10月25日の記事<そうだったのか! 韓国人のアタマの中の韓国地図>のコメントで、のんきさんが朴範信(パク・ボムシン)の小説「古山子(고산자.コサンジャ)」のことについて書いて下さいました。
それを読んで、私ヌルボ、20年以上も前に観た北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」のことをボンヤリと思い出しました。
※この映画については崔碩義さんの文章をご参照ください。(→コチラ。)
映画に続いて思い出したのが何年か前に購入したもののツンドクになっていたジュニア向けの韓国書。
それが、とくに熱心に捜したわけでもないのに、数日前奇跡的に発見されました。これは空前で絶後のことかもしれません。
で、その本がこれ。
【書名は「大東輿地図」(だいとうよちず)です。あ、書いてありますね。】
地図といえば、日本人なら誰もが知っている有名人が伊能忠敬(1745~1818年)。
彼の偉大な点は、まず隠居後の50歳になって19歳年下の高橋至時を師として暦学・天文の学問を始めたこと。
そして幕府の命を得た形で蝦夷地測量に向かったのが55歳の時で、以後73歳で世を去るまで日本全土の測量を続け、歩いた歩数は井上ひさしの小説によれば「四千万歩」。その成果というべき「大日本沿海輿地全図」が完成したのは、彼の死後の1821年でした。
・・・と、以上はウィキペディアを援用。
※「大日本沿海輿地全図」の大図214枚を名古屋ドームで並べている動画は→コチラ。
そして朝鮮では、「大日本沿海輿地全図」からちょうど40年遅れて、1861年ほぼ正確な朝鮮半島全図である「大東輿地図」が作成・印刷されました。
「大日本沿海輿地全図」は手書きの彩色地図でしたが、「大東輿地図」は126枚の木版に彫られました。
【「大東輿地図」。韓国人にとっては、独島が載っていないというのが非常に残念ということです。】
そして、この「大東輿地図」の作者が金正浩(김정호.キム・ジョンホ)という人。古山子(コサンジャ)というのはその号です。
この地図は、現在は韓国が誇るべき歴史遺産として国宝(正確には宝物)とされていますが、この金正浩については伊能忠敬とは対照的に詳しく伝えられていません。
私ヌルボが金正浩について知ったのは先述の通り北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」からですが、今回読んだ「大東輿地図」という本によると、過去大方の韓国の人たちもその映画に描かれた金正浩像を当然のように思い込んでいたということです。
そのポイントというのは次の3点です。
①金正浩が地図を作る前は、朝鮮には正確な地図がなかった。
②金正浩は白頭山に8回登り、全国を3度も踏査する等、ただ二本の脚で歩いて地図を作った。
③朝鮮政府(大院君)は、この地図が外敵の手に渡ることをおそれ、地図と木版を押収し、金正浩は獄死した。
・・・そうそう。だから私ヌルボ、この「大東輿地図」という本もたぶんそのような金正浩の一生を描いた伝記だろうと思ってしまったのが2006年発行なのに長い間ツンドクにしてしまっていた大きな理由だったのです。
ところがこのイ・チャウォンの本を読んでみたら全然違う内容なのです。
伝記ではなく、フィクションでもありません。金正浩と、彼が作製した「大東輿地図」等の地図について書かれた児童・生徒向けの教養書です。
筆者のイ・チャウォンは梨花女子大で地理学を専攻した人とのことで、最近の学説についてもわかりやすく紹介しています。
ところがこの本、最初から「アレレ!」と<常識>を覆すようなことが書かれています。
その<常識>というのがまさに上記の①~③なのです。
この本によると、そのような「常識」の元は<日帝強占期>の普通学校の教科書「朝鮮語読本」(1934年)だということです。
【「日帝は朝鮮語を抹殺しようとした」という韓国の主張を否定するネタとしてよく用いられますね。この第五巻に金正浩のことが記されています。】
このイ・チャウォンの本の冒頭に、この教科書の文章がそのまま載せられています。(下画像)
【ハングルの用字がヘン! と思ったら、当時と現在とでは正書法が違うのですね。挿絵は当時のものではありません。】
そして本書は「朝鮮語読本」の金正浩の物語の要点として上記3項目を列記しているのですが、「アレレ!」というのはその直後のこの文章。
「うーん、あまりにもそのようにみえますが、これは最初から最後まで誤解です。」
では、正しい史実はというと要約すれば以下の3点。
①金正浩以前の朝鮮にも、すでにいくつも地図があった。(世宗の代以来、地図製作の先進国だった。)
