「戦う政宗」(星 亮一著 森の本 2004年9月30日初版発行)を読みました。
この本は、図書館の除籍コーナーに置かれていたものです。つまり、タダでいただいてきたものです(^^;
伊達政宗については、なんとなく、少しは知っていましたが、詳しくは知りませんでしたので、せっかくの本ですから、ありがたくタダでいただいてきたわけです(^-^;
タダでいただいてきたものですし、図書館への返却の心配もありませんので、のんびりと読み出したところです。
しかし、あんまりのんびりと読んでいましたので、今回の入院までに読了せず、入院中に、ベッドで続きを読んでやっと読了しました(-_-;)
伊達政宗は、幼くして奥州王国を築くことを夢み、その実現に邁進します。
政宗は、幼いころから織田信長に憧れ、織田信長の手法をそっくり真似し、奥州王国を築いてゆく過程では、信長の手法を真似て、撫で斬りを行います。
当時の戦国時代の奥州では、或る程度のダメージを相手に与えると、そこで止めてしまい、決定的なところまでは追い詰めなかったんですね。なぁなぁで終わらせていたので、何時まで経っても、それほどの状況の変化はなかったわけです。
この撫で斬りの手法で、政宗は、領土をどんどん拡張していきます。
しかし、時代は、政宗が登場するには、ちょっと遅かったんですね。奥州王国を築く直前で豊臣秀吉から睨まれ、領土を削られます。
しかし、政宗は、何度もそれに反抗しますが、その都度、秀吉に頭を押さえられます。そこで、政宗は、秀吉が死ぬことを待ち、そこから、奥州王国を築くことを決意します。なにせ、政宗は、秀吉よりもず~と若かったですから、、、。
秀吉が亡くなり、今度は、徳川家康と組んで、家康の天下取りに協力し、家康の次の天下人になることを目指します。
でも、家康もなかなか死にません。ただ、黙って家康の死を待っていては状況がどうなるか分かりませんから、着々と天下取りの準備に着手します。
政宗の長女の五郎八姫(いろはひめ)が家康の六男の松平忠輝に嫁していますので、名目上は忠輝に天下を取らせ、自分は、彼を操って、実質上、天下を取ろうという魂胆です。
そこで、月の浦の港を整備し、そこにスペイン艦隊を迎え、天下に一泡吹かせようとしたわけです。そのため、支倉常長をスペインに派遣したわけですが、スペインから断られてしまいます。
また、家康の死からわずか2カ月後、松平忠輝は所領没収となってしまいました。謀反が発覚してしまったわけですね。
そこで、万事休すですね。その後は、政宗は天下人への夢は消したようです。
「三十代のなかばまでは、戦の連続だった。
歯をくいしばって戦い抜く、勇猛果敢な武将だった。
四十代からの政宗は、太平に生きる天下の名士だった。 (P. 434)」
とのことです。
以前、古文書講座(鑑定団に出てくる額の耀く先生)で、政宗の手紙をいくつか読みました。いろんな人にこまめに書いているようで、内容も贈ってもらった食べ物のお礼とか細かなことが多く、けっこう気配りの人であったようです。
独眼羊としては、太平の世のなってからの政宗に多少の親近感を感じます(^.^)
でも、時の流れですものね。どうあがいても、如何ともしがたいですよね。
彼は、太平の世になってしまって、それを悟ったのでしょう。
遅生さんも隻眼でしたね。太平の世になってからの政宗に多少の親近感を感じられますか(^-^;
チョイ悪のところは伊達藩十数年前二市二町一村合併し奥州市としてスタートしました!
そんなこんなでなんとなく伊達政宗親しみを感じます^^
余談ですが家康時代政宗美人大勢江戸に送り込み奥州いまだブスばかりとか!?
この話はここだけの話です、今は美人の宝庫です(^^)/
今は、奥州市になってるんですね。
それでは、伊達政宗には親しみを感じますよね(^-^;
茨城県の北部も、昔は、佐竹藩でした。関ヶ原の戦いの後、佐竹藩は秋田県に移封されますが、その際、佐竹藩は美人をごっそり秋田に連れて行ったということです。
それが秋田美人の起源とか、、、。
お陰で、茨城にはブスばかり残り、芋ね~ちゃんの宝庫とか(笑)。
この手の話しは、どこにもあるんですね(^-^;
独眼竜正宗のお墓の整備で掘り返した時、やはり独眼竜だったとわかったと言う話を昨日の様に覚えています。
愛媛の宇和島藩が伊達家から独立した藩になります。
江戸になってからですので、ちょっと珍しいケースです。
江戸時代の天守閣が残る12城のなかの一つです。
政宗と側室との間に生まれた、政宗の第1子の秀宗が、大坂の陣に参戦した恩賞として、家康から宇和島藩10万石が与えられたんでしたね。しかも、伊達藩の支藩としてではなく独立の藩として。
そのことも、この本に書いてありました。
padaさんのところと伊達政宗とは関係があったんですね(^-^;
伊達政宗という男は目の付け所が良いですよね。支倉常長をスペインに送った所まではいい読みしております。世界を見ていた訳ですから。ただこれに失敗します。ここで火薬が手に入れば。もしかしたらと思います。命がけで行った支倉が気の毒だなと感じます。有難うございます。
スペインでは、支倉常長が到着する前に、既に、奥州王伊達政宗なる人物は徳川家康の部下に過ぎないことを把握していたんですね。
それじゃ、スペインは、簡単には政宗と手を結びませんよね(><)
この本では、帰国後の支倉常長について、次のように書かれていました。
「政宗は絶句した。
「もはや致し方あるまいな」
政宗はキリスト教に対する保護政策を破棄した。
領内各地のクリスチャンは斬殺された。
六右衛門(支倉常長のこと)は失意のうちに、二年後にこの世を去り、嫡男常頼もキリシタンの嫌疑で斬罪に処せられた。六右衛門は晩年、常長を名乗り、その像が月ノ浦に建っている。
これは政宗の過酷すぎる一面だった。
その誤りを察し、支倉家は再興されるが、それにはかなりの時間が必要だった。 P.420 」
徳川家康の部下である事がバレていたのですか。こうなると当時の情報網って凄かったのですね。東洋の小さな島では無かった。参りました。となると。支倉常長は殺された或は切腹させられたと考える方があっている気がします。この男だけ無罪放免はあり得ないと考えるのですが。如何でしょうか。私は支倉常長という男の生き様が好きでして凄くショックです。全てが徒労に終わってしまった訳ですね。ああ、辛い。有難うございます。
当時の大航海の時代は、かなり情報網が発達していたようですね。
伊達政宗としては、自分の秘密の計画が失敗に終わったわけですから、それが露見しないように、方針を転換し、一転して、キリシタン弾圧に向かわざるをえなかったんでしょうね。
そうすると、この本では、支倉常長は失意のうちに、二年後にこの世を去ったと書いてありますが、真実は、或いは殺されたか切腹させられたのかもしれませんね。
支倉常長も、伊達政宗という専制君主の側近にすぎませんから、専制君主の意のままにならざるをえませんものね。
現代から考えると、理不尽ですよね。
その頃の時代に生まれて来なくてよかったと思っております(^-^;