→ <韓国の連座制&遡及法を考える④ 本間九介「朝鮮雑記」(1894)にみる連座制の事例から考えたこと>
過去4回の記事で韓国と朝鮮の事例をいろいろ挙げましたが、この最終回ではそれをふまえて(ヌルボとしては)大胆な(?)仮説を提示してみます。次の2つです。
[1] 韓国人は「先祖と一体」である。
[2] 韓国人にとっては、「過去は現在と地続き」である。
[1]は、なんといっても朝鮮王朝以来の儒教思想の影響が現在にも及んでいるということの現れで[2]は[1]から導き出される歴史意識です。
早い話が「先祖=自分」であり、「過去=現在」ということ。(あ、韓国だけでなく北朝鮮も同様です。)
以下、もう少し詳しく見てみます。
[1] 韓国人は「先祖と一体」である。
先祖の名誉は自分の名誉、先祖の恥は自分の恥。そして先祖の屈辱は自分の屈辱なので、それを晴らすのは当然のこと。
したがって、慰安婦問題に関して安倍首相の「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」という発言は韓国人には責任回避と映るのも当然でしょう。また「親日」行為を働いた者の子孫から財産を没収したり、国のために命を捧げた人や、現在の韓国や過去の日本の政治の犠牲になった人たちの遺族が多額の報奨金・補償金を受け取るのも当然ということになります。
ただ、これには日本の軍人恩給と若干共通する点もあると思われます。たとえば、2011年の「東亜日報」の<韓国戦争遺族の補償金、たったの5千ウォン>という記事(→コチラ)がありますが、たしかに朝鮮戦争で一家の働き手を失った家族に死亡給与金が日本円で500円というのは理不尽ですね。
しかし、昨2015年3月の<独立功労者の遺族向け家計支援、最大5倍に引き上げへ>という記事(→ 「朝鮮日報(日本語版.会員制)」、または→コチラ)はいかがなものでしょうか? この記事によると、韓国では「独立功労者の子供と孫の世代は計6万5683人おり、うち5874人に補償金が支払われている」が、「国家報勲処は、昨年(2014年)までその孫で最も年上の人に毎月35万ウォンずつ支給していた家計支援費を今年(2015年)からは所得に応じて毎月52万~188万ウォンに引き上げると発表した」とのことです。
こうした「先祖の栄誉は自分の栄誉」といった韓国(&北朝鮮)によくある思考方式について、産経新聞・黒田勝弘ソウル支局長は2004年<過去に熱上げる韓国政治>と題した記事(→コチラ参照)で次のようなことを書いています。(その後「韓国は不思議な隣人」(産経新聞社)に所収。)
盧(武鉉)大統領は先の演説(「八・一五光復節記念演説」)で「日本統治時代に独立運動をした人はその後、三代にわたって貧乏し、親日派は三代にわたって羽振りがいい」という話を紹介した。大統領がこの種の“俗説”を記念演説で引用したのには驚いたが、この「三代にわたって」というのが面白い。(中略)
しかし問題は、親が独立闘士であれ親日派であれ、子孫が努力しなければ貧乏するだろうし、逆にがんばれば裕福になるだろう。ただそれだけのことである。それが近代社会というものである。(中略) 独立運動家の子孫が貧しかったとすれば、それは子孫の責任だろう。
なのに大統領は、親日派の子孫が羽振りがよく、独立運動家の子孫が貧乏なのは問題だ、間違っているといっているようにみえる。これでは「個人」より血筋とか家門が重視されなければならない、ということになるではないか。
盧政権は大統領以下、ほとんどが解放後生まれの若い世代で民主化運動出身の進歩派が多い。その新世代政権が過去好きで血筋や家門などという古い価値観にとらわれているのだ。これは韓国の変わらぬ政治文化、政治風土というしかない。
咸臨丸でアメリカを訪れた福沢諭吉がワシントン初代大統領の子孫が今どうしているかを聞いても誰も知らないことに驚いた(「福翁自伝」)ことはよく知られています。あれほど儒教が重視された身分制社会を強く批判した福沢も、そんな社会の中で培われた感覚はいかんともしがたかったということでしょう。もちろん今の日本人は上の黒田氏の記事に同感するでしょうが、その点韓国は現在も血統に関しては「徹底的に(断絶ではなく)持続の思想」(小倉紀蔵「心で知る、韓国」であり、「血統に対する宗教的ともいえるような帰依感」を持っている(田中明「韓国の民族意識と伝統」)という点で日本と対照的です。
