ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

ナショナリズムを批判する韓国の少数派学者たち

2013-03-10 23:57:33 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 韓国の朴槿恵新大統領が就任早々日本に対して「歴史を正しく直視」すること、「正しい歴史認識」を持つことを求めています。

 ところが、その韓国自身の「歴史認識」についてみてみると、多少なりとも関心を持ってニュースに接している日本人は、韓国の「民族主義」や「民族的自尊心」といったものの強さに辟易としているのではないでしょうか? 人によってはそれに対して日本人としての民族意識を喚起してみたり「韓国起源説」のようなネタで皮肉ってみたり、あるいはたんに怒りを「嫌韓ブログ」等で表出してみたり・・・。
 このような強烈な民族主義については、韓国の主張にほとんど同調している(ように見える)「左翼」知識人の中にもしかたなく(?)認めているような人もいるようだし、かなりはっきりと批判している人も出てきているようではあります。もちろん「抵抗の民族主義」として積極的に肯定している人は多くいると思いますが・・・。

 今回の記事の結論を先に書いておきます。
 韓国でもこの10年くらいの間に、上記のような戦後長く主流となっていた民族主義に対して異を唱える学者が目立つようになってきた、ということです。

 近年のそのような動きが読み取れる学術的な日本書籍を3点紹介します。いずれも日韓の歴史学等の研究者たちの論文集です。

     

[A] 宮嶋博史・李成市・尹海東・林志弦(編)「植民地近代の視座――朝鮮と日本」(岩波書店.2004年)
  ※→出版社のサイト
[B] 三谷博・金泰昌(編)「東アジア歴史対話 ―国境と世代を越えて」(東京大学出版会.2007年) 
  ※→出版社のサイト
[C] 小森陽一・崔元植・朴裕河(編・著)「東アジア歴史認識論争のメタヒストリー」(青弓社.2008年)
  ※→出版社のサイト

 どれも私ヌルボのような一般人読者が読んでも興味深い論考が多いのですが、とくに「刺激的」なのが[C]です。
 それぞれの本の内容は、各出版社のサイトで見ることができますが、[C]については以下のようなものが並んでいます。

Ⅰ.韓国、日本、東アジア―新たな未来への構想のために
 崔元植:ポスト一九六五年を点検するメモ
 島村輝:「居心地の悪さ」に直面するということ―「日中・知の共同体」プロジェクトの経験から
 金哲:抵抗と絶望
 朴裕河:韓日間の過去の克服はいかに可能か
Ⅱ.教科書問題再論
 俵義文:「つくる会」の歴史歪曲教科書と「二〇〇五年問題」
 李栄薫:国史教科書に描かれた日帝の収奪の様相とその神話性
 小森陽一:日本における憲法・教育基本法改悪の現段階―自閉的ナショナリズムとメディアの壁
 成田龍一:「東アジア史」の可能性―日本・中国・韓国=共同編集『未来をひらく歴史』(二〇〇五年)をめぐって)
Ⅲ.「慰安婦」問題をどうとらえるか
 和田春樹:アジア女性基金問題と知識人の責任
 上野千鶴子:アジア女性基金の歴史的総括
 金恩実:韓日問題を解く第三の道を模索するために
 姜ガラム:韓日社会のなかの日本軍「慰安婦」問題とトランスナショナルな女性連帯の可能性―「二〇〇〇年女性国際戦犯法廷」を中心に
Ⅳ.「靖国」問題を問い直す\t
 高橋哲哉:天皇と靖国
 金鐘曄:記念の政治学―銅雀洞国立墓地の形 成とその文化・政治的意味
 黄鍾淵:朝鮮青年エリートの皇国臣民アイデンティティの遂行―アジア・太平洋戦争期の朝鮮人学徒兵に関するノート
Ⅴ.加害と被害の記憶を越えて―『ヨウコ物語』波紋を契機として
 韓錫政:満洲の記憶
 辛炯基:帰還の物語を再読する―集団的記憶を超えて
 加納実紀代:「日本人妻」という問題―韓国家父長制との関連で
 米山リサ:日本植民地主義の歴史記憶とアメリカ―『ヨウコ物語』をめぐって

 私ヌルボが「興味深い」と書いたのは、教科書問題、「慰安婦」問題、靖国神社の参拝や合祀をめぐる問題のような日韓間の大きな問題や、2007年初め頃報道されて一部で注目を集めた『ヨウコ物語』のような、政治的に「生々しい」問題を取り上げているからだけではありません。
  ※『ヨウコ物語』について知らなかった人は、ウィキペディアの説明のほか、→コチラや→コチラを参照のこと。

 筆者をみると、日本側では上野千鶴子和田春樹高橋哲哉等、「左派」の論客として知名度の高い人たちが目につきます。
 しかし、「なんだ、「反日知識人」たちが書いている本か」と敬遠するなかれ。たとえば「慰安婦」問題関係ではアジア女性基金をめぐる見解や、ナショナリズムとか「国民としての責任」の捉え方等々、各人各様です。
 それよりも注目すべきは韓国側の研究者の顔ぶれ。一般に日本の「反日知識人」の支援を受けている(ように思われている?)韓国内で主流の日本批判勢力ではなく、逆に「親日的」と非難されたりしている人たちが目につきます
 たとえば、知名度は一番高いとおもわれる朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授。著書「反日ナショナリズムを超えて」で日韓文化交流基金賞を受賞(2004年度)し、2007年には「和解のために」で大佛次郎論壇賞を受賞して話題になりました。彼女の言説の大略は→ウィキペディア参照としておきます。本書所載の論考でも、独島問題にしても慰安婦問題にしても、韓国側が日本の実像を知らないまま「侵略的で狡猾な日本」「謝罪しない日本」というイメージによって不信感を持ち続けていることが、両国がなかなか寄り合えない大きな原因となっていると述べています。また、そこには「加害者」である日本にはどのように言ってもいいとする「強者としての被害者」という思考が無意識に存在していたとも指摘しています。
 李榮薫(イ・ヨンフン)ソウル大教授も「大韓民国の物語」(文藝春秋.2007)刊行で知られるようになりました。彼についても、→ウィキペディアでわりとくわしく書かれています。(TVでの発言が誤解報道されて慰安婦ハルモニの前で土下座したこと等。) 本書でも、1960年代から長く国史教科書に記述されていた総督府が収奪した土地が「全国国土の40%」という数字には全然根拠がなく、実は植民地時代に日本人が取得した土地は、低湿未墾地を主として全体の10%前後だったこと、あるいは植民地時代日本に「大量の米が収奪された」とされるが、それは「租税」や「供出」によるものではなく、日本の米価は3割ほど高かったことによって大量に「輸出」されたものであり、そのことを教員さえも理解していなかったりする。・・・そんな韓国の歴史教科書の「神話性」を批判しています。

 「正しい歴史認識」という言葉は、「かくあるべきだ」「かくあらねばならなかった」という当為としての認識を意味する場合と、ある時代の歴史事実を、現在の自分たちにとって不都合なものも含めて、ありのまま認める(=肯定ではない)という意味の2通りの解釈があると思われますが、朴槿恵大統領が前者であるのに対して、李榮薫教授にとっては後者なのですね。その結果として、李教授は決して日本の植民地支配を肯定評価しているわけではないのに韓国では批判され、<嫌韓派>その他多くの日本人からは歓迎されたりしているようです。

