愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

罪作りな幻影

2011-07-28 23:46:19 | シェラの日々


 一昨日、家人がシェラを連れての夕方の散歩のときのことである。
 とある道筋でシェラが立ち止まり、じっと前方を見つめていた。その先にはこちらへ向かってくる犬連れのおじさんの姿があった。シェラの目はおじさんが連れている犬に注がれている。遠目にも犬のシルエットはコーギーだった。
 シェラは身じろぎもせずにコーギーを見ていた。

 シェラの目にコーギーの姿がどんなふうに見えていたのだろうか。彼女の耳がだいぶ遠くなったのはわかっているが、目がどのくらい衰えてしまっているかまでは判然としない。歩くとき、何かにぶつかったりはしていないが、16歳という年齢を勘案すれば視力も落ちていると思っていたほうがいいだろう。
 朝夕の散歩で以前にも増してにおいを嗅ぐ時間が長くなったのも、聴覚と視覚の劣化を嗅覚でカバーしていると思えてくる。もしかしたら、嗅覚自体に衰えがきて、しつこくなっているかもしれないのだが……。

 シェラはどんな想いでコーギーのシルエットを眺めていたのだろうか。
 見えはするものの、きっとぼやけた視覚の中にコーギー独特のフォルムを捉え、立ち止まったはずである。シェラの想念がむぎを連想していなかったと考えるほうが不自然だ。やっぱり、「むぎかもしれない」と思い、立ち止まって待ったのだろう。

 すぐ近くまでやってきたコーギーがむぎではないとわかったとたん、シェラは激しく吠えついて連れているおじさんをびっくりさせた。
 むぎが帰ってきたとの期待が裏切られて吠えたと思うのが擬人化に過ぎるとしても、シェラの中に失望が生まれたのは確かだろう。罪作りな邂逅だった。

 たとえ犬であっても寂しさを感じる感受性は持っているとぼくは信じて疑わない。シェラとのこれまでの16年間の節々で、犬だとて見くびらないほうがいいとの実例をさまざま見せつけられてきた。
 むしろ、犬のセンシビリティはヘタな人間以上である。

 その日の夜中、ぼくが目を覚まし、自分の部屋へこもっていると、少し開いたままの扉の向こうから片目がじっとぼくの背を見つめていた。シェラがぼくの様子をうかがいにきたのである。その目にいい知れぬ哀しみと寂寥が宿った午前2時のシェラだった。

 もしかしたら、ぼくのことを心配してのぞきにきてくれたのか? それもまた過ぎたる擬人化だ。
 「シェラ、どうした? 入っておいで」と声をかけてやるとシェラの目が消えた。やがて、家人のベッドの際へいき、いたたまれないような声で家人に吠えた。何を訴えたかったのだろうか。

 12年間、いつも一緒にいたむぎという相棒を見失えば、どこへいってしまったのだろうかと探すだろう。
 夕方、むぎの幻影を見てしまったのは、やっぱりシェラにとって残酷だった。