ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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韓国の連座制&遡及法を考える④ 本間九介「朝鮮雑記」(1894)にみる連座制の事例から考えたこと

2016-06-03 23:46:21 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 → <韓国の連座制&遡及法を考える③ 北朝鮮の連座制と<成分>、金日成の「輝ける家系」等

        

 もうひと月以上経ってしまいましたが、久しぶりにすずらん通りのアジア文庫に行ってきました。内山書店のビルの、現在は2階にあります。
 そこで平積みになっていたのが上左の本。
 今年2月に「120年ぶりの復刊」とのふれ込みで刊行された本間九介「朝鮮雑記」(原著は1894年刊)です。復刊といっても原文そのままではなく現代語訳になっています。しかし豊富な挿絵は原書のままです。帯にもあるように、あのイザベラ・バード「朝鮮紀行」の4年前に出版されながら、以後“幻の書”とされていたとのことです。

 私ヌルボがこの本のことを知ったのは2008年です。この本は、今回の日本での現代語訳よりずっと早く、その2008年6月に韓国語訳(上右画像)が刊行されました。韓国紙「毎日経済新聞」のサイトに<日本浪人が見た1893年朝鮮の風景>と題した紹介記事が載りましたが、記事原文はその後削除されています。しかし、→コチラの2ちゃんねるの掲示板で(あの) 蚯蚓φ★さんが訳文を載せてくれています。
 おもしろそうな本なので、図書館等にあるかなと思って探しても見つからず。しかし<近代デジタルライブラリー>に収められていることを知りました。(→コチラ。)
 ただ、文語体&旧字体で画像も見づらいのでところどころ拾い読みした程度だったので、アジア文庫でこの現代語訳を見て迷わず購入し、思った通りの興味深い内容でイッキ読みしたというわけです。

 その内容ですが、この本間九介という人は実に好奇心旺盛だったとみえて、実にさまざまなところに目を向け、観察し考察したことを記述しています。
 まさにネタの宝庫なのですが、今回は1つに絞って取り上げます。(今この本が手許にないので、原文をそのまま載せます。)
 ※この本についていろいろ知りたい方は→コチラや→コチラのブログ記事参照。

<塞翁の馬>
 京畿道安城の両班秉轍は余の知人なり、昨春大科を經て第一に及第し、朝散大夫に任せられ、成均館出勤を命ぜらる、知人相會して之を慶賀す、數日にして又命あり曰く、其官を奪て江原道江陵に配竄すと、其理由書に曰く、汝の叔父曾て朝旨に違ひ天主教を奉じ、斬に處せられたるの罪人なり、其醜族の姪を以て、敢て科擧の試場に列す、其罪輕からず即ち江陵に配すと、人間萬事、塞翁の駒の如し、昨日の慶、今日の吊、余復何をか言はん唯氏貧、官を受くるも賄賂を獻じて長官に媚ぶるの餘なかりしを憫むのみ、


 つまり、筆者の知人の韓人がせっかく科挙に合格して官職を得たが、ほどなくして「叔父が天主教(カトリック)禁教に背いて斬罪に処せられたことを秘密にして科挙を受けたのはけしからん」という理由で江陵に追放刑となってしまった、というもの。

 私ヌルボ、この本の韓国人の大食やケンカのようす等々の記述を見て「昔も今も変わりないなー」と思いましたが、上のくだりも同様です。
 朝鮮王朝時代は大逆罪や国家反逆行為を犯した者は、その親兄弟だけでなくいとこや6親等・8親等の親族まで罰したそうですから、上記のような事例も当然だったのでしょう。
 また、天主教迫害といえば時期的には興宣大院君により8千人以上が捕縛・処刑されたという1866(~71)年の丙寅教獄の頃と思われますが、すると本間九介が現地で取材した20年以上前のこと。その間、1880年代前半にはキリスト教信教も容認され、(プロテスタントも含めて)布教活動が活発化しています。したがって、この筆者の知人の韓人のケースはキリスト教禁止に関連するものではありません。あるいは、記事から推量されるように、官吏が賄賂をあてにして彼の個人情報から見つけたネタということなのでしょうか?
 いずれにしろ、こうした理由をもって科挙に合格したほどの優秀な人材を処罰するとは、本間九介が理不尽に思うのは当然です。
 もちろん現代日本人の私ヌルボも。・・・ということでふと思ったのが、この100年以上も前と同様のことが今の韓国や北朝鮮でも形を変えつつも続いているのではないか?ということ。
 それは相手方の考え方がヘンだ、間違っているということではなく、「そんな何十年も前のことは関係ない」とか、「そんな会ったこともないような遠い親戚や何代も前の先祖なんて自分とは関係ないし、関係づける方がおかしい」と考えるのは自分が日本人だからで、韓国や北朝鮮ではそうは考えない人がわりとふつうにいるのかもしれない、という相対的な視点です。
 そう考えると、最近の日韓間の「歴史認識」や「補償」等々をめぐる齟齬の基底にあるものがわかるような気がしてきました。
 これがこの<韓国の連座制&遡及法を考える>シリーズのきっかけでした。

 前回の記事では「あと1回」と書きましたが、とりあえずここでひと区切り入れて、あともう1回まとめの記事を書くことにします。

 →<韓国の連座制&遡及法を考える⑤ 「先祖=自分」、「過去=現在」という仮説>
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