→<徳寿宮近辺の見逃しがちないろいろ ①<広告の天才>イ・ジェソク製作のソウル市庁電光掲示板>
このシリーズのスタートからもうひと月半。やっと2つ目の記事です。基本的に、徳寿宮から歩いて約10分以内のタダで行ける所、タダで見られるモノを紹介していこうというものです。
近年何度かこの辺りをあちこち歩き回ることがあって、その時ガイドブック等にはほとんど載っていない、しかし一見の価値がありそうな(?)モノ(建造物その他)がいくつも目に留まったので、それを順次紹介していこうというのがシリーズの主旨です。
今回は、最初の記事で予告として載せたこの画像についてです。
先の記事徳寿宮から世宗大路の西側歩道を北に500mほど行くと、清渓川の起点の南西側筋向いの、通りに面した小公園内(交番前)に「도로원표」と刻まれた石がありました。
左の地図。緑色のピンの所です。「도로」は道路でいいとして、「원표」は원=原・元・円、표=標・票・表といった漢字の組合せをいろいろ考えていると、その近くで目に留まったのが冒頭の画像の大きな石の造形物です。見ると、その中央に近い位置に「道路元標」と記された金属板がありました。つまりこの大きくて円い石が道路元標で、最初に見た「도로원표」と刻まれた石はここに道路元標がありますよ、という表示だったのですね。
敷石の上に、韓・英・中・日の4ヵ国語の説明板がありました。不鮮明で読みづらいですが、次のように記されています。
・・・ということで、北側と東側を見てみると・・・。
北(左画像)は子(ネズミ)の絵。평양(平壌)まで193㎞、개성(開城.ケソン)までは58㎞です。そして東北東(右画像)は寅(トラ)。속초(束草.ソクチョ)まで204㎞ということは、平壌より遠いのか。춘천(春川.チュンチョン)までは80キロメートル。
次は西と南の方角。
西(左画像)は、テヘラン(6554㎞)、バグダッド(7242㎞)等西アジアから、アテネ(8522㎞)からリスボン(10423㎞)までのヨーロッパの諸都市。そして南南東方向(右画像)には、やっぱり독도(独島.トクト)435㎞。それと東京(1158㎞)の金属板が隣接しています。
・・・え? 独島が記されているということは、この石造物ができたのはそんな昔のことではないゾ、と思ったら、別に<도로 원표의 연혁(道路元標の沿革)>が石板に刻まれていました。
以上が旅行中の記録。その後帰国してから日韓の関連サイト等を見てみました。たとえば→日本ウィキペディア、→韓国ウィキペディアの他、→<TTS 道路元標の広場>というサイトには道路元標についての実に細かな説明・資料が載っています。そこに韓国の道路元標の資料もあり、その中に京城市道路元標についての詳しい記事もありました。(→コチラ。) 読んでみると、上記の沿革の文中にある「1935年に移された」という道路元標が、教保文庫前にある高宗即位40年紀念称慶碑殿に今もあるのですね。(下の画像はNAVER地図を加工したものです。)
人通りの多い世宗路交差点(サゴリ)の角ですが、観光客にもあまり見向きもされない建造物ですね。
ここに下画像のような道路元標があるのです。
上右画像の道路元標(東面)には京城以南の9都市への距離が、その裏面には京城以北の9都市への距離が刻まれています。・・・と、ここで気づいたのが先の1997年の大きな造形物の数値と違うこと。釜山や光州までのキロ数はこの昔の道路元標の方が20㎞あまり長くなっています。平壌の場合は上述のように今は「193㎞」となっていますが、1935年の方は「二七0粁」。この大きな違いは高速道路開設による道のりの短縮? よくわかりません。
まだわからないことや新たに生じた疑問等々もありますが、とりあえずわかったことを書きとめておきます。
・日本にはけっこう<道路元標マニア>といった人たちがいて、関連ホームページもけっこうあります。自身各地の道路元標の写真を撮ったりもしています。(中には盗んできちゃったりする不届き者もいたって!?)