つまりは、日本よりもはるかに儒教が深く根を下ろしていて、現代社会にまで大きく影響を及ぼしているとみられます。また北朝鮮の場合は、韓国以上に伝統的な儒教倫理を色濃く残しているのではないでしょうか? 指導者(金正日)が父親(金日成)の喪に服したり、先の記事で書いたように、3代遡って「成分」を分けたり金日成の家系の「聖家族化」を推進したり等々。
※北朝鮮の3代続く独裁体制がスターリン主義・日本の戦前の天皇制・封建時代から続く家父長的儒教主義の3つを受け継いでいるという理解はとてもわかりやすいと私ヌルボは思います。
[2] 韓国人にとっては、「過去は現在と地続き」である。
韓国の連続ドラマの多くは、最初の数回は出生の秘密等々子供時代から始まり、成人後の本来の主役が登場するのは何回か後になります。
つまり、現在の自分は生まれて以来の成育歴に直結している、・・・って当然といえば当然なのですが、それを強く意識し、そこにアイデンティティを見出し、あるいはそこに現在のいろんなことを結びつけるといった意識が強いのでは?
また、復讐物が非常に多い(半分以上?)というのも韓国ドラマの特徴です。国や一族の歴史だけでなく、個人史でも「過去=現在」なので、日本人の目からは「なぜそんなに過去にこだわるの? 復讐に情熱を注ぐよりも、過去は忘れて、あるいは過去の不幸は今後の教訓として、新しい未来に向けて頑張る方がはるかに生産的で良いんじゃないの?」と考えるのは、日本人にとって過去は現在から簡単に切り離して「水に流せる」から。都合の悪い過去はトカゲのしっぽのようにどんどん捨てていけばいい。(それはそれで「問題あり」ですが。) ところが韓国人にとっては現在の自分は過去の自分により規定されていて、個人的にも過去の恨み=現在の恨みだから、それを晴らさないことには先に進めないのです。
歴史を見る場合も、「地続き」の現在から過去を見るわけなので、「現在の価値基準で過去を裁く」ことになります。
したがって、たとえば「韓国併合条約は合法か、無効か?」といった問題についての歴史研究者間の論議でも話がかみ合わないというケースがふつうに(?)生じたりするわけです。(「その当時はそれが正しいとされた」と言うと、韓国人の研究者から「アナタはそれを認めるのかっ!」という声が上がるとか・・・。)
※日韓歴史共同研究(→ウィキペディア)や韓国併合再検討国際会議(→コチラの記事)参照。また→<「日韓併合条約は無効でした」と認めることの何が不都合なのだろう?>と題したコチラのブログ記事に寄せられたコメントのやりとりはなかなか興味深いです。
ところで、日韓間で「正しい歴史認識」と言う時、その「正しさ」の意味を双方がどのように理解しているでしょうか?
日本人の場合は問題とされる歴史上が「実際に」あったかどうかにこだわります。本当に史実なのか否か定かでないことを前提とした主張は、それだけで「正しい」とは言えないと考えます。この「正しさ」は、何年何月何日に何があった、という意味での「正しさ」です。
それに対して、韓国人の考える「正しい歴史認識」とは、歴史に対する「正しい価値判断」を意味します。何が「正義」で、何が「不正義」なのかを「正しく」判断すること。そしてその判断基準は上記のように「現在の価値観」によるものです。日本人にしてみれば、「現在のモノサシで過去を測るのはおかしい」とふつうに考えるところですが、「正義の基準は時代を超えた普遍的なもの」であり、また現在の価値観が時代の進行につれて変化していっても、それに併行して過去の見方も変わるのは当然で、なんら問題はないというわけです。
上掲の小倉紀蔵「心で知る、韓国」にも、次のように記されています。
「・・・だから歴史を見る目も大分違う。なぜ日本人は過去の糾弾をしないのかということを韓国人はよくいう。過去の糾弾というのは、儒教的な意味でいえば毀誉褒貶の「春秋の筆法」(事実を述べるのに価値判断を入れて書く書き方)によって、どれが悪くて、どれが善かったという、必ず善悪の価値を付けて歴史を裁くことをいう。そういう歴史観こそが文明だと思っている。死ねばすべて仏なんだというような歴史観は、儒教的な意味では野蛮に見えるのである。」
「韓国人の歴史意識においては、現在も朝鮮王朝時代も、連続性あるいは同時性としてとらえられているのである。」
こうして見ると、先の安倍首相の「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」という言葉と、朴槿恵大統領の「加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらない」という言葉との間のミゾの深さがわかるというものです。※「日本人の」価値観に基づく言葉だけで相手を批判しても通じるわけがないのです。もちろん韓国→日本も同様。