 本書(「東アジア歴史認識論争のメタヒストリー」)の中でとくに読み応えがあったのは、『ヨウコ物語』問題のアメリカでの受けとめ方等についての米山リサの論考と、金哲(キム・チョル)延世大教授が朝鮮人の特攻隊員戦死者等を手がかりに韓国ナショナリズムを厳しく批判した「抵抗と絶望」と題された論考です。
 前者については、ここでは具体的な紹介はしませんが、思い込みを排した多角的な視点から書かれている点に共感を覚えました。
 金哲教授の「抵抗と絶望」では、最初に韓国のテレビで放送されたという特攻隊員として戦死した朝鮮人青年たちのドキュメンタリー番組のことから書き起こしています。「なぜ彼らが靖国に祀られなければならないのか」と問いかけた番組なのですが、金哲によれば「驚くべきなのは、韓国社会がこのドキュメンタリー番組に対し、いかなる反応もしめさなかったこと」だということです。
 彼によれば、その沈黙は「ある種の奇妙な当惑」に起因しているというのです。「合祀が不当であることはいうまでもない」として、彼らは「帰ってこなければならない」として、だがどこへ?
 韓国社会と大衆が長く慣れ親しんできた「親日(派)」言説では「彼らの死を説明する術がない」のです。彼らは自分の同胞なのか、「反民族行為者」なのか、加害者なのか、被害者なのか?
 私ヌルボによる金哲教授の論旨は以下のとおりです。
 戦後の韓国社会では、身分・職業・地域等々すべて差異や葛藤を「韓国人」としてのアイデンティティにより解消してしまいましたが、その際「日本」は国民的統合のためのナショナル・ヒストリー形成になくてはならない存在でした。そこには道徳の表彰である「抵抗・自主・統合・忠節・純潔」のような道徳の表徴のみが盛り込まれ、「純潔で善良な私」を描き出します。一方それに対する「屈従・事大・外勢・分裂・変節・汚染」といった非道徳の表徴は排除されます。
 誰でも十分に推察できるように、人間は「国民的(民族的)主体」としてのみ生きていくわけではないのに、ナショナリズムの「記憶(or忘却)」はすべての個別的な生と死を「民族(国民)主体」に還元してしまい、それと異なる発話は無視されてしまいます。自らが見たいだけを見、聞きたいものだけを聞くという集団催眠、判断停止。
 金哲教授は「ナショナリズムのこの二分法的世界こそ、帝国主義の最も強力な守り手であり、1日も早く「清算」されるべき「植民地的な残滓」なのである」と痛烈な文言で批判しています。
 末尾の方ではまた次のように記しています。
 数多くの異なる多様な主体形成の可能性を無視、抑圧しながら、ひたすら「国民(民族)的主体」だけを強要する暴力に抵抗すること、憎悪を増幅し、それを通じて自らを維持していく社会体制を拒否すること、「国家」でない他の世界に対する想像力を組織すること――これらの行動のどこかに、「道なき道を歩んでいく」「抵抗の主体」が現れるだろうか。ならば、私たちはおそらく、「韓国」と「日本」という単一の「国民主体」としてでなく、他者をその多様で複雑な存在の可能性として受け入れる平等な連帯、帝国主義の真の「清算」への道を見つけ出すことができるだろう。「私が私に向かって差し出す初めての握手」(尹東柱)、韓国人はいまだそれを始めていない。
 ・・・このくだりには感動したのでつい引用が長くなってしまいました。
 ヌルボ自身、以前ほとんど抗日運動の烈士しか登場しない韓国の国史教科書を見て、日本統治下の厳しい時代状況の中で(「抗日・親日」以前に)日々懸命に生活を営んでいた多くの朝鮮人の姿を、上記の戦死した兵士等のことも含めて歴史を叙述することが「反帝国主義」につながるのに、と思ったことがあります。まさにわが意を得たという思いで読みました。
 金哲教授については、本ブログの過去記事(→コチラ)でも少しだけ記したように、かつての抵抗詩人として著名な金芝河が久しい前から東学に没入してウルトラ民族主義者になっていて、「ファシスト」の傾向さえみられる、と論じている雑誌記事で初めて知りました。その時以来注目してきた韓国文学を専門とする学者です。

 先に紹介した[A]「植民地近代の視座――朝鮮と日本」にも辛炯基延世大教授や李榮薫ソウル大教授が執筆しています。
 その[A]の編者の1人林志弦(イム・ジヒョン)漢陽大比較歴史文化研究所所長は[B]「東アジア歴史対話」に「「世襲的犠牲者」意識と脱植民地主義の歴史学」と題した論考を載せています。主旨は文字通り、韓国人や韓国政府の主張ではふつうに見られるような何世代も前の歴史について、韓国人の被害者意識、日本人の加害者責任といったものは世代を超えて受け継がれるべきものなのか?、という問題提起です。多くの日本人にとっては、「意外な」言説でしょう。続く[総合討論]では、これに対する日本人研究者たちのややとまどったような発言がありました。
 私ヌルボがこの論考の中で注目したのは、林志弦教授が1931年の万宝山事件(→ウィキペディア)の直後、平壌等の朝鮮の都市で、何ら罪のない中国人が100人以上朝鮮人たちに襲撃され殺されたことについて、これまでの研究書に見られる「背後で扇動していたのは日帝」のような「責任転嫁」的な書き方でなく、真っ向から批判している点です。日本の力を後ろ盾にした「第二日本人」として中国人と対峙していたのではないか、というわけです。

 上にあげたような韓国の強固なナショナリズム言説を批判している人々は依然少数派ですが、最近状況が徐々に変わってきているように思われます。
 たとえば、2011年に「インタビュー、韓国人文学地殻変動」(2011)という本が刊行されました。

