→ 多角的に見る韓国映画「暗殺」(ネタバレほとんどナシ) ①<進歩系>映画と<保守系>映画
→ 多角的に見る韓国映画「暗殺」(ネタバレほとんどナシ) ②昨年来日本統治期を背景とした作品が増えている
このシリーズの前回の記事では、この頃増えている日本統治期を背景とした作品を紹介しました。それからすでに20日も経ってしまい、その間、6月1日にはパク・チャヌク監督の「アガシ(お嬢さん)」が公開され、→コチラの記事が伝えるように「動員数200万人突破=R19映画では最短での新記録」と好スタートをきったそうです。
では、なぜ日本の統治期を舞台とした韓国映画がこのところ目立って増えているのか?という「本論」にやっと入ることにします。
最初にりあえず結論を提示しておくと、それはその時代に対する見方が近年変わってきていることの表れでは?ということ。
私ヌルボがそう考えるようになったのは、たとえば次のような本からです。
左は申明直「모단뽀이 경성을 거닐다(モダンボーイ 京城をぶらつく)」(2003)。副題は「만문만화로 보는 근대의 얼굴(漫文漫画で見る近代の顔)」で、1930年代の京城の世相風俗を、当時の新聞に掲載されていた安夕影(ソギョン)の漫文漫画を紹介した本です。
※夕影は号で、本名は安碩柱(アン・ソクチュ)。挿絵画家ばかりでなく、映画監督をしたり(「志願兵」という親日映画等を制作。→コチラ参照) 韓国でも北朝鮮でも歌われている「我々の願いは統一」の作詞者でもあります。
※この本の元となった著者の論文(日本語)は→コチラで読むことができます。
この本は刊行された2003年韓国の読書界で話題になり、「朝鮮日報」の「今年の本10冊」にも選定されたそうです。
私ヌルボがこの本のことを知ったのはその翌年くらいだったか? そして2005年にはもう翻訳書が東洋経済新報社から刊行されました。書名は「幻想と絶望 漫文漫画で読み説く日本統治時代の京城」です。
この本の版元の惹句は次の通りです。
当時の新聞に掲載されていた漫文漫画をもとに、近代文化が花開き、きらびやかだった1930年代の京城のありのままの姿を追う。暗黒の時代としての側面ばかりが語られてきた朝鮮近代史に風穴をあける新しい歴史観として韓国で話題になった書の待望の翻訳。
この翻訳書の「訳者あとがき」で、古田富建さんは次のように記しています。
韓国の現地高校に通った訳者(古田)の経験では、歴史の教科書で学んだりテレビドラマに描かれる植民地朝鮮の人びとの姿は、 「独立のために戦う独立運動家」か、日本にこびる忌むべき「親日派」、あるいは日本の憲兵に怯え、日本人に搾取されながら貧しい生活を強いられる民衆だった。
特に、国定の歴史教科書では、「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムで執筆されていた。そのような歴史認識を持っていたせいか、この原書に触れた時、ものすごい「新鮮さ」を感じた。植民地という抑圧された苦しい時代状況の中でも、「モダン」を楽しみ、精一杯生きようとした当時の人間の「素顔」がそこに見られたからだ。
私ヌルボが初めて(20年ほど前?)韓国の歴史教科書を見た時も同様の感想を持ちました。安重根と柳寛順以外は初めて名前を見る「独立闘士」の名前が何人も載っている一方、当時の町や村のようすや一般の朝鮮人の生活等については、土地や米の収奪、強制徴用、神社の参拝強制、日本語教育の強制等の否定すべき統治政策以外は全然描かれていないのです。
ところが、21世紀に入って上掲の書籍の他にも、教科書には載っていない日本統治時代の姿がメディアでしばしば見られるようになりました。
新聞では、2010年が韓国併合から100年ということもあって、その前年頃からとくに日本統治期についての企画記事がいくつも掲載されました。たとえば「東亜日報」では2009年10月から翌年2月まで<동아일보 속의 근대 100경(東亜日報の中の近代100景)>が連載されました。→コチラはその記事一覧ですが、独立運動関係や言論弾圧等の記事もある一方、ティールームとカビチャ(=コーヒー)の記事やラジオ、汽車と鉄道駅、「ひと夏のヴァカンス」といったさまざまな新しい文物を幅広く取り上げています。
