書架を見ていたら、日本の作家の作品の翻訳書がずいぶん多くならんでいて、大体は原題がわかり、また韓国題の方もとくに意外に思ったものもなかった中で、あ、これはこう言うのか、と目に留まったのがこの『吾輩は猫である』でした。

 もしそのハングルの書名を見なかったとしたら、私ヌルボ、ふつうに考えると、
 나는 고양이다(ナヌン コヤンイダ)
くらいしか出てきません。しかし、これでは勿体ぶったニュアンスが感じられないし・・・。

 NAVER辞典で「吾輩」のハングル読み「오배」や「我輩」の読みの「아배」を引いてみると、これらは「われわれ」を意味するようで、使えません。

 ・・・で、正解は、下の写真参照。

      

 《나는 고양이로소이다(ナヌン コヤンイロソイダ)》というのですね。

 念のため韓国ウィキ(→コチラ)で「나쓰메 소세키(夏目漱石)」の項目を見てみると、代表作としてたしかに《나는 고양이로소이다》があげられています。

 この「~로소이다(ロソイダ)」は、NAVER辞典には「「~ㅂ니다」の옛말(昔の言葉)」とあります。
 そういえば、ちょっと前に言語学者N先生から韓国の時代劇によく出てくる言葉だということを教わっていたんですけどね。だから図書館でヌルボがこの言葉に気がついたということかも・・・。

 さらに思い起こせば、今年8月8日公開の韓国映画で「私は王である」というタイトルの時代劇コメディがありました。
 世宗大王が王位に就く前に乞食と立場を入れ替わって、町の中を歩いたりしていろんな人たちと出会い、社会を経験してゆくという話。韓国版「王子と乞食」ですかねー? チュ・ジフンが初の時代劇出演で1人2役を演じたそうです。
 で、この原題が「나는 왕이로소이다」。<DAUM映画>で原題を見て、王様はこういう言い方をするのか、というのがこの言葉との最初の出会い。・・・って、韓国時代劇ファンの皆さんはよくご存知の言い方かも・・・。

 これまで、私ヌルボが知っていた時代劇らしい言い方といえば「~하옵니다(ハオムニダ)」くらいなものでした。
 그러하옵니다(クロハオムニダ) さようでございます。
 망극하옵니다(ソンウォニ(聖恩が) マングク(罔極)ハオムニダ)
 聖恩限り無うござります。(ありがたき幸せにございます。)
等々。
※→コチラのブログ記事に、韓国の時代劇=사극(史劇.サグク)の決まり文句が17例あげられています。また、「韓国語ジャーナル」41号にも<時代劇 あるあるフレーズ>が載っていたって!? ありゃりゃ・・・。

 ・・・ここで最初に戻って、要するに『吾輩は猫である』の訳語としては、「~로소이다」という王様のような表現が「나는 고양이다」などよりも合っているということのようですね。(王様は吾輩とは言わないと思いますけど。)
 この小説がいつ頃誰によって訳されたかについても知ろうとしたのですが、よくわからず。ただ、これまで多くの訳書が出ているようです。しかし<YES24>のサイトで見てみると、タイトルはどれも「나는 고양이로소이다」になっています。
 ついでに、漱石の他の作品のタイトルを見ると、あれれ、「大体は原題がわかり・・・」などと先に書いたのは甘かったぞ。
 たとえば「도련님」とか「한눈팔기」とか・・・。韓国語学習者の皆さん、すぐにわかりますか? 前者は「坊つちゃん」、後者は「道草」ですよ。(範囲指定すれば正解が現れます。)

 文学作品のニュアンスをうまく伝える翻訳は、本文はもとより、タイトルからしてむずかしいですね。この先何年勉強しても、ヌルボにはとても無理だなー(泣)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山路愛山『韓山紀行』を読む ①日露戦争中の韓国の印象を率直に記述

2012-10-10 13:46:53 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 最近、明治後期~大正初期に活躍した評論家・史論家の山路愛山が日露戦争勃発の3ヵ月後の1904年(明治37年)5月、韓国を訪れた際の紀行文「韓山紀行」を読みました。
 1964年刊行の「現代日本思想大系 4 ナショナリズム」(筑摩書房.1964)に収められているもので、原稿用紙だと30数枚程度で、そんなに長文のものでもありません。
 その後、インターネットでも→コチラのサイトで全文見られることを知りました。(いいかげんなスキャン結果の文章が校正されないままになっていますが・・・。とくに後半部分。)

 さて、その「韓山紀行」の内容なのですが、当時の韓国の「人々の怠惰なようす」「街や民家の不潔なようす」「進取の精神に欠け、危機感もないこと」等が忌憚なく書かれています。

 したがって、いわゆる<嫌韓派>にとっては、恰好のネタ元ともいえるでしょう。現に、<植民地統治の検証 1 反日史観を糺す>というサイトには、以下の2ヵ所が引用されています。