②金正浩は朝鮮各地を踏査していない。彼はそれまで作られていた地図を基にして地図を作った。
③「東方輿地図」は没収・焼却されたりせず今に伝えられていて、金正浩が捕えられ獄死したという事実もない。
この<常識>破りの説の論拠として、次のような理由があげられています。
「大東輿地図」の製作を後援した崔漢綺(최한기.チェ・ハンギ)、申櫶(신헌.シン・ホン)も処罰されなかった。
また、彼らの残した記述によれば金正浩は長い間広く資料を集め、さまざまな地図を比較した後地図を作成したと伝えている。
現に「大東輿地図」の木版が残っていることからも、没収・焼却の事実はなかったことは明らか。
さらに、全国をくまなく調査することが地図作成に必須のことではなく、たとえば白頭山に登るのも実質的に意味のあるとはいえないことや、フランスの有名な地図製作者ダンヴィルは1歩もフランスを出ることなく非常に正確な地図を作成したという事例もあげて、むしろ金正浩が英雄的なのは、山を越え川を渡り、飢えや寒さに耐え、ある時は猛獣と戦ったり等々しなくても、机上の作業でこのように細かく正確な作業を持続できたことにある、とこの本では述べられています。
では、なぜ日帝は誤った内容の物語を教科書に載せたのか、という点について。
それを読んだ子どもはおそらく「金正浩は本当に偉大な人だ。しかしそんな立派な人物を殺すとは朝鮮という国はなんとなさけない国か!」と考えるだろう。そして、そんな国は滅んでも当然だと・・・。日本はそれをねらったのだというわけです。
実は以上のこと(金正浩は全国を踏査せず、獄死もしなかった等)は日本版ウィキペディアにも記されています。(→コチラ。)
そして彼の投獄や地図の焼却等は「韓国の歴史学では朝鮮総督府の捏造と見ている」とも。
ところが、このイ・チャウォンの本によると、すべてが朝鮮総督府の作りごとではないとも書かれ、「朝鮮語読本」刊行に約10年先立つ1925年、当代きっての朝鮮人文化人崔南善(チェ・ナムソン)の文章を紹介しています。
※崔南善の激動の生涯についてはウィキペディア参照。(→コチラ。)
崔南善は1925年「東亜日報」に「古山子を偲ぶ」という記事を載せ、「正確な現況を知るために数十年全国をくまなく踏査し、白頭山だけでも7回登った」と記し、その3年後にも「別乾坤」という雑誌で彼が「半生をかけて八道をあまねく回って・・・」と記して、このような文を通して金正浩を死に追いやった朝鮮の無知な為政者を批判している、とのことです。
つまり、崔南善がこのように書くほど<日帝の教科書歪曲>以前に多くの人々がこのような話を信じていたということです。
では、なぜ朝鮮の人々の間に<誤解>が広まり、戦後も長くそれが信じられてきたのか?
イ・チャウォンの本では、この「大東輿地図」を見た人たちがそのすばらしさにうたれ、このような地図はきっと(全国踏査のような)艱難辛苦の結果に違いないと思ったからだろう、と推定しています。(この点について私ヌルボは保留。)
・・・以上、金正浩についての誤った<常識>と、それに対する近年の批判の主要部分をまとめてみました。
ところで、このイ・チャウォンの本によるとこれらの批判が出てきたのが1970年代。李祐炯(イ・ユヒョン)という山岳人にして古地図研究家という人が最初に提起したということのようです。
私ヌルボが最近読んだ山本博文「こんなに変わった歴史教科書」(新潮文庫)には、「学会で認められた新しい学説が教科書に載るのは30年後」というようなことが書かれていました。
韓国でも同様のようで(?)、李祐炯の説にしたがって教科書が改定されたのが1997年。そして2006年度の教科書では、この地図が両班だけでなく百姓の間にも広く、正確に、また後世まで長く伝えられることを期して木版に彫られたことが強調されて記述されています。
以上長々とイ・チャウォンの「大東輿地図」の内容を紹介しました。ところが実は私ヌルボ、とても興味深く読んだのは事実ですが、伊能忠敬について全然ふれていない点は日本人としてはちょっと不満が・・・。
そして、伊能忠敬の生涯と業績について日本では詳しく伝えられていることと比較すると、彼よりも半世紀ほど後の金正浩のことは不明な点が多いということ自体が19世紀~現代の日韓の政治・社会・文化のもろもろを象徴していると思いました。
また、この本については「大東輿地図」という地図とは直接関係ない箇所で疑問をもった点が少しあります。それについてはまた別記事にします。
※参考:上記の新しい金正浩像を漫画で説明している韓国サイトがありました。→コチラ。
→<[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって①>
