→5日前の記事<山路愛山『韓山紀行』を読む ①日露戦争中の韓国の印象を率直に記述>の続きです。
1つ前の記事で書いた10月13日(土)夜のNHK総合「東京カワイイTV」の前の番組が「関口知宏と高校生の旅 中国縦断2500キロ」。 ※この番組の中身は→コチラ参照。私ヌルボも同感した観た人の感想→コチラ。
見た感想はいろいろありますが、とくに1ヵ所、見ながら「アリャリャ」と思ったのが、5人の日本人高校生諸君の考えたプロジェクト。その内容というのが「ゴミをなくそう!」というものなんですねー。私ヌルボ、番組の最初の20分くらいは見てなかったのですが、街にゴミなどが散乱しているようすがよほど気になっていたんでしょう。そこで「お世話になった中国の人たちにお礼をしよう」という善意から考えついた企画だったのですが・・・。
ここでそれまで生徒たちをバックアップする立場なのであまり目立たなかった関口知宏さんが出てきて、厳しく問いかけるのですよ。鶏や豚を捌いてまでもてなしてくれたけど、その鶏や豚は一家の財産だったということをわかっているか? そんな人たちに、「キレイにしたらいいですよ」というのは「あなたの国はゴミだらけで汚い」と上から目線で言うようなものだ、というのが関口さんの話の主旨でした。
今まで私ヌルボ、中国縦断2500キロ」は少ししか見てなくて、関口さんの人となりもよくわかってはいなかったのですが、少なくともこの場面は「よく言ってくれました」という思いでした。(→コチラのブログ記事も同じ趣旨で、ナットクしつつ読みました。)
10月10日の記事で、日露戦争中韓国を訪ねた山路愛山が「韓山紀行」で韓国の街や家の不潔なことをここかしこで記していると書きました。
往時の韓国についてのこのような感想は彼に限りません。高浜虚子・谷崎潤一郎等々、他の多くの人々の著作にも同様に韓国の印象が記されているそうです。
そのことを知ったのは、先月例の領土問題をめぐるNHKの特集番組に出演して(目立たなかったなりに)知名度の高まった木村幹神戸大教授の論考を読んだからです。
その論考のタイトルは「「不潔」と「恐れ」-文学作品に見る日本人の韓国イメージに関する一試論」。
現代の高校生たちは「実際に汚いから「汚い」と言っただけ」なのでしょう。昔の山路愛山等にしても同じ。しかし、木村幹教授は少し離れた所に視点をおいて「なぜ「不潔」と思ったか?」を問題にしています。
☆ダウンロードのしかた
神戸大学のサイトから
→サブメニューを開く(タイトル下左)をクリック
→研究タグ中の「研究ニュース・研究内容」をクリック
→学術成果リポジトリ Kernelをクリック
→簡易検索の窓に「木村幹」と入力し検索
→論文のリストが出てくる。
このリスト中の「Full text」のアイコンをクリックすると、PDF文書で読むことができます。
リストの36番目が<「不潔」と「恐れ」:文学者に見る日本人の韓国イメージに関する一試論>と題された論文です。
※リストの4番目に「韓国・北朝鮮の嘘を見破る:近現代史の争点30」(文春新書)所収の<「韓国内の『親日派』は国賊である」と言われたら>という一般読者向きに(比較的)読みやすく書かれた一文もあります。その挑発的な書名とは裏腹に、嫌韓的な感情は全然含まれていない研究者らしい筆致です。未読の方はぜひ読んでみてください。
さて、この木村幹教授の論考のポイントを、とくに「韓国は不潔」という見方について整理し、箇条書きにしてみました。
・高浜虚子や谷崎潤一郎等の著作にあるような、朝鮮人が不潔とされる一方、それと対照的に日本人はきれい好きであるという見方は、「当時の日本人文学者においては、かなり普遍的な傾向であった」。
・しかし、江戸時代には、朝鮮に対するイメージに「不潔」とか「危険」とかのマイナスの要素はみられない。
・朝鮮を不潔と見る見方は、「明治後期以降の時代状況の中から生じて来た」ものである。
・朝鮮が不潔である理由とされたのは、その民族性ではなく「発展の程度の差異」によるものであり、つまり「文明化の不足の結果」であると考えられた。その反対側には「文明化」を達成した日本に対する「誇り」があった。
・このような日本人のアジア認識は、西洋人のそれをそのまま踏襲したものであった。「文明化」の遅れた土地に自らの文明を伝達することを「責務」と考える思考法もそのひとつ。西洋人により強調された(日本も含む)アジア・アフリカ諸国の「不潔」観を、日本人はそのまま継承した。