韓国併合条約や、1965年日韓基本条約といった日韓間に理解の齟齬がある取り決めと関連して思い出したのが前の記事で紹介した本間九介「朝鮮雑記」中の1つの記事です。ただし国家間ではなく、個人間の約束事、具体的には金銭貸借のことなので、同列に扱うことは問題はありそうだし、内容的にも「侮辱的」ととられる要素がありますが、それは承知の上でとりあえず紹介します。
<韓人單純なり>
韓人は比較的に正直といはんよりは、寧ろ單純といふべき人種なり、(中略) 例令ば彼等の金を借るや、其證書面には若し期日を經過するも義務を果さゝるときは、違約金として五貫文を推尋すること、或は官に卞呈して公裁を仰ぐべしなど、汪洋に書くとも、瓜期に至りて人之を催促すれば、彼等は即ち曰く一銭もなし、願くは猶ほ一期を猶豫せよと、人其最初の約に違ふを責むれば、彼等卽ち曰く唯一時の急を救はん爲め必ず約を履むの意なかりしと、彼等は常に斯る辦疏をなして恬として羞づることなし、然れども彼等は不思議にも借りたる金を借りぬとは言はぬなり、彼等實に單純なる人種なり
といふべし、
證文に期を約するは是れ假相、一寸延れば尋といふ是れ韓人の眞面目、
つまり、「韓人は金を借りても證文に記された返却期日を守るという意識に乏しく、催促しても1銭もないから延ばしてくれ等と言って恥じるところがない」ということ。
誤解のないよう付記すれば、韓国人を非難するのではなく、「当時の韓人がなぜこうだったのか?」についての考察です。1つ目の推論は、契約期日を重視する商慣習・商道徳が定着するほど商業経済が発達していなかったのではないか、ということ。2つ目は、「過去=現在」なので、現在の自分の状況からみて不都合な内容であれば、過去の約束事も単に書き直せばよい、と思っているのでは、ということです。
上述のように国家レベルと個人レベルを並列することに疑問を抱きつつも、現代の「約束破り」で思い起こしたのは北朝鮮の国際社会での「約束事」についてです。
北朝鮮が「核保有国」になってしまった足跡はまさに掟破りの連続でした。核拡散防止条約に加盟後も条約を遵守せず秘密裏に核開発を進めたこと、その後核拡散のおそれの低い軽水炉完成までの期間米日韓が費用を負担して重油を無償で提供して北朝鮮の核兵器開発を放棄させることを目的として合意の上発足したKEDOも、北朝鮮がウラン濃縮による核開発を続行していることが明るみに出て、結局北朝鮮がIAEAから脱退して頓挫しました。
また日本と北朝鮮の間では、「拉致被害者問題」等にしても、「3年後には日本に里帰りできる」はずだった日本人妻の問題にしても、過去幾度となく約束事が反故にされてきました。
国際間の約束事を遵守することよりも優先すべきことがたくさんあるということ。言葉を変えて言えば、国際間の約束事を破ることについてのハードルは相当に低いということです。(ある本には「約束を堂々と破ることが指導的な地位にある者の証左」(!)と書かれていました。)
いろんな細かな事例を挙げるときりがありません。ぼちぼちオシマイにしますが、今回の記事はこのブログの記事としてはちょっと異色の、やや「政治的色合い」を帯びた「憶測」めいた記事になってしまいました。
専門的な研究者であれば、ホントに歴史的な時間の意識や、先祖についての意識等についてちゃんとした調査を踏まえた論を展開すべきところでしょう。(そういう研究はあるのかな?) 非専門家の私ヌルボとしては、「こう考えるとわかりやすい」ということで<仮説>として提示したまでです。
[蛇足] 「嫌韓」の人たちに「利用」されそうなことも書いてしまいましたが、ヌルボの本意は「相互理解」にあります。
過去4回の記事で韓国と朝鮮の事例をいろいろ挙げましたが、この最終回ではそれをふまえて(ヌルボとしては)大胆な(?)仮説を提示してみます。次の2つです。
[1] 韓国人は「先祖と一体」である。
[2] 韓国人にとっては、「過去は現在と地続き」である。
[1]は、なんといっても朝鮮王朝以来の儒教思想の影響が現在にも及んでいるということの現れで[2]は[1]から導き出される歴史意識です。
早い話が「先祖=自分」であり、「過去=現在」ということ。(あ、韓国だけでなく北朝鮮も同様です。)
以下、もう少し詳しく見てみます。
[1] 韓国人は「先祖と一体」である。
先祖の名誉は自分の名誉、先祖の恥は自分の恥。そして先祖の屈辱は自分の屈辱なので、それを晴らすのは当然のこと。