・日本橋の中央に東京市道路元標が設置されたのが1911年。(旧)道路法が制定されて各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされたのが1919年。ということを考えると、日韓併合後まもない1914年に京城に設けられたのは朝鮮総督府の道路行政の手早さを示しているといえるかも。
・たとえば京都市の道路元標(→コチラ参照)が烏丸三条交差点に設けられたように、京城の場合も太平通(世宗大路)と鍾路という南北と東西に走る主要道路の交点に設置されたわけです。
・1996年の韓国誌「時事ジャーナル」の記事(→コチラ)によると、1997年現在の道路元標が造られる前に、いろいろ議論があったようです。記事の見出しからして「日本製の道路元標、文化財たりうるか?」。副題は「ソウル市、日本が設置した道路元標をめぐり遺物かどうか悩み中」です。この記事によると、ソウル市が道路元標の記念を企画したのが1995年春。 しかし道路元標の歴史的価値を確認することができず、諸専門家に意見を求めたり外国の事例を調べたりもしたようである。この「時事ジャーナル」の記事は相当部分韓国文化歴史地理学会の地図研究者イ・オヒョン氏の所論に依拠していますが、彼は「道路元標が日本の不純な底意により誕生した「陰謀的標識」であることを立証するのは、これが事実上の道路の基準点のみ「象徴」するだけで、実際に使用される距離を示すにはほとんど寄与をしていなかったという点である」としています。また記事は「道路元標は、朝鮮総督府が自分たちが飲み込んだ地の距離を表示したものであるにすぎない。このようなものを記念するということは狂気に違いない」という彼の言葉で結んでいます。つまり「時事ジャーナル」も保存には批判的ということです。
また、→コチラの記事(韓国語)は詩人キム・ジョンスさんが知的好奇心旺盛な息子さんを連れての世宗大路の道路元標の実地教育の記事で、なかなかいい記事だとは思いますが、最後に次のような父子の会話が記されています。
(父)「今まで見た道路元標は日本植民地時代に作られたものだが、そこに保存しておいてもいいかな?」(子)「それはダメだよ。日帝が作ったものをなぜ保存するの? なくさなくちゃ。」
・・・私ヌルボ思うに、このような歴史の実物教育ができるのも実物がそこにあるからで、いくら憎くてもそれをなくし、記憶の手がかりを消してしまってはまずいと思うのですが・・・。その記事には申采浩(シン・チェホ)の「領土を失った民族は再生できても歴史を失った民族は再生できない」という言葉が引用さけていますが、この言葉は現在の韓国・朝鮮にもあてはまるのではないでしょうか? (日本の側、特に現政権の「歴史認識」にも大いに問題はありますが。)
・日本同様、韓国内にも各地に道路元標があります。「도로원표」で画像検索するとたくさんヒットしますが(→コチラ)、多くは戦後造られたものです。→コチラの表にある1924(大正13)年7月時点で朝鮮半島にあった計20(南12・北8)の道路元標が現在どこかに残っているかどうかはよくわかりません。
あー、今回も調べたこと知ったことの8割くらい書いてしまいました。長すぎですね。もっと要点を精選して書かなければ、と毎度思うのですが・・・。
このシリーズのスタートからもうひと月半。やっと2つ目の記事です。基本的に、徳寿宮から歩いて約10分以内のタダで行ける所、タダで見られるモノを紹介していこうというものです。
近年何度かこの辺りをあちこち歩き回ることがあって、その時ガイドブック等にはほとんど載っていない、しかし一見の価値がありそうな(?)モノ(建造物その他)がいくつも目に留まったので、それを順次紹介していこうというのがシリーズの主旨です。
今回は、最初の記事で予告として載せたこの画像についてです。
先の記事徳寿宮から世宗大路の西側歩道を北に500mほど行くと、清渓川の起点の南西側筋向いの、通りに面した小公園内(交番前)に「도로원표」と刻まれた石がありました。
敷石の上に、韓・英・中・日の4ヵ国語の説明板がありました。不鮮明で読みづらいですが、次のように記されています。
道路元標について
ここは光化門の美観広場で、道路元標のシンボルの造形物が設置されています。この元標を囲んで東、西、南、北の4方位とともに、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の12干支の象徴物をもって、それぞれの12方位を標示しています。そして道路元標と12干支の間の地面には、ソウルを中心に全国53都市までの高速道路と国道を利用した実際の距離を、また64の海外都(ママ)までの直線距離をそれぞれ表示しています。
ここは光化門の美観広場で、道路元標のシンボルの造形物が設置されています。この元標を囲んで東、西、南、北の4方位とともに、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の12干支の象徴物をもって、それぞれの12方位を標示しています。そして道路元標と12干支の間の地面には、ソウルを中心に全国53都市までの高速道路と国道を利用した実際の距離を、また64の海外都(ママ)までの直線距離をそれぞれ表示しています。
・・・ということで、北側と東側を見てみると・・・。
次は西と南の方角。