・今日の日本人も、韓国に対して上記のようなマイナス・イメージを持ち続けている。そして、こと韓国となると、そのイメージに相応しい事件・事象にのみ注目してそのイメージを再確認している。結果、それらのイメージは変化することがなかった。
・重要なことは、韓国も他の諸国同様の「外国」のひとつにすぎないということを認識して、冷静に対処する必要がある。
なーるほど、ですね。学問的に素人の人たちは、ややもすれば愛山や虚子等の本を読んで、「やっぱり植民地化前後の朝鮮は不潔で遅れた社会だったんだな」とそのままストレートに受けとめてしまいそうですが、木村先生は彼らが韓国を「不潔」とみた理由とその意味を、歴史的文脈をたどったりして追究していきます。
たしかに、時代によって、国によって、あるいは身分・階級等々によってもモノサシ(価値観)は違いますからねー。昔の日本人が、昔の朝鮮を見た時のモノサシをそのまま現代の韓国を見る時に、何も考えずに用いるのは誤解のモトになりそうです。
「汚い」の基準について私ヌルボが個人的に思い出すのは、以前めずらしくがんばって自分の部屋を掃除してキレイにしたことがあったのですが、その部屋に初めて入った一人の子どもが無邪気に発した言葉が「どーしてこんなに散らかっているの?」でした。(泣)
・・・以上、「不潔」を弁護するような書き方になったかもしれません。しかし、近代化にともなって病気が減少し寿命が延び人々の健康が増進してきたのは、衛生観念が高まり住環境が清潔になってきたことと大きく関わるのはまぎれもない事実だし、「清潔」の押しつけが絶対よくない!と主張しているわけでもないのです。
「汚いからキレイにしてあげましょう」問題、考えてみれば深いです。
☆[蛇足]
ところで、木村幹先生の緻密で慎重な論の進め方に接して想像したことがあります。
もし誰かが木村先生のことを「馬鹿野郎!」と罵倒したらどう反応するか、ということ。
「君が僕を「馬鹿野郎」というのは、かくかくしかじかの価値観に拠るものと分析されるが、そのような価値観を共有する者は誰もいないから、何の説得力もないよ」と答えるのかなー、とか・・・。
いや、もしかしたら、自分がそう答えようとするのはどのような価値観に基づいているのか、と考えると・・・などと、さらに自己分析に入っちゃったりして・・・。
そこへいくと、「馬鹿野郎!」に対して「なんだと?! 大馬鹿野郎!!」と単純にわめき合ったりしてる人たちの方がある意味人間っぽいかも・・・。
1つ前の記事で書いた10月13日(土)夜のNHK総合「東京カワイイTV」の前の番組が「関口知宏と高校生の旅 中国縦断2500キロ」。 ※この番組の中身は→コチラ参照。私ヌルボも同感した観た人の感想→コチラ。
見た感想はいろいろありますが、とくに1ヵ所、見ながら「アリャリャ」と思ったのが、5人の日本人高校生諸君の考えたプロジェクト。その内容というのが「ゴミをなくそう!」というものなんですねー。私ヌルボ、番組の最初の20分くらいは見てなかったのですが、街にゴミなどが散乱しているようすがよほど気になっていたんでしょう。そこで「お世話になった中国の人たちにお礼をしよう」という善意から考えついた企画だったのですが・・・。
ここでそれまで生徒たちをバックアップする立場なのであまり目立たなかった関口知宏さんが出てきて、厳しく問いかけるのですよ。鶏や豚を捌いてまでもてなしてくれたけど、その鶏や豚は一家の財産だったということをわかっているか? そんな人たちに、「キレイにしたらいいですよ」というのは「あなたの国はゴミだらけで汚い」と上から目線で言うようなものだ、というのが関口さんの話の主旨でした。
今まで私ヌルボ、中国縦断2500キロ」は少ししか見てなくて、関口さんの人となりもよくわかってはいなかったのですが、少なくともこの場面は「よく言ってくれました」という思いでした。(→コチラのブログ記事も同じ趣旨で、ナットクしつつ読みました。)
10月10日の記事で、日露戦争中韓国を訪ねた山路愛山が「韓山紀行」で韓国の街や家の不潔なことをここかしこで記していると書きました。
往時の韓国についてのこのような感想は彼に限りません。高浜虚子・谷崎潤一郎等々、他の多くの人々の著作にも同様に韓国の印象が記されているそうです。
そのことを知ったのは、先月例の領土問題をめぐるNHKの特集番組に出演して(目立たなかったなりに)知名度の高まった木村幹神戸大教授の論考を読んだからです。
その論考のタイトルは「「不潔」と「恐れ」-文学作品に見る日本人の韓国イメージに関する一試論」。
現代の高校生たちは「実際に汚いから「汚い」と言っただけ」なのでしょう。昔の山路愛山等にしても同じ。しかし、木村幹教授は少し離れた所に視点をおいて「なぜ「不潔」と思ったか?」を問題にしています。