したがって、慰安婦問題に関して安倍首相の「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」という発言は韓国人には責任回避と映るのも当然でしょう。また「親日」行為を働いた者の子孫から財産を没収したり、国のために命を捧げた人や、現在の韓国や過去の日本の政治の犠牲になった人たちの遺族が多額の報奨金・補償金を受け取るのも当然ということになります。
ただ、これには日本の軍人恩給と若干共通する点もあると思われます。たとえば、2011年の「東亜日報」の<韓国戦争遺族の補償金、たったの5千ウォン>という記事(→コチラ)がありますが、たしかに朝鮮戦争で一家の働き手を失った家族に死亡給与金が日本円で500円というのは理不尽ですね。
しかし、昨2015年3月の<独立功労者の遺族向け家計支援、最大5倍に引き上げへ>という記事(→ 「朝鮮日報(日本語版.会員制)」、または→コチラ)はいかがなものでしょうか? この記事によると、韓国では「独立功労者の子供と孫の世代は計6万5683人おり、うち5874人に補償金が支払われている」が、「国家報勲処は、昨年(2014年)までその孫で最も年上の人に毎月35万ウォンずつ支給していた家計支援費を今年(2015年)からは所得に応じて毎月52万~188万ウォンに引き上げると発表した」とのことです。
こうした「先祖の栄誉は自分の栄誉」といった韓国(&北朝鮮)によくある思考方式について、産経新聞・黒田勝弘ソウル支局長は2004年<過去に熱上げる韓国政治>と題した記事(→コチラ参照)で次のようなことを書いています。(その後「韓国は不思議な隣人」(産経新聞社)に所収。)
盧(武鉉)大統領は先の演説(「八・一五光復節記念演説」)で「日本統治時代に独立運動をした人はその後、三代にわたって貧乏し、親日派は三代にわたって羽振りがいい」という話を紹介した。大統領がこの種の“俗説”を記念演説で引用したのには驚いたが、この「三代にわたって」というのが面白い。(中略)
しかし問題は、親が独立闘士であれ親日派であれ、子孫が努力しなければ貧乏するだろうし、逆にがんばれば裕福になるだろう。ただそれだけのことである。それが近代社会というものである。(中略) 独立運動家の子孫が貧しかったとすれば、それは子孫の責任だろう。
なのに大統領は、親日派の子孫が羽振りがよく、独立運動家の子孫が貧乏なのは問題だ、間違っているといっているようにみえる。これでは「個人」より血筋とか家門が重視されなければならない、ということになるではないか。
盧政権は大統領以下、ほとんどが解放後生まれの若い世代で民主化運動出身の進歩派が多い。その新世代政権が過去好きで血筋や家門などという古い価値観にとらわれているのだ。これは韓国の変わらぬ政治文化、政治風土というしかない。
咸臨丸でアメリカを訪れた福沢諭吉がワシントン初代大統領の子孫が今どうしているかを聞いても誰も知らないことに驚いた(「福翁自伝」)ことはよく知られています。あれほど儒教が重視された身分制社会を強く批判した福沢も、そんな社会の中で培われた感覚はいかんともしがたかったということでしょう。もちろん今の日本人は上の黒田氏の記事に同感するでしょうが、その点韓国は現在も血統に関しては「徹底的に(断絶ではなく)持続の思想」(小倉紀蔵「心で知る、韓国」であり、「血統に対する宗教的ともいえるような帰依感」を持っている(田中明「韓国の民族意識と伝統」)という点で日本と対照的です。
つまりは、日本よりもはるかに儒教が深く根を下ろしていて、現代社会にまで大きく影響を及ぼしているとみられます。また北朝鮮の場合は、韓国以上に伝統的な儒教倫理を色濃く残しているのではないでしょうか? 指導者(金正日)が父親(金日成)の喪に服したり、先の記事で書いたように、3代遡って「成分」を分けたり金日成の家系の「聖家族化」を推進したり等々。
※北朝鮮の3代続く独裁体制がスターリン主義・日本の戦前の天皇制・封建時代から続く家父長的儒教主義の3つを受け継いでいるという理解はとてもわかりやすいと私ヌルボは思います。
[2] 韓国人にとっては、「過去は現在と地続き」である。
韓国の連続ドラマの多くは、最初の数回は出生の秘密等々子供時代から始まり、成人後の本来の主役が登場するのは何回か後になります。
つまり、現在の自分は生まれて以来の成育歴に直結している、・・・って当然といえば当然なのですが、それを強く意識し、そこにアイデンティティを見出し、あるいはそこに現在のいろんなことを結びつけるといった意識が強いのでは?