 (釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて少しも改むることを知らずという。僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。(5月5日) 

 水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうなれども日本の村(原文のママ)同然の体(てい)たらくなり。さりながら城門は立派なるものなり(水原城はユネスコ世界遺産)。韓国の都会は大陸流にして廻らすに城壁をもってし四門を開き望楼を設く。遠望すれば写真で見たる万里の長城なり…  それはともあれ僕は城壁の大なると楼門の魏々たるとを見、城の内外にある民家の豚小屋同然たるに対比し、韓国には役人の建築ありて、人民の建築なきを感ぜざることを得ず。(5月8日)


 上記以外にも、たとえば次のような記述があります。

 その礼楽法度、ことごとく中華に擬するをもってみずから誇り、華人の称して小中華といいたりとて揚々たること事大根性ぜんぜん呈露す。その根底すこぶる深しというべし。この種の人物をして発憤自彊せしめんとす、僕はまず匙を投げざることを得ず。

 ところが、彼の文章には露骨な差別感情は見られず、率直に見たままを記しています。もちろん、いくら事実であっても、たとえば「不潔」と書かれた側は差別と受け止めることはむしろ当然かも・・・。また愛山自身は意識しなくても、当時の日本人なればこその「思い込み」もあったでしょう。
 山路愛山はクリスチャンであり、内村鑑三や堺利彦等と思想や政治的主張を越えて親交のあった人物ですが、当時の彼は自身帝国主義者であることを標榜していました。
 ところが、現在の「帝国主義者」のイメージを持って次のようなくだりを読むと、意外に思う人も多いのではないでしょうか?

 僕の深く恐るるところは在韓の日本人が自重せず、大国の威を借りて韓人を凌辱しかえってみずから韓人の不信を招かんことこれなり。日本国民の韓国にある者は人人みずから韓人の師表たるをもって任ぜぎるべからず。(5月7日)

 ・・・愛山がこのように書いたのは、「在韓の日本人が自重せず、大国の威を借りて韓人を凌辱し・・・」ということが見受けられた、ということでしょうか。
 そしてこの紀行文の最後の方で、彼は次のように旅を総括しています。

 さりながら韓国を見たること僕にとっては真に一大教訓なり。僕は韓国に対する日本の位置のとうてい今のままにてやむべからざるを信じ、韓国を鞭撻して、秩序あり、規律あり、文明人の棲息経営に堪ゆるものたらしむるは実に大日本国民の義務なることを深く信ずるに至れり。試みに思え比屋みな浄潔にして道路もまた平坦砥のごとき間に介在するに茅屋あり、ひとり不潔、汚穢をきわむるのみならず、破壊、危険の状あらば隣人たるもの公益を維持するの上よりしてその主人に迫りて改築の計をなさしめざるを得ず。これ隣人の権利にしてまた義務たるにあらずや。僕の韓国に来らざるや韓人のなおみずから振い、みずから彊(つよ)むるの余地あるを信ぜり。足ひとたび韓国を履(ふ)みて後はこの信仰は一変せり。韓人のみずから振作するを待つはほとんど枯木の芽を出すを待つに異ならず。如(し)かず、日本の隣人の義務としてひとりそのなすべきところをなさんのみ。この新信仰を僕の心に生ぜしめたるものは実に此遊の賜なり。(5月17日)

 きれいに整った住宅街に1軒不潔な上に壊れそうな家があったら、改築を促すのが隣人としての権利であり義務である・・・。韓国としてはなんともひどい言われようですが、愛山の気持ちとしては、差別視や収奪の対象というよりも使命感でしょう。

 ・・・と、このように書くと、私ヌルボが山路愛山を、あるいは往時の帝国主義やひいては韓国併合を肯定弁護していると思われるかもしれません。真意はそうではなくて、それらを否定するとなると、相手側の手強さを十分に認識しなければならない、ということです。

 「韓人のなおみずから振い、みずから彊むるの余地」を信じていた愛山は、韓国に行って「この信仰」を一変せざるを得ませんでした。
 もし自分がその時代にタイムスリップしたとして、愛山のような「健全な帝国主義者」を相手にどのような意見を述べることができるか、ということを自問してみると、そう簡単には答えを出せません。

 その当時のモノサシだけをもってすれば「歴史の必然」の前にほとんど立ちすくむしかなく、また現代のモノサシで過去を裁断しようとすると空論に陥るしかないようで、日韓の間の歴史認識問題もこのあたりのギャップを無視して噛み合わない議論を重ねているようです。

       
    【今年7月、渋谷・百軒店を歩いていて偶然見かけた山路愛山終焉の地の標識。】

 →山路愛山『韓山紀行』を読む ②よその国を見て「汚い」と思うこと (木村幹先生の論考を参考に)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする