愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

寂しいのは同じだよね

2011-07-14 22:14:06 | シェラの日々


 むぎが逝ってしまって明日で一週間、心の準備がまったくないままの別れならではのやるせない心残りがこみあげる。この動揺をシェラに悟られまいと、つとめて明るく振る舞ってきた。むぎを失い、この上、シェラとの永別まで早まってしまうことをぼくと家人はなによりも恐れた。
 
 かつて、知人から、二頭いた一頭が死んでしまったら、遺されたほうが、仲が悪かったにもかかわらず、まもなくあとを追うように逝ってしまったと聞かされていた。シェラとむぎは親子のような、いや、それ以上の絆で結ばれていた同士である。

 むぎはいつもシェラに依存して生きてきた。シェラに頼り、シェラもまたむぎをひたすら守ってきた。気の小さい弱虫わんこなのに、ほかの犬からむぎを守るためには身を挺して行動することにいささかの躊躇も見せなかった。



 シェラは育ての親犬でしかなかったが、4歳にしてむぎという見知らぬ子犬を飼主から託されると、人間に引けをとらないほどの強靭な母性を発揮した。
 むぎのほうもシェラはまごうことなき母犬そのものだった。シェラが弱ってきた最近では、むぎのほうがシェラを守ろうとする場面をしばしば経験した。それでもシェラへの依存が稀薄になったわけではない。
 だから、順番からいけばシェラが先発つのは仕方ないとはいうものの、シェラが逝ってしまったら、むぎは生きる気力を失い、確実に死んでしまうだろうとぼくたちは確信し、恐れ、でも、避けることができないと覚悟をしていた。だが、4歳年上のシェラではなく、同じ老犬とはいいながらまだ12歳のむぎが先に旅立ってしまった。

 7月8日の、わが家にとっては「魔の金曜日」以来、シェラが変わってしまった。
 むぎが死んでしまったという自覚などないはずなのに、前日までのシェラではなくなってしまったのである。ときには苛立ち、ときには意気消沈し、あるいは、不安そうにぼくや家内に寄り添う。その変わり方は、日々、違う表情を見せながら、まぎれもなく以前のシェラではなくなっている。



 われわれにアピールするための大きく喘いで見せることもなくなったし、おやつをねだることもなく、何よりも顔つきが引き締まった。そして、以前以上に寝ている時間が増えた。
 目を覚まし、擦り寄ってくるのが、ぼくや家内の寂しさを感じ取り、慰めようとしてくれているからなのか、あるいは、自分の寂しさを慰めてほしいためなのかは判然としない。むぎがまだいたころの昨今、食べものをねだるとき以外、そんな姿は見せなかった。

 いまにも泣きそうな悲しげな目にシェラの内なる寂しさをぼくたちは読み取ることができる。犬にだって寂しさや悲しみの感情はある。それを10数年、シェラとむぎと起居を共にしてくる過程でぼくは学んだ。
 シェラも寂しいのだ。慰めの言葉も思いつかず、ぼくは、ただ、シェラの首を抱き締めて捨て場のないやるせなさを噛みしめる。



 朝夕の散歩の様子も変わった。あまり歩きたがらなかったのに素直に従ってだいぶ先まで歩いてあちこちでにおいを嗅いでまわる。近場しか動かないときでも、自分の排泄は二の次で、散歩にならないほどしつこくにおいを嗅いでいる。
 これがシェラ流の「むぎ探し」だと決めつけるのは飼主のひいき目だろうが、この尋常でないにおい嗅ぎをどう説明したらいいのだろう。
 
 少なくとも、憑かれたようににおいを嗅いでいるときだけは、きっとシェラもつかのま寂しさが紛れているのだと思ってやりたい。
 相棒を失くして寂しいのは同じなのだから。

(写真は、上から順に「テントの中のふたり」「テントサイトでひと休み」「スクリーンタープの中でむぎを枕に」「クルマのリアシートは至福の場」)