また、復讐物が非常に多い(半分以上?)というのも韓国ドラマの特徴です。国や一族の歴史だけでなく、個人史でも「過去=現在」なので、日本人の目からは「なぜそんなに過去にこだわるの? 復讐に情熱を注ぐよりも、過去は忘れて、あるいは過去の不幸は今後の教訓として、新しい未来に向けて頑張る方がはるかに生産的で良いんじゃないの?」と考えるのは、日本人にとって過去は現在から簡単に切り離して「水に流せる」から。都合の悪い過去はトカゲのしっぽのようにどんどん捨てていけばいい。(それはそれで「問題あり」ですが。) ところが韓国人にとっては現在の自分は過去の自分により規定されていて、個人的にも過去の恨み=現在の恨みだから、それを晴らさないことには先に進めないのです。
歴史を見る場合も、「地続き」の現在から過去を見るわけなので、「現在の価値基準で過去を裁く」ことになります。
したがって、たとえば「韓国併合条約は合法か、無効か?」といった問題についての歴史研究者間の論議でも話がかみ合わないというケースがふつうに(?)生じたりするわけです。(「その当時はそれが正しいとされた」と言うと、韓国人の研究者から「アナタはそれを認めるのかっ!」という声が上がるとか・・・。)
※日韓歴史共同研究(→ウィキペディア)や韓国併合再検討国際会議(→コチラの記事)参照。また→<「日韓併合条約は無効でした」と認めることの何が不都合なのだろう?>と題したコチラのブログ記事に寄せられたコメントのやりとりはなかなか興味深いです。
ところで、日韓間で「正しい歴史認識」と言う時、その「正しさ」の意味を双方がどのように理解しているでしょうか?
日本人の場合は問題とされる歴史上が「実際に」あったかどうかにこだわります。本当に史実なのか否か定かでないことを前提とした主張は、それだけで「正しい」とは言えないと考えます。この「正しさ」は、何年何月何日に何があった、という意味での「正しさ」です。
それに対して、韓国人の考える「正しい歴史認識」とは、歴史に対する「正しい価値判断」を意味します。何が「正義」で、何が「不正義」なのかを「正しく」判断すること。そしてその判断基準は上記のように「現在の価値観」によるものです。日本人にしてみれば、「現在のモノサシで過去を測るのはおかしい」とふつうに考えるところですが、「正義の基準は時代を超えた普遍的なもの」であり、また現在の価値観が時代の進行につれて変化していっても、それに併行して過去の見方も変わるのは当然で、なんら問題はないというわけです。
上掲の小倉紀蔵「心で知る、韓国」にも、次のように記されています。
「・・・だから歴史を見る目も大分違う。なぜ日本人は過去の糾弾をしないのかということを韓国人はよくいう。過去の糾弾というのは、儒教的な意味でいえば毀誉褒貶の「春秋の筆法」(事実を述べるのに価値判断を入れて書く書き方)によって、どれが悪くて、どれが善かったという、必ず善悪の価値を付けて歴史を裁くことをいう。そういう歴史観こそが文明だと思っている。死ねばすべて仏なんだというような歴史観は、儒教的な意味では野蛮に見えるのである。」
「韓国人の歴史意識においては、現在も朝鮮王朝時代も、連続性あるいは同時性としてとらえられているのである。」
こうして見ると、先の安倍首相の「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない」という言葉と、朴槿恵大統領の「加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらない」という言葉との間のミゾの深さがわかるというものです。※「日本人の」価値観に基づく言葉だけで相手を批判しても通じるわけがないのです。もちろん韓国→日本も同様。