映画では、90年代にすでに「将軍の息子」(1990)や「錦紅よ、錦紅よ」(1995)等がありましたが、今世紀に入ってからの作品を観てみると、「1942 奇談」(2007)(→コチラ)、「ワンス・アポン・ア・タイム」(2008)(→コチラ、「モダンボーイ」(2008)(→コチラ)等があります。またTVドラマでは「野人時代」(SBS.2002~03)、「英雄時代」(MBC.2004~05)、「京城スキャンダル」(KBS.2007)等があげられます。
これらの映画やドラマの内容をみると、現代(ヒュンダイ)財閥創業者の鄭周永(ドラマではチョン・テサン)の一代記といった「英雄時代」以外はほとんど何らかの形で抗日を主要なファクターとして構成されています。しかし、背景の時代像は、日帝の支配という暗い部分に対して、京城の街の新風俗が対照的に描かれるようになってきています。
たとえば、「京城スキャンダル」の公式サイトのイントロダクションを見てみると・・・。
舞台は1930年代の京城(現在のソウル)。
南北が1つであったこの頃の朝鮮は、大日本帝国の支配下にあった。自由を奪われ、しいたげられる民衆。
しかし!一方で華やかな生活に身を任せるモダンボーイ&モダンガールたちがいた。
朝鮮時代にはありえなかった自由恋愛の思想、次々に入ってくる舶来品、違法ダンスホールで繰り広げられる夜ごとのパーティー。
まったく悲壮感の漂わない明るく軽快な植民地時代の物語。
主人公ソヌ・ワンは京城一のプレイボーイ。一方のヒロインは革命に生きる独立運動家ナ・ヨギョン、そして泣く子も黙る高級妓生チャ・ソンジュ。
・・・映画「モダンボーイ」とちょっと重なるところがありますね。タイトルからしてそんな<新風俗>を明確にウリにしているわけだし・・・。
また、前にも引用した「中央日報」の記事(→コチラ)は、この時代を描いた映画が増えている理由の1つとして、「日帝強制占領期間が視覚的観点から魅力的だと見る人々も多い」と記しています。「その時期が民族的見解では日々怒りの押し寄せる屈辱の連続だったが、日帝が移植した近代文明によって都心に電車が通り、中折れ帽をかぶった紳士が街を闊歩するなど空間のビジュアル自体はロマンチックな要素があるということだ」と、やはり新風俗と抗日運動の対比というのが最近のこれらの映画の基本的構図というわけです。
そして「暗殺」の場合はこの「視覚的な魅力」にこだわり、綿密な時代考証をふまえ、多額の費用をかけて当時の街や物を再現しました。「ハンギョレ」の記事(→コチラ)によると、「シャンデリア1個に5000万ウォン、リンカーンK等のクラシックカー購買・レンタルに4億ウォンなど、セットと衣装だけに35億ウォンを投じた」そうです。
上の画像は私ヌルボが4月1日にソウルの映像資料院で開催中の企画展「<암살>, 1930년대 경성과 호흡하다(<暗殺>1930年代京城と呼吸する)」を見てきた時に撮った写真です。残念ながらリンカーンKはなかったものの、監督のこだわりを垣間見ることができることができる展示でした。当時の京城の地図の上に、映画に出てきた主な建物の位置が説明文とともに示されていて、真ん中の三越百貨店の画像もその1つです。また、映画の中で主人公の1人が初めてコーヒーを飲むシーンがありますが、右の画像はコーヒーの淹れ方を記した当時の雑誌です。展示中にはありませんでしたが、カフェで暗殺者たちが踊る(!)シーンでは、ジャン・ギャバンの歌う「Léo, Léa, Élie」という歌(→YouTube)が流されていました。
以上、あれこれ細々と書きましたが、要は1930年代は「暗いばかりの時代ではない」という認識が広がってきているということです。
では、なぜこれまでの歴史教科書の記述のような「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムから外れたような見方が出てきたのでしょうか?
