この憂愁の行き着く先はあるのだろうか。
おりにふれてこみ上げる寂しさをいかんともしがたい。身体の一部を……いや、心の一部をもがれたような苦い喪失感がジワリと広がる。
むぎを失って12日、なんと長い日々だったろうか。そこかしこにあの子の面影を見て、あるいは感じて、そのたびに喪失感を噛みしめる。手に記憶されたあの子の身体の感触がよみがえるたびに不覚の涙がこみ上げる。
今朝は、台風の余波で散歩は小雨の中だった。ブルーの雨具がよく似合う子だった。何度、「わぁ、かわいい!」とほめられただろうか。そんなむぎが誇らしかった。
色違いの雨具をシェラに着せて出かけた今朝の散歩で、久しぶりに行き会った近所のわんこ仲間の奥さんから、「あら、きょうはコーギーちゃんはどうしたの?」と声をかけられた。説明するのも辛く、むぎの訃報に驚く相手に気遣いながら、生前中のお礼を述べる。
喪失感にさいなまれている自分の心を悟られまいと笑顔で対して疲れていく。
「そうだったんですか。それはお寂しいですね」との慰めに、「大丈夫です。ありがとうございます」とまたつくり笑顔で答えてその場を去る。たちまちにして寂しさがのしかかってきて心が折れてしまいそうになる。
Facebookの仲間のある方が、ご自分の体験に照らして、「もしかしたら親よりつらいかもしれない」と慰めてくれた。そう、親のときとはまた別の悲しみがある。そんな同じ感情を共有してもらえて救われた。
しかし、わがことながら、もうこれは立派な「ペットロス症候群」じゃないかと思う。よもや、自分がペットロスで、ひとり密かにとはいえ煩悶するとは……。
悲しみはいずれ時間が解決してくれるというのは真実だろう。だが、時間の経過とともに深まる愁いもまた厳然としてある。愁いとの決別に、どれだけの時間を必要とするのだろうか。
なによりも、むぎの苦痛に気づいてやれなかった自分の迂闊さが心残りとなっている。もう一度、元気なむぎを抱きしめて頬ずりしたい。