毘沙門堂と菊ちゃん
ゼリーフライを小百合さんと
行田で食べる機会があると楽しいですね。
From: barclay1720@aol.com
To: fuji@adagio.ocn.ne.jp
Date:Mon, 5 Nov 2007 10:59 am
> 昨日は あっさり 用事をすませて
> 帰ってしまってすいません。
> ウルサイ子供がいると、お茶も食事もできません。
> あれから、長男坊がイタリアン レストランで食べたい
> と言うので さっそく寄りました。魚介類のスパゲィー
> を頼んで、ドリンクを 3杯おかわりして 満腹でした。
> 三男坊のうるさいコウタもいろいろドリンクだけは
> おかわりしてました。
> その後、大長寺にいって大仏を見て、2時30分ぐらいに
> 行田を出ました。
> 思い出の行田旅行です。
> 何年かたって、子供が思い出すよう。
> 今日の1日を、記憶させた日曜でした。
うん、うん、うん。。。
思い出の楽しい家族旅行になったことでしょう。
大仏を見せましたか。。。
僕が大仏の事でホムペに記事を書いていますから、
大きくなってから長男、三男が僕が書いた記事を目にすることがあれば、
懐かしく思い出すことになるかもしれません。
これから僕は大仏の事、行田郷土史の事でもっと記事を書くつもりでいます。
そもそも、あの大仏の記事を書いたのは、小百合さんが僕の実家を訪れるために地図を書こうと思い立ったのがきっかけでした。
出会いというものは不思議なものですよ。
小百合さんとの出会いが行田郷土史を書くきっかけになったのです。
では。。。
デンマン
『懐かしい思い出 (2007年11月5日)』より
おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ますわよゥ。
もう少し、バンクーバーに
居たかったのですけれど、
デンマンさんが、
安部首相のように
身勝手に、無責任に
辞めてはいけない、
とあたくしを説得したので
ござ~♪~ますわ。
考えてみれば尤もなので
あたくしは日本に戻って
真面目に再び
教壇に立つ気持ちを
新たにしたので
ござ~♪~ますわよ。
それにしても、この十二単というものは
メチャ動きにくいものだとダサい感を
身にしみておりますわア。
おほほほほ。。。
卑弥子さん!。。。すでに日本に戻ったのだから、名残惜(なごりお)しそうにバンクーバーの写真など貼り付けないでくださいよゥ。
いいじゃあ、ござ~♪~ませんかぁ~。。。あたくしの懐かしい思い出なのでござ~♪~ますわア。
この上の写真を僕はもう見飽きましたよゥ。
デンマンさんは見ているだけで、こうして震えていたのでござ~♪~ますよねぇ。 んもお~
だってねぇ、真冬の元日ですよ。まかり間違うと心臓麻痺を起こしますよゥ。とにかく気温が4度で水温が6度でしたからね。実際、心臓麻痺を起こして亡くなってしまった人が居たのですよ。
そうですわね。でも、そのような不測の事故というものは寒中水泳でなくても起こるものでござ~♪~ますわぁ~。
卑弥子さん!。。。もう、寒中水泳の思い出は充分だから、本題に入ってくださいよゥ。
分かりましたわ。。。んで、今日のお話は小百合さんの事ではなくて菊ちゃんのお話ですか?
もちろん小百合さんの事も書くのですよ。小百合さんとの再会がなかったら、この話はないのだから。。。
それで、また上のメールを持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
そうですよ。
実は、こうして大仏の前で僕は小百合さんと会ったのですよ。この事については、すでに記事に書いたので関心のある人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
■ 『菊ちゃんと小百合さん (2007年12月8日)』
菊ちゃんがどういう人なのか?その事も上の記事の中で書いています。
それで、デンマンさんは「行田郷土史」を書き始めたのですか?
そうですよ。小百合さんが車を運転して僕の実家にやって来るというので、目印になるものが欲しい。それで僕はこの大長寺の大仏を選んだわけですよ。この大仏を目指してやって来れば迷う事はないと思ってね。。。
小百合さんは迷わずにやって来られたのですか?
そうですよ。僕は地図まで描きましたからね。。。それで、ついでだから大長寺の大仏の説明を書き始めたのですよ。だんだん長くなって。。。これならば、いっそのこと行田の郷土史でも書いてみたらどうだろうか?卑弥子さんも知っての通り、僕は次のサイトも立ち上げましたからね。
■ 『面白くて興味深い意外に新しい古代日本史』
ええ、ええ。。。あたくしは、そのサイトのマスコットギャルをやらせてもらっているのでござ~♪~ますわぁ。おほほほほ。。。それで、行田の郷土史は書きあがったのでござ~♪~ますか?
1週間や2週間では無理ですね。これから1年がかりで書こうと思っているのですよ。
それで、小百合さんはわざわざお子さんたちにも大仏をお見せしたと書いてありますけれど、大長寺の大仏はそれほどのモノなのでござ~♪~ますか?