ウィキペディアの<朝鮮の歴史観>の項目(→コチラ)等によると、韓国の歴史学界では1960~90年代は上記のような歴史観を基軸とする民族主義史学が圧倒的に優勢で、教科書もそうした歴史観に沿って記述されてきました。ところが90年代後半頃から<植民地近代化論>等々の立場から批判の声が上がり、たとえばとくに「教科書問題」をめぐって論争が展開されてきました。(←昨年来大きな政治的争点になりました。)
そして2015年9月に文教部(日本の文科省に相当)が発表した2015改正教育課程案では、「(1919年成立の)大韓民国臨時政府の正統性排除(=1949年を大韓民国政府樹立とする)」、「独立運動史の大幅縮小(20年代のみとする)」、「朝鮮後期の経済状況の記述削除(=内在的発展論の否定)塔が盛り込まれ、ついに長く主流だった(左派的な)民族主義史観が廃棄されました。→「ハンギョレ」の記事(韓国語)参照。やっぱり批判的に書いています。
続いて今年3月。「朝鮮日報」のコラム「萬物相」は<時代的使命を果たした「内在的発展論」を超えて>と題した記事(→コチラ)で民族主義史学の基本的主張である内在的発展論について、それを担ってきた学者グループの中から限界と問題点を認めるような発言があったことを取り上げました。(やっぱり、「ハンギョレ」とは逆に好意的に書いています。)
※内在的発展論とは、朝鮮後期には国内ですでに資本主義の萌芽が形成されており、一方的な収奪であった日本の支配がなければ朝鮮の資本主義は独自に順調に発展していたはず、と考える論。
私ヌルボ、このように身内の学者からも内在的発展論への疑問(批判?)が提起されたことは、歴史学界の枠を超えた画期的な出来事として受けとめました。
つまり、上述のような「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムで記述されていた歴史教科書が大幅に改められるというわけだし・・・。とはいえ、このまま左派的な民族主義史観が衰えるとも思えませんが・・・。もし次の大統領選挙で進歩系が勝てばまた教科書内容も揺り戻しがありそうで、まだせめぎ合いは続くのではないでしょうか?
また長々と書いてしまいましたが、用はこのような歴史学界の事情がこの20年くらいの間の近代、とくに日本統治期に対する見方の変化にも反映されているのではないかということです。
では、何がこのような歴史観の推移・変貌を促したのかというと、これはもう本ブログのテリトリーから外れてしまうのでオシマイにしておきます。
このシリーズ、次回は映画「暗殺」の中の<史実>と<虚構>について考えるということにします。(たぶん。)
→ ④判別がむずかしい<史実>と<虚構>の間
→ ⑤韓国でようやく知られ始めた金元鳳(キム・ウォンボン)と義烈団
→ ⑥「日本軍により3469人が殺された事件」というのは何だ?
→ 多角的に見る韓国映画「暗殺」(ネタバレほとんどナシ) ②昨年来日本統治期を背景とした作品が増えている
このシリーズの前回の記事では、この頃増えている日本統治期を背景とした作品を紹介しました。それからすでに20日も経ってしまい、その間、6月1日にはパク・チャヌク監督の「アガシ(お嬢さん)」が公開され、→コチラの記事が伝えるように「動員数200万人突破=R19映画では最短での新記録」と好スタートをきったそうです。
では、なぜ日本の統治期を舞台とした韓国映画がこのところ目立って増えているのか?という「本論」にやっと入ることにします。
最初にりあえず結論を提示しておくと、それはその時代に対する見方が近年変わってきていることの表れでは?ということ。
私ヌルボがそう考えるようになったのは、たとえば次のような本からです。
※夕影は号で、本名は安碩柱(アン・ソクチュ)。挿絵画家ばかりでなく、映画監督をしたり(「志願兵」という親日映画等を制作。→コチラ参照) 韓国でも北朝鮮でも歌われている「我々の願いは統一」の作詞者でもあります。
※この本の元となった著者の論文(日本語)は→コチラで読むことができます。
この本は刊行された2003年韓国の読書界で話題になり、「朝鮮日報」の「今年の本10冊」にも選定されたそうです。