それを読んで、私ヌルボ、20年以上も前に観た北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」のことをボンヤリと思い出しました。
※この映画については崔碩義さんの文章をご参照ください。(→コチラ。)
映画に続いて思い出したのが何年か前に購入したもののツンドクになっていたジュニア向けの韓国書。
それが、とくに熱心に捜したわけでもないのに、数日前奇跡的に発見されました。これは空前で絶後のことかもしれません。
で、その本がこれ。
【書名は「大東輿地図」(だいとうよちず)です。あ、書いてありますね。】
地図といえば、日本人なら誰もが知っている有名人が伊能忠敬(1745~1818年)。
彼の偉大な点は、まず隠居後の50歳になって19歳年下の高橋至時を師として暦学・天文の学問を始めたこと。
そして幕府の命を得た形で蝦夷地測量に向かったのが55歳の時で、以後73歳で世を去るまで日本全土の測量を続け、歩いた歩数は井上ひさしの小説によれば「四千万歩」。その成果というべき「大日本沿海輿地全図」が完成したのは、彼の死後の1821年でした。
・・・と、以上はウィキペディアを援用。
※「大日本沿海輿地全図」の大図214枚を名古屋ドームで並べている動画は→コチラ。
そして朝鮮では、「大日本沿海輿地全図」からちょうど40年遅れて、1861年ほぼ正確な朝鮮半島全図である「大東輿地図」が作成・印刷されました。
「大日本沿海輿地全図」は手書きの彩色地図でしたが、「大東輿地図」は126枚の木版に彫られました。
【「大東輿地図」。韓国人にとっては、独島が載っていないというのが非常に残念ということです。】
そして、この「大東輿地図」の作者が金正浩(김정호.キム・ジョンホ)という人。古山子(コサンジャ)というのはその号です。
この地図は、現在は韓国が誇るべき歴史遺産として国宝(正確には宝物)とされていますが、この金正浩については伊能忠敬とは対照的に詳しく伝えられていません。
私ヌルボが金正浩について知ったのは先述の通り北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」からですが、今回読んだ「大東輿地図」という本によると、過去大方の韓国の人たちもその映画に描かれた金正浩像を当然のように思い込んでいたということです。
そのポイントというのは次の3点です。
①金正浩が地図を作る前は、朝鮮には正確な地図がなかった。
②金正浩は白頭山に8回登り、全国を3度も踏査する等、ただ二本の脚で歩いて地図を作った。
③朝鮮政府(大院君)は、この地図が外敵の手に渡ることをおそれ、地図と木版を押収し、金正浩は獄死した。
・・・そうそう。だから私ヌルボ、この「大東輿地図」という本もたぶんそのような金正浩の一生を描いた伝記だろうと思ってしまったのが2006年発行なのに長い間ツンドクにしてしまっていた大きな理由だったのです。
ところがこのイ・チャウォンの本を読んでみたら全然違う内容なのです。
伝記ではなく、フィクションでもありません。金正浩と、彼が作製した「大東輿地図」等の地図について書かれた児童・生徒向けの教養書です。
筆者のイ・チャウォンは梨花女子大で地理学を専攻した人とのことで、最近の学説についてもわかりやすく紹介しています。
ところがこの本、最初から「アレレ!」と<常識>を覆すようなことが書かれています。
その<常識>というのがまさに上記の①~③なのです。
この本によると、そのような「常識」の元は<日帝強占期>の普通学校の教科書「朝鮮語読本」(1934年)だということです。
【「日帝は朝鮮語を抹殺しようとした」という韓国の主張を否定するネタとしてよく用いられますね。この第五巻に金正浩のことが記されています。】
このイ・チャウォンの本の冒頭に、この教科書の文章がそのまま載せられています。(下画像)
【ハングルの用字がヘン! と思ったら、当時と現在とでは正書法が違うのですね。挿絵は当時のものではありません。】
そして本書は「朝鮮語読本」の金正浩の物語の要点として上記3項目を列記しているのですが、「アレレ!」というのはその直後のこの文章。
「うーん、あまりにもそのようにみえますが、これは最初から最後まで誤解です。」
では、正しい史実はというと要約すれば以下の3点。
①金正浩以前の朝鮮にも、すでにいくつも地図があった。(世宗の代以来、地図製作の先進国だった。)
②金正浩は朝鮮各地を踏査していない。彼はそれまで作られていた地図を基にして地図を作った。
③「東方輿地図」は没収・焼却されたりせず今に伝えられていて、金正浩が捕えられ獄死したという事実もない。
