先日(2019年12月17日)、酒田の人さんが、「回想の古伊万里33(初期柿右衛門四寸皿)」を紹介していました。
私も、同じ様な小皿を所持しておりますので、紹介したいと思います。それは、次の画像のものです。
伊万里古九谷様式色絵花輪文小皿 表面
口径:13.1cm
製作年代:江戸時代前期
裏面
高台径:7.3cm
なお、この小皿につきましては、以前、既に閉鎖してしまっている拙ホームページの「古伊万里への誘い」にも紹介しておりますので、その紹介部分の記事を次に紹介したいと思います。
ところで、次の紹介記事をお読みいただければ分かりますが、この小皿についての分類が、私と酒田の人さんとでは異なっております。酒田の人さんは「柿右衛門様式」に分類し、私は「古九谷様式」に分類しております。
なぜそのように異なったのかにつきましては、次の紹介記事の「*「古伊万里ギャラリー104 古九谷様式色絵花輪文小皿」」に、私なりの理由付を記しておりますので、その辺もお読みいただければ幸いです(^-^;
*「古伊万里バカ日誌43 古伊万里との対話(花輪文の小皿 )」 (平成18年12月1日登載)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
花 子 (古九谷様式色絵花輪文小皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
前回は、事前に対話の対象が決まっていたので苦労しなかったが、今回も、また、どれと対話をしようかと悩んでしまったようである。
結局は、主人の所に入ってきた古い順にしようとのいつもながらの安易な方法をとることを決め込み、「押入帳」をめくりはじめた。
ところが、「押入帳」をめくってすぐに目的のものが決まり、さっそく「押入」の中を捜し始めたものの、目的の小皿が見つからない。「どうしたのかな~? 何処へ行ってしまったのかな~?」と一瞬思案投げ首となった。でも、すぐに、「そうだ、これは書棚の中に入っているんだ。」ということに気付き、書棚の中から引っ張り出してきて対話を始めた。
主人:書棚の中にいるから、時々は見てはいるんだけれど、こうして対話をするのは暫くぶりだな。
花子:はい。暫くぶりでございます。確かに、時々は私を見てはくれているんでしょうけれど、「心ここにあらざれば、見れども見えず。」で、ただ、視線だけが私に向けられているだけだったのでしょう。やっと存在に気付いていただけて嬉しいです。
主人:悪い悪い。もうとっくに登場しているのかと思っていたら、まだだったんだね。ずいぶんと待たせてしまったなあ。
ところで、お前が我が家に来たのが昭和61年の11月だから、ちょうど20年(注:令和元年12月からみれば33年)になるんだね。「十年ひと昔」と言うが、「ふた昔」も経つと、骨董などという10年や20年の時間の経過なんかは問題としない世界でも、その周辺にはいろんな変化があったね。
たとえば、お前を売っていたのは、都内の、ある小さなビルの中だった。小さなビルの中には小さなお店がひしめいていて、骨董品がビル全体にあふれ、ビル全体が「骨董館」という様相だった。それが、その後のバブル景気の時に取り壊され、別な目的の大きなビルに変身してしまった。東京には、以前は、そんなビルがけっこうあったんだが、今ではあまり見かけなくなってしまったな~。東京では家賃が高いから、ビル内に骨董屋が入居するのは大変だからなのかね? もっとも、そんな感じの現代版が、都内の各地にも見られる「骨董市」なのだろうか。これだと、毎回の出店料だけ払えばいいので月々の家賃のようなものを支払わなくて済むからね。骨董屋としては経費節減になるのだろう。
花子:そうですか、私はそんな所で売られていたんですか。
主人:そうなんだ。でもね、そんな場所の方が田舎者にとってはありがたかったね。たまに出張等で上京した折など、そんなビルに赴けば、いろんな物を短時間のうちに効率良く見られたからね。何時行っても自由に沢山の骨董品を見ることが出来たからね。今、各地で開かれている「骨董市」は、開催日が決まっているから、そうはいかないだろう。
それにね、「昔は良かった!」の話になってしまうんだが、その頃は、けっこう良い骨董品の数も多かったよ。数ある良い物の中から選択が出来たんだ。ところが、今では、「骨董市」に行ってもたいしたものがない。コレクターというものは、暫く買ってないと、何かを買いたくなる禁断症状が現れるので、つい衝動買いをしてしまい、つまらない物をつかむはめになるな。
花子:私は、数ある良い物の中から選ばれたんですか!
主人:そうとも。だから、大いに胸を張ってもいいぞ! (主人のレベルが低いからそう思うのであって、客観的に見たら、たいした物ではないんじゃないのとの声あり!)
また、この「ふた昔」の間には、古伊万里を巡る学問もずいぶんと進歩したな。以前は、伝世品を中心とした経験と勘にたよっていた。せいぜい古文書による裏付け程度だったので、極めて主観的なものだったね。だって、古文書に書いてあるといったって、現物が見えるわけではないからね。現実にはどんな物なのかわからないだろう。
ところが、この「ふた昔」の間には、考古学の手法を駆使した窯跡の発掘や各種消費地(お城や大名屋敷等)の発掘がさかんに行われ、ぞくぞくと客観的なことがわかってきた。また、ヨーロッパ等からも多くの名品が里帰りしてきて、輸出品の実体もわかってきた。それらによって、古伊万里については、「古伊万里学」とも言える程に内容が充実してきたのではないだろうか。
もっとも、そのようになったことによって、一般の人が古伊万里を気軽に論じられなくなったような気はするね。古伊万里が「象牙の塔」の中に入ってしまったようで、研究者以外の者は容易に近寄れなくなってしまった感はあるよ。
花子:そうですか。私達は学問の対象になるほどになったんですね。「骨董品」というような、マニアックで、閉鎖的で、古くさく、ジメジメとして汚らしく、ウサンクサイ存在ではなくなったんですね。
主人:そうとも。重ねて言うが、大いに胸を張ってもいいぞ!