私ヌルボがこの本のことを知ったのはその翌年くらいだったか? そして2005年にはもう翻訳書が東洋経済新報社から刊行されました。書名は「幻想と絶望 漫文漫画で読み説く日本統治時代の京城」です。
この本の版元の惹句は次の通りです。
当時の新聞に掲載されていた漫文漫画をもとに、近代文化が花開き、きらびやかだった1930年代の京城のありのままの姿を追う。暗黒の時代としての側面ばかりが語られてきた朝鮮近代史に風穴をあける新しい歴史観として韓国で話題になった書の待望の翻訳。
この翻訳書の「訳者あとがき」で、古田富建さんは次のように記しています。
韓国の現地高校に通った訳者(古田)の経験では、歴史の教科書で学んだりテレビドラマに描かれる植民地朝鮮の人びとの姿は、 「独立のために戦う独立運動家」か、日本にこびる忌むべき「親日派」、あるいは日本の憲兵に怯え、日本人に搾取されながら貧しい生活を強いられる民衆だった。
特に、国定の歴史教科書では、「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムで執筆されていた。そのような歴史認識を持っていたせいか、この原書に触れた時、ものすごい「新鮮さ」を感じた。植民地という抑圧された苦しい時代状況の中でも、「モダン」を楽しみ、精一杯生きようとした当時の人間の「素顔」がそこに見られたからだ。
私ヌルボが初めて(20年ほど前?)韓国の歴史教科書を見た時も同様の感想を持ちました。安重根と柳寛順以外は初めて名前を見る「独立闘士」の名前が何人も載っている一方、当時の町や村のようすや一般の朝鮮人の生活等については、土地や米の収奪、強制徴用、神社の参拝強制、日本語教育の強制等の否定すべき統治政策以外は全然描かれていないのです。
ところが、21世紀に入って上掲の書籍の他にも、教科書には載っていない日本統治時代の姿がメディアでしばしば見られるようになりました。
新聞では、2010年が韓国併合から100年ということもあって、その前年頃からとくに日本統治期についての企画記事がいくつも掲載されました。たとえば「東亜日報」では2009年10月から翌年2月まで<동아일보 속의 근대 100경(東亜日報の中の近代100景)>が連載されました。→コチラはその記事一覧ですが、独立運動関係や言論弾圧等の記事もある一方、ティールームとカビチャ(=コーヒー)の記事やラジオ、汽車と鉄道駅、「ひと夏のヴァカンス」といったさまざまな新しい文物を幅広く取り上げています。
映画では、90年代にすでに「将軍の息子」(1990)や「錦紅よ、錦紅よ」(1995)等がありましたが、今世紀に入ってからの作品を観てみると、「1942 奇談」(2007)(→コチラ)、「ワンス・アポン・ア・タイム」(2008)(→コチラ、「モダンボーイ」(2008)(→コチラ)等があります。またTVドラマでは「野人時代」(SBS.2002~03)、「英雄時代」(MBC.2004~05)、「京城スキャンダル」(KBS.2007)等があげられます。
これらの映画やドラマの内容をみると、現代(ヒュンダイ)財閥創業者の鄭周永(ドラマではチョン・テサン)の一代記といった「英雄時代」以外はほとんど何らかの形で抗日を主要なファクターとして構成されています。しかし、背景の時代像は、日帝の支配という暗い部分に対して、京城の街の新風俗が対照的に描かれるようになってきています。
たとえば、「京城スキャンダル」の公式サイトのイントロダクションを見てみると・・・。
舞台は1930年代の京城(現在のソウル)。
南北が1つであったこの頃の朝鮮は、大日本帝国の支配下にあった。自由を奪われ、しいたげられる民衆。
しかし!一方で華やかな生活に身を任せるモダンボーイ&モダンガールたちがいた。
朝鮮時代にはありえなかった自由恋愛の思想、次々に入ってくる舶来品、違法ダンスホールで繰り広げられる夜ごとのパーティー。
まったく悲壮感の漂わない明るく軽快な植民地時代の物語。
主人公ソヌ・ワンは京城一のプレイボーイ。一方のヒロインは革命に生きる独立運動家ナ・ヨギョン、そして泣く子も黙る高級妓生チャ・ソンジュ。