韓国併合条約や、1965年日韓基本条約といった日韓間に理解の齟齬がある取り決めと関連して思い出したのが前の記事で紹介した本間九介「朝鮮雑記」中の1つの記事です。ただし国家間ではなく、個人間の約束事、具体的には金銭貸借のことなので、同列に扱うことは問題はありそうだし、内容的にも「侮辱的」ととられる要素がありますが、それは承知の上でとりあえず紹介します。
<韓人單純なり>
韓人は比較的に正直といはんよりは、寧ろ單純といふべき人種なり、(中略) 例令ば彼等の金を借るや、其證書面には若し期日を經過するも義務を果さゝるときは、違約金として五貫文を推尋すること、或は官に卞呈して公裁を仰ぐべしなど、汪洋に書くとも、瓜期に至りて人之を催促すれば、彼等は即ち曰く一銭もなし、願くは猶ほ一期を猶豫せよと、人其最初の約に違ふを責むれば、彼等卽ち曰く唯一時の急を救はん爲め必ず約を履むの意なかりしと、彼等は常に斯る辦疏をなして恬として羞づることなし、然れども彼等は不思議にも借りたる金を借りぬとは言はぬなり、彼等實に單純なる人種なり
といふべし、
證文に期を約するは是れ假相、一寸延れば尋といふ是れ韓人の眞面目、
つまり、「韓人は金を借りても證文に記された返却期日を守るという意識に乏しく、催促しても1銭もないから延ばしてくれ等と言って恥じるところがない」ということ。
誤解のないよう付記すれば、韓国人を非難するのではなく、「当時の韓人がなぜこうだったのか?」についての考察です。1つ目の推論は、契約期日を重視する商慣習・商道徳が定着するほど商業経済が発達していなかったのではないか、ということ。2つ目は、「過去=現在」なので、現在の自分の状況からみて不都合な内容であれば、過去の約束事も単に書き直せばよい、と思っているのでは、ということです。
上述のように国家レベルと個人レベルを並列することに疑問を抱きつつも、現代の「約束破り」で思い起こしたのは北朝鮮の国際社会での「約束事」についてです。
北朝鮮が「核保有国」になってしまった足跡はまさに掟破りの連続でした。核拡散防止条約に加盟後も条約を遵守せず秘密裏に核開発を進めたこと、その後核拡散のおそれの低い軽水炉完成までの期間米日韓が費用を負担して重油を無償で提供して北朝鮮の核兵器開発を放棄させることを目的として合意の上発足したKEDOも、北朝鮮がウラン濃縮による核開発を続行していることが明るみに出て、結局北朝鮮がIAEAから脱退して頓挫しました。
また日本と北朝鮮の間では、「拉致被害者問題」等にしても、「3年後には日本に里帰りできる」はずだった日本人妻の問題にしても、過去幾度となく約束事が反故にされてきました。
国際間の約束事を遵守することよりも優先すべきことがたくさんあるということ。言葉を変えて言えば、国際間の約束事を破ることについてのハードルは相当に低いということです。(ある本には「約束を堂々と破ることが指導的な地位にある者の証左」(!)と書かれていました。)
いろんな細かな事例を挙げるときりがありません。ぼちぼちオシマイにしますが、今回の記事はこのブログの記事としてはちょっと異色の、やや「政治的色合い」を帯びた「憶測」めいた記事になってしまいました。
専門的な研究者であれば、ホントに歴史的な時間の意識や、先祖についての意識等についてちゃんとした調査を踏まえた論を展開すべきところでしょう。(そういう研究はあるのかな?) 非専門家の私ヌルボとしては、「こう考えるとわかりやすい」ということで<仮説>として提示したまでです。
[蛇足] 「嫌韓」の人たちに「利用」されそうなことも書いてしまいましたが、ヌルボの本意は「相互理解」にあります。