この<常識>破りの説の論拠として、次のような理由があげられています。
「大東輿地図」の製作を後援した崔漢綺(최한기.チェ・ハンギ)、申櫶(신헌.シン・ホン)も処罰されなかった。
また、彼らの残した記述によれば金正浩は長い間広く資料を集め、さまざまな地図を比較した後地図を作成したと伝えている。
現に「大東輿地図」の木版が残っていることからも、没収・焼却の事実はなかったことは明らか。
さらに、全国をくまなく調査することが地図作成に必須のことではなく、たとえば白頭山に登るのも実質的に意味のあるとはいえないことや、フランスの有名な地図製作者ダンヴィルは1歩もフランスを出ることなく非常に正確な地図を作成したという事例もあげて、むしろ金正浩が英雄的なのは、山を越え川を渡り、飢えや寒さに耐え、ある時は猛獣と戦ったり等々しなくても、机上の作業でこのように細かく正確な作業を持続できたことにある、とこの本では述べられています。
では、なぜ日帝は誤った内容の物語を教科書に載せたのか、という点について。
それを読んだ子どもはおそらく「金正浩は本当に偉大な人だ。しかしそんな立派な人物を殺すとは朝鮮という国はなんとなさけない国か!」と考えるだろう。そして、そんな国は滅んでも当然だと・・・。日本はそれをねらったのだというわけです。
実は以上のこと(金正浩は全国を踏査せず、獄死もしなかった等)は日本版ウィキペディアにも記されています。(→コチラ。)
そして彼の投獄や地図の焼却等は「韓国の歴史学では朝鮮総督府の捏造と見ている」とも。
ところが、このイ・チャウォンの本によると、すべてが朝鮮総督府の作りごとではないとも書かれ、「朝鮮語読本」刊行に約10年先立つ1925年、当代きっての朝鮮人文化人崔南善(チェ・ナムソン)の文章を紹介しています。
※崔南善の激動の生涯についてはウィキペディア参照。(→コチラ。)
崔南善は1925年「東亜日報」に「古山子を偲ぶ」という記事を載せ、「正確な現況を知るために数十年全国をくまなく踏査し、白頭山だけでも7回登った」と記し、その3年後にも「別乾坤」という雑誌で彼が「半生をかけて八道をあまねく回って・・・」と記して、このような文を通して金正浩を死に追いやった朝鮮の無知な為政者を批判している、とのことです。
つまり、崔南善がこのように書くほど<日帝の教科書歪曲>以前に多くの人々がこのような話を信じていたということです。
では、なぜ朝鮮の人々の間に<誤解>が広まり、戦後も長くそれが信じられてきたのか?
イ・チャウォンの本では、この「大東輿地図」を見た人たちがそのすばらしさにうたれ、このような地図はきっと(全国踏査のような)艱難辛苦の結果に違いないと思ったからだろう、と推定しています。(この点について私ヌルボは保留。)
・・・以上、金正浩についての誤った<常識>と、それに対する近年の批判の主要部分をまとめてみました。
ところで、このイ・チャウォンの本によるとこれらの批判が出てきたのが1970年代。李祐炯(イ・ユヒョン)という山岳人にして古地図研究家という人が最初に提起したということのようです。
私ヌルボが最近読んだ山本博文「こんなに変わった歴史教科書」(新潮文庫)には、「学会で認められた新しい学説が教科書に載るのは30年後」というようなことが書かれていました。
韓国でも同様のようで(?)、李祐炯の説にしたがって教科書が改定されたのが1997年。そして2006年度の教科書では、この地図が両班だけでなく百姓の間にも広く、正確に、また後世まで長く伝えられることを期して木版に彫られたことが強調されて記述されています。
以上長々とイ・チャウォンの「大東輿地図」の内容を紹介しました。ところが実は私ヌルボ、とても興味深く読んだのは事実ですが、伊能忠敬について全然ふれていない点は日本人としてはちょっと不満が・・・。
そして、伊能忠敬の生涯と業績について日本では詳しく伝えられていることと比較すると、彼よりも半世紀ほど後の金正浩のことは不明な点が多いということ自体が19世紀~現代の日韓の政治・社会・文化のもろもろを象徴していると思いました。
また、この本については「大東輿地図」という地図とは直接関係ない箇所で疑問をもった点が少しあります。それについてはまた別記事にします。
※参考:上記の新しい金正浩像を漫画で説明している韓国サイトがありました。→コチラ。
→<[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって①>
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