・・・映画「モダンボーイ」とちょっと重なるところがありますね。タイトルからしてそんな<新風俗>を明確にウリにしているわけだし・・・。
また、前にも引用した「中央日報」の記事(→コチラ)は、この時代を描いた映画が増えている理由の1つとして、「日帝強制占領期間が視覚的観点から魅力的だと見る人々も多い」と記しています。「その時期が民族的見解では日々怒りの押し寄せる屈辱の連続だったが、日帝が移植した近代文明によって都心に電車が通り、中折れ帽をかぶった紳士が街を闊歩するなど空間のビジュアル自体はロマンチックな要素があるということだ」と、やはり新風俗と抗日運動の対比というのが最近のこれらの映画の基本的構図というわけです。
そして「暗殺」の場合はこの「視覚的な魅力」にこだわり、綿密な時代考証をふまえ、多額の費用をかけて当時の街や物を再現しました。「ハンギョレ」の記事(→コチラ)によると、「シャンデリア1個に5000万ウォン、リンカーンK等のクラシックカー購買・レンタルに4億ウォンなど、セットと衣装だけに35億ウォンを投じた」そうです。
以上、あれこれ細々と書きましたが、要は1930年代は「暗いばかりの時代ではない」という認識が広がってきているということです。
では、なぜこれまでの歴史教科書の記述のような「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムから外れたような見方が出てきたのでしょうか?
ウィキペディアの<朝鮮の歴史観>の項目(→コチラ)等によると、韓国の歴史学界では1960~90年代は上記のような歴史観を基軸とする民族主義史学が圧倒的に優勢で、教科書もそうした歴史観に沿って記述されてきました。ところが90年代後半頃から<植民地近代化論>等々の立場から批判の声が上がり、たとえばとくに「教科書問題」をめぐって論争が展開されてきました。(←昨年来大きな政治的争点になりました。)
そして2015年9月に文教部(日本の文科省に相当)が発表した2015改正教育課程案では、「(1919年成立の)大韓民国臨時政府の正統性排除(=1949年を大韓民国政府樹立とする)」、「独立運動史の大幅縮小(20年代のみとする)」、「朝鮮後期の経済状況の記述削除(=内在的発展論の否定)塔が盛り込まれ、ついに長く主流だった(左派的な)民族主義史観が廃棄されました。→「ハンギョレ」の記事(韓国語)参照。やっぱり批判的に書いています。
続いて今年3月。「朝鮮日報」のコラム「萬物相」は<時代的使命を果たした「内在的発展論」を超えて>と題した記事(→コチラ)で民族主義史学の基本的主張である内在的発展論について、それを担ってきた学者グループの中から限界と問題点を認めるような発言があったことを取り上げました。(やっぱり、「ハンギョレ」とは逆に好意的に書いています。)
※内在的発展論とは、朝鮮後期には国内ですでに資本主義の萌芽が形成されており、一方的な収奪であった日本の支配がなければ朝鮮の資本主義は独自に順調に発展していたはず、と考える論。
私ヌルボ、このように身内の学者からも内在的発展論への疑問(批判?)が提起されたことは、歴史学界の枠を超えた画期的な出来事として受けとめました。
つまり、上述のような「統治」対「抵抗」の二元的なパラダイムで記述されていた歴史教科書が大幅に改められるというわけだし・・・。とはいえ、このまま左派的な民族主義史観が衰えるとも思えませんが・・・。もし次の大統領選挙で進歩系が勝てばまた教科書内容も揺り戻しがありそうで、まだせめぎ合いは続くのではないでしょうか?
また長々と書いてしまいましたが、用はこのような歴史学界の事情がこの20年くらいの間の近代、とくに日本統治期に対する見方の変化にも反映されているのではないかということです。
では、何がこのような歴史観の推移・変貌を促したのかというと、これはもう本ブログのテリトリーから外れてしまうのでオシマイにしておきます。
このシリーズ、次回は映画「暗殺」の中の<史実>と<虚構>について考えるということにします。(たぶん。)
→ ④判別がむずかしい<史実>と<虚構>の間
→ ⑤韓国でようやく知られ始めた金元鳳(キム・ウォンボン)と義烈団
→ ⑥「日本軍により3469人が殺された事件」というのは何だ?