☆ダウンロードのしかた
神戸大学のサイトから
→サブメニューを開く(タイトル下左)をクリック
→研究タグ中の「研究ニュース・研究内容」をクリック
→学術成果リポジトリ Kernelをクリック
→簡易検索の窓に「木村幹」と入力し検索
→論文のリストが出てくる。
このリスト中の「Full text」のアイコンをクリックすると、PDF文書で読むことができます。
リストの36番目が<「不潔」と「恐れ」:文学者に見る日本人の韓国イメージに関する一試論>と題された論文です。
※リストの4番目に「韓国・北朝鮮の嘘を見破る:近現代史の争点30」(文春新書)所収の<「韓国内の『親日派』は国賊である」と言われたら>という一般読者向きに(比較的)読みやすく書かれた一文もあります。その挑発的な書名とは裏腹に、嫌韓的な感情は全然含まれていない研究者らしい筆致です。未読の方はぜひ読んでみてください。
さて、この木村幹教授の論考のポイントを、とくに「韓国は不潔」という見方について整理し、箇条書きにしてみました。
・高浜虚子や谷崎潤一郎等の著作にあるような、朝鮮人が不潔とされる一方、それと対照的に日本人はきれい好きであるという見方は、「当時の日本人文学者においては、かなり普遍的な傾向であった」。
・しかし、江戸時代には、朝鮮に対するイメージに「不潔」とか「危険」とかのマイナスの要素はみられない。
・朝鮮を不潔と見る見方は、「明治後期以降の時代状況の中から生じて来た」ものである。
・朝鮮が不潔である理由とされたのは、その民族性ではなく「発展の程度の差異」によるものであり、つまり「文明化の不足の結果」であると考えられた。その反対側には「文明化」を達成した日本に対する「誇り」があった。
・このような日本人のアジア認識は、西洋人のそれをそのまま踏襲したものであった。「文明化」の遅れた土地に自らの文明を伝達することを「責務」と考える思考法もそのひとつ。西洋人により強調された(日本も含む)アジア・アフリカ諸国の「不潔」観を、日本人はそのまま継承した。
・今日の日本人も、韓国に対して上記のようなマイナス・イメージを持ち続けている。そして、こと韓国となると、そのイメージに相応しい事件・事象にのみ注目してそのイメージを再確認している。結果、それらのイメージは変化することがなかった。
・重要なことは、韓国も他の諸国同様の「外国」のひとつにすぎないということを認識して、冷静に対処する必要がある。
なーるほど、ですね。学問的に素人の人たちは、ややもすれば愛山や虚子等の本を読んで、「やっぱり植民地化前後の朝鮮は不潔で遅れた社会だったんだな」とそのままストレートに受けとめてしまいそうですが、木村先生は彼らが韓国を「不潔」とみた理由とその意味を、歴史的文脈をたどったりして追究していきます。
たしかに、時代によって、国によって、あるいは身分・階級等々によってもモノサシ(価値観)は違いますからねー。昔の日本人が、昔の朝鮮を見た時のモノサシをそのまま現代の韓国を見る時に、何も考えずに用いるのは誤解のモトになりそうです。
「汚い」の基準について私ヌルボが個人的に思い出すのは、以前めずらしくがんばって自分の部屋を掃除してキレイにしたことがあったのですが、その部屋に初めて入った一人の子どもが無邪気に発した言葉が「どーしてこんなに散らかっているの?」でした。(泣)
・・・以上、「不潔」を弁護するような書き方になったかもしれません。しかし、近代化にともなって病気が減少し寿命が延び人々の健康が増進してきたのは、衛生観念が高まり住環境が清潔になってきたことと大きく関わるのはまぎれもない事実だし、「清潔」の押しつけが絶対よくない!と主張しているわけでもないのです。
「汚いからキレイにしてあげましょう」問題、考えてみれば深いです。
☆[蛇足]
ところで、木村幹先生の緻密で慎重な論の進め方に接して想像したことがあります。
もし誰かが木村先生のことを「馬鹿野郎!」と罵倒したらどう反応するか、ということ。
「君が僕を「馬鹿野郎」というのは、かくかくしかじかの価値観に拠るものと分析されるが、そのような価値観を共有する者は誰もいないから、何の説得力もないよ」と答えるのかなー、とか・・・。
いや、もしかしたら、自分がそう答えようとするのはどのような価値観に基づいているのか、と考えると・・・などと、さらに自己分析に入っちゃったりして・・・。
そこへいくと、「馬鹿野郎!」に対して「なんだと?! 大馬鹿野郎!!」と単純にわめき合ったりしてる人たちの方がある意味人間っぽいかも・・・。