愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

それぞれの耐え方

2011-07-12 12:56:38 | 追憶のむぎ


 これまで、シェラとむぎのたくさんの写真を撮ってきた。そのときそのときの愛らしい風情がかわいくてカメラを向け、シャッターを押した。
 むぎが、突然、旅立ってしまって迎えた土曜日と日曜日、ぼくはパソコンの前に座り、ずっとむぎの写真を集め、在(あ)りし日のかわいい姿を眺めて長い時間を過ごした。こんなときのために撮影してきたわけではないのだが……。
 
 あらためてわかったのだが、どうやら、むぎは写真を撮られるのを迷惑がっていたらしい。パソコンの中のむぎは、大半が目線を外している。連続写真のなかで横目で見ているショットもある。
 それもまた飼主にとってはなんとも愛らしく、このブログでも過去に使っている。
 
 最近のむぎだけの写真2000枚ほどのうち、こちらを向きながら、むぎらしい表情を見せてくれている写真は10パーセント程度しかなかった。それらをさらに40枚に絞り込み、USBメモリーに入れて、昨日、会社近くにあるデジタルプリントのお店に持っていき、ハガキサイズにプリントしてもらってアルバムを作った。

 残りのむぎの写真はいつも持ち歩いているiPadに入れたが、プリントのアルバムには日常的にむぎが見せていた表情の写真ばかりである。いつものむぎらしい、とりわけ気に入っている一枚は、日曜日のうちに自宅のプリンターを使って作成し、アクリルの写真立てに入れてパソコンの脇に置いた(冒頭の写真)。 
 その写真に、むしろ、たまらないほどの悲しみが込み上げてくるときもあるが、「むぎ…」と呼びかけては寂しさを紛らわせている。

 何台かあるパソコンには、およそ壁紙の類は一切排除しているが、以前からiPadではシェラが、iPhoneには右の写真のむぎが壁紙になっている。これからも変えるつもりはない。
 
 家人は、自分の親が亡くなったとき(はからずも今日は家人の父親の命日だった)もそうだったが、当分、写真を見たくないからとすべて片づけてしまった。むろん、むぎの写真は見せないでほしいと言われている。だから、むぎのアルバムも写真立てものむぎも彼女の目に触れないようにしている。
 
 かわいい写真を見てやることがむぎへの供養だと考えるぼく、写真を見ることさえできない家人――どちらもが、まさしく自分の中にぽっかりと空いた穴のような喪失感の耐え方である。