・・・え? 独島が記されているということは、この石造物ができたのはそんな昔のことではないゾ、と思ったら、別に<도로 원표의 연혁(道路元標の沿革)>が石板に刻まれていました。
道路元標の沿革
ここはソウルと全国主要都市間の道路上の距離を表示する基準点です。
1914年道路元標が設けられた当時の設置点は世宗路広場中央でしたが、1935年に新しく造られて世宗路の両側に移されたものを、再び1997年12月ここに変更しました。
この広場中央の標石は道路元標の位置を変更してソウル特別市で新しく製作・設置したものです。
ここはソウルと全国主要都市間の道路上の距離を表示する基準点です。
1914年道路元標が設けられた当時の設置点は世宗路広場中央でしたが、1935年に新しく造られて世宗路の両側に移されたものを、再び1997年12月ここに変更しました。
この広場中央の標石は道路元標の位置を変更してソウル特別市で新しく製作・設置したものです。
以上が旅行中の記録。その後帰国してから日韓の関連サイト等を見てみました。たとえば→日本ウィキペディア、→韓国ウィキペディアの他、→<TTS 道路元標の広場>というサイトには道路元標についての実に細かな説明・資料が載っています。そこに韓国の道路元標の資料もあり、その中に京城市道路元標についての詳しい記事もありました。(→コチラ。) 読んでみると、上記の沿革の文中にある「1935年に移された」という道路元標が、教保文庫前にある高宗即位40年紀念称慶碑殿に今もあるのですね。(下の画像はNAVER地図を加工したものです。)
ここに下画像のような道路元標があるのです。
まだわからないことや新たに生じた疑問等々もありますが、とりあえずわかったことを書きとめておきます。
・日本にはけっこう<道路元標マニア>といった人たちがいて、関連ホームページもけっこうあります。自身各地の道路元標の写真を撮ったりもしています。(中には盗んできちゃったりする不届き者もいたって!?)
・日本橋の中央に東京市道路元標が設置されたのが1911年。(旧)道路法が制定されて各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされたのが1919年。ということを考えると、日韓併合後まもない1914年に京城に設けられたのは朝鮮総督府の道路行政の手早さを示しているといえるかも。
・たとえば京都市の道路元標(→コチラ参照)が烏丸三条交差点に設けられたように、京城の場合も太平通(世宗大路)と鍾路という南北と東西に走る主要道路の交点に設置されたわけです。
・1996年の韓国誌「時事ジャーナル」の記事(→コチラ)によると、1997年現在の道路元標が造られる前に、いろいろ議論があったようです。記事の見出しからして「日本製の道路元標、文化財たりうるか?」。副題は「ソウル市、日本が設置した道路元標をめぐり遺物かどうか悩み中」です。この記事によると、ソウル市が道路元標の記念を企画したのが1995年春。 しかし道路元標の歴史的価値を確認することができず、諸専門家に意見を求めたり外国の事例を調べたりもしたようである。この「時事ジャーナル」の記事は相当部分韓国文化歴史地理学会の地図研究者イ・オヒョン氏の所論に依拠していますが、彼は「道路元標が日本の不純な底意により誕生した「陰謀的標識」であることを立証するのは、これが事実上の道路の基準点のみ「象徴」するだけで、実際に使用される距離を示すにはほとんど寄与をしていなかったという点である」としています。また記事は「道路元標は、朝鮮総督府が自分たちが飲み込んだ地の距離を表示したものであるにすぎない。このようなものを記念するということは狂気に違いない」という彼の言葉で結んでいます。つまり「時事ジャーナル」も保存には批判的ということです。
また、→コチラの記事(韓国語)は詩人キム・ジョンスさんが知的好奇心旺盛な息子さんを連れての世宗大路の道路元標の実地教育の記事で、なかなかいい記事だとは思いますが、最後に次のような父子の会話が記されています。
(父)「今まで見た道路元標は日本植民地時代に作られたものだが、そこに保存しておいてもいいかな?」(子)「それはダメだよ。日帝が作ったものをなぜ保存するの? なくさなくちゃ。」
・・・私ヌルボ思うに、このような歴史の実物教育ができるのも実物がそこにあるからで、いくら憎くてもそれをなくし、記憶の手がかりを消してしまってはまずいと思うのですが・・・。その記事には申采浩(シン・チェホ)の「領土を失った民族は再生できても歴史を失った民族は再生できない」という言葉が引用さけていますが、この言葉は現在の韓国・朝鮮にもあてはまるのではないでしょうか? (日本の側、特に現政権の「歴史認識」にも大いに問題はありますが。)
・日本同様、韓国内にも各地に道路元標があります。「도로원표」で画像検索するとたくさんヒットしますが(→コチラ)、多くは戦後造られたものです。→コチラの表にある1924(大正13)年7月時点で朝鮮半島にあった計20(南12・北8)の道路元標が現在どこかに残っているかどうかはよくわかりません。
あー、今回も調べたこと知ったことの8割くらい書いてしまいました。長すぎですね。もっと要点を精選して書かなければ、と毎度思うのですが・・・。
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