せっかく行田までやって来たので、他に見るものがないから見せたのでしょう。その日の行田旅行の目的はパスタだと思うのですよ。
■ 『パスタをきれいに食べきった小百合さん (2007年11月22日)』
とにかく小百合さんは、このパスタに感銘を受けたのですよ。だから、まず、このパスタの店に入って腹ごしらえをした後で大仏を見に行ったわけですよ。
つまり大仏様は、さしみの“つま”のようなものでござ~♪~ますわね?
そう言う事でしょうね。
それで、今日のタイトルは“毘沙門堂と菊ちゃん”と言うことでござ~♪~ますけれど、この毘沙門堂も大長寺にあるのでござ~♪~ますか?
そうですよ。この写真は僕が生まれる前に撮られたものです。写っている大仏は現在の大仏ではないのですよ。これは江戸時代に忍藩(10万石)を治めていた阿部氏が享保年間(1716-1736年)に寄進したものです。詳しくは次の記事を読んでください。
■ 『行田市と大長寺』
300年ほど前に作ったものでござ~♪~ますか?
そうです。
なぜ、その古い大仏が新しくなったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ、太平洋戦争中に鉄だとか銅が不足してしまったのですよ。戦況が思わしくなくなると共に、占領していた中国や南方諸国がアメリカ軍や共産軍に奪いかえされてしまった。だから、金属の原料になる鉱石が日本へ来なくなってしまった。しかも、日本で鉱石を掘り出しているのでは間に合わない。
それで大仏様まで政府が取り上げて、溶かして戦車や鉄砲の玉にしたのでござ~♪~ますか?
そうですよ。平安と平穏を願う大仏様や観音様までが戦争のために狩り出されたわけですよ。これじゃあ、戦争に勝つ訳がないですよねぇ~。だから、僕が生まれた頃には台座だけが残っていたけれど、大仏様はなかった。僕が小学生の頃はその台座の上に登って遊んだものですよ。
それで、新しい大仏様はいつ頃できたのでござ~♪~ますか?
最近の事ですよ。平成7年(1995年)に作られたのですよ。
それで写真の毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院と関係があるのですか?
確かに、毘沙門堂と言えば、京都生まれで京都育ちの卑弥子さんには京都市山科区にある天台宗の寺院が思い浮かぶのでしょうけれど、大長寺の毘沙門堂は京都の毘沙門堂とは直接の関係はなさそうですよ。ただ毘沙門天を祭っているお堂のようですよ。
いつ頃建てられたのでござ~♪~ますか?
はっきりとは分からないけれど、江戸時代の初めの頃でしょう。1639年に阿部忠秋が忍藩主としてやって来た時に大長寺を阿部家の菩提所としたのですよ。やがて七堂伽藍が整い、全盛を極めたと言われています。だから、おそらく1650年頃に建てられたのでしょうね。でも、写真に写っているお堂は建て替えられたものでしょう。
どうして分かるのですか?
文献を見ると、それ以来、火災や洪水がありましたからね。。。この上の写真に写っている毘沙門堂の近くで小学生の頃、僕は良く遊んだものですよ。いつも鍵がかかっていて中には入れませんでした。1年にただ一度だけ、お祭りの時だけご開帳になりました。何の祭りだか忘れたけれど、その時には堂の中に祭ってある毘沙門天をじっくりと見ることができましたよ。
毘沙門天 毘沙門は、多聞(たもん)の意のサンスクリット語の音訳。 仏教で四天王の1つで、怒りの姿を見せ、よろい・かぶとを着け、手に矛を持って、北方を守る。 密教で金剛界の西方に配せられ、福神とされるので、俗に七福神の一つとして数えられる。 出典: 三省堂 「新明解国語辞典」 |
実際に見た感じでは、この写真に写っている表情よりももっと怖そうな顔をしていましたね。子供だったから、怖く感じたのかもしれません。
それで、どうしてこの毘沙門堂と菊ちゃんが関わりがあるのですか?
実はねぇ、僕が小学生の頃、菊ちゃんは僕のお袋になついて、よく遊びに来たのですよ。
その頃から菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですか?
当時の菊ちゃんは20歳を出ているか出ていないか。。。とにかく子供の僕の目には、もう大人でしたよ。
でも、精神年齢は7つぐらいだったのですか?
そうなんですよ。でもねぇ、いくらなんでも、まだ小学生の小さな僕を見て僕のお嫁さんになろうとは思わなかったでしょうね。菊ちゃんが僕のお嫁さんになりたくて、お母さんに頼みに帰ったのは僕が中学生の時のエピソードですよ。
それで、デンマンさんが小学生の頃、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか?
時々、僕の家に興奮して駆け込んで来たのですよ。
一体何があったのですか?