     
        【部厚い本です、ふー。右は林志弦教授へのインタビューのページ。】

   ※内容紹介の記事(日本語)は→コチラ

 ここに上記の李榮薫・金哲・林志弦各教授等々へのインタビューも収められています。
 ヌルボ思うに、今はまだ少数派であるとはいえ、長く韓国と韓国人のアイデンティティを形成してきたナショナリズムに基づく歴史観に対抗する彼らの考え方が、ここにきて着実に地歩を固めてきたとみられるのではないでしょうか? 「地殻変動」というタイトルを見ると、「地歩を固めてきた」以上のパワーが感じられているのかもしれません。

 次回は、高句麗史の位置づけをめぐる中国vs韓国論争に対する、林志弦教授の独自の見方を紹介します。

 → 「高句麗の都の平壌は、今の北朝鮮の平壌ではない」という月刊「新東亜」の記事について

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 韓国内の映画 Daumの人気順... | トップ | 「高句麗の都の平壌は、今の... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
心強いコメントに感謝します! (ヌルボ)
2013-03-11 14:41:06
私の小難しく長ったらしい記事をさっそくきちんと読み、コメントまで下さる方がいらっしゃるとは、うれしいオドロキです。

韓国政府や韓国人の言動に「アタマにきた」人たちの感情的な反応がネット社会に溢れている中、「ソウル市民」さんのコメントをいただいてとも心強く思いました。
それとともに、つい「上から目線」で見てしまう落とし穴にハマらないよう、たえず自己検証しなければ、と自戒の念を持ちました。

「他国の批判などしている場合ではない」というのもホントにその通りですね。しかし、こんな思いに応えてくれるような政治勢力は・・・等々を考えると気持ちは沈むばかりです。
返信する
他山の石 (ソウル市民)
2013-03-11 08:12:32
 韓国に住み、日常的に韓国政府やメディアの感情的かつ一方的な「反日」に接しているとすぐにウンザリし批判したくなるのですが、そのたびに私は「しかし他者を批判している場合なのか」と自制することにしています。
 日本と韓国との関係(だけでなく、自己と他者について一般的に言えることかも知れませんが)について言及することは、絶えず鏡に写った自己を見ているようなもので、相手を批判しようとするその行為自体が、そのまま自己に返ってくるような微妙さを備えています(そもそも嫌悪感やある種の「いやな感じ」は、往々にして他ならぬ自分自身がその嫌悪の対象である「なにものか」を持ち合わせているために、余計に反撥を覚える場合が多いようです)。

 韓国ではまだ少数である自国のナショナリズム批判にしても、それだけを採り上げて(ヌルボさんがそうされているという意味ではありません)韓国批判→日本肯定へと進んでしまうなら、自己を蚊帳の外に置いて排他的かつ自慰的な言動に自足する嫌韓派やナショナリスト(ショーヴィニスト)と同じでしかありません(呉善花や鄭大均、金美齢といった日本称揚や自国批判をする人たちの言動が、自己肯定のための「おかず」にされているように)。
 さらに言えば、自己を批判的に検討することを十把ひとからげに「自虐」という言葉でもって否定的に捉え、その反動で自国肯定→自己肯定という精神的マスターベーションを慫慂する石●や橋○といった政治家、あるいは「美しい国」などという幻想を持ち出してやはり自慰行為を善しとする現首相などが支持を得てしまう現状を前に、「他国の批判などしている場合ではない」というのが私の個人的な感想です。
 メディアの頼りなさや駄目さについても、韓国メディアを批判する暇があるのであれば、311の際に露呈されたような日本のマス・メディアの危うさにこそ視点を向けるべきだと思っています。
 他者への批判は、えてして天に唾する要素を持ち合わせていること、そしてむしろ目につきやすい他者の欠点や過誤を他山の石として自己へと向うこと、おそらくこの余りにも当り前でありきたりのことこそが最も困難な行為であり、しかし他者批判を自己肯定に結び付けて自足する傾向のますます強まっている「いま」という時代に最も求められていることのように思います。
 以上、釈迦に説法だとは思いますが、ヌルボさんの今回のような記事を、「より多様な言説が存在する日本」という「上から目線」で見てしまう人たちがいるだろうことを想像して、長々と駄文を書き連ねてみました。
返信する

コメントを投稿

韓国の時事関係(政治・経済・社会等)」カテゴリの最新記事