でもね、古伊万里が学問の対象になったからといって、趣味の対象でもあることは以前と同様なはずだ。その分野では、研究に従事していない一般の趣味人にも、大いに古伊万里を論じる資格はあると思う。私も、最先端の「古伊万里学」を学んで、大いに古伊万里を論じようと思う。
花子:大いに頑張って下さい。頑張って勉強して、また私と大いに対話をして下さい。
*「古伊万里ギャラリー104 古九谷様式色絵花輪文小皿」(平成18年12月1日登載)
表面 | 裏面 |
実に色鮮やかな小皿である。赤と緑とのコントラストが美しい。
どうしてこんなに力強く、心に食い入るような、インパクトのあるものを作ることが出来るのだろう。
仔細に見てみると、この小皿の見込みは蛇の目状に釉ハギがなされ、その釉ハギがなされた部分に花輪文が描かれているのである。つまり、この小皿の素地は、表面を釉ハギしてどんどん重ねられていったものであることを示す。つまり、一品、一品が丁寧に作られたものではなく、重ね焼された量産品であることを示すのである。こんな量産品でありながら、どうしてこうも力強いものに作られたのだろう。
当時の古伊万里製作従事者の製作への勢いというか、エネルギーというか、内面から湧き上がってくる旺盛な製作意欲のようなものを強く感じるのである。現代の食器製作従事者に、これほどの強い制作意欲があるだろうか?
なお、この小皿については、一応、「古九谷様式」と分類してみた。「古伊万里バカ日誌 43 古伊万里との対話(花輪文の小皿)」でも記したように、古伊万里を巡る学問の進歩は著しい。
20年前は、この手の物は、何処で焼かれたものなのか、何焼なのか、はっきりとはしなかったのではないかと思う。経験と勘から、何となく「古伊万里」に属するのではないかとは思われたではあろうけれど、、、、、。
現時点では、これが「古伊万里」に属することを疑う者はいまい。ただ、その分類についてはまだ明確になってはいないのではなかろうか。
私は、このように勢いのある古伊万里のうち、輸出向け製品を「柿右衛門様式」、国内向け製品を「古九谷様式」と分類してみようと思うので、一応、「古九谷様式」に分類してみたわけである。
シロートの私などがコメントすることを
まずお許し下さい。
主人と花子の対話が分かりやすくて
大変面白いです。
そのどちらもがkoimariさんであるわけですが。(笑)
やはり骨董品とは対話の相手になり得るのですね。
古伊万里と古九谷が近いモノであるというのはこちらのブログで学ばせていただきました。
分類がどうとかさっぱり分かりませんが
どちらも何となく好きな焼物でしたから
ああ そうだったのかと目から鱗です。
私が、以前、ホームページを開設していましたのも、また、こうしてブログを開設していますのも、ひとえに、古伊万里の美を世界に発信し、一人でも多くの人に古伊万里の美を知っていただきたいからです。
ですから、古伊万里をよく知らない方が、このブログを読み、古伊万里を見て、古伊万里に関心をもっていただけたなら、大変嬉しいことです。しかも。コメントまで寄せていただけたら、こんな嬉しいことはありません(^-^;
私と花子との対話が面白かったですか(^-^;
骨董品はペットと同じようなものですよ。対話が成り立つんです(^-^;
古伊万里について、難しく考えることなく、これからも、気軽にその良さを認めていただき、ブログをお読みいただければ嬉しいです(^-^;
色絵でも絵付けに品格がありますよね。もちろん、私は実物を知りません。そしてこの時代の品物は凄いなと改めて思います。私もこの品物は古九谷様式と思います。そして極端な言い方をすると古九谷は伊万里でも別格ではと私などな思っております。素晴らしい品物を拝見しました。有難うございます。
あらためて見ているのですが。絵の具の色が違いますよね。1700年以降になると。こんな品のある色は出てこないですよね。私は色絵ってあまり好きでは無いのです。それは主に江戸中期から後期の品物を見ているからだと思います。勉強になりました。有難うございます。
追伸。
以前、青だけを使った桃の形をした皿をお持ちでしたが。あれは私の中では最高の品物となります。
輸出向けが「柿右衛門様式」、国内向けが「古九谷様式」の一文、この頃はワタシもHPを始めていましたが、まだまだ初心者で
ドクターさんのこの一文に随分と影響されたように記憶しています。
「古九谷様式」もごく一部は輸出されていたようですが、これは公式のものではなく
東インド会社の船員が持ち込んだものだという説を何かで読んだ記憶があります。
この品は過渡期的な特徴を備えているように感じますが、考えようによると
同じ過渡期様式でも「古九谷」寄りと、「柿右衛門」寄りの品があるのかも知れません。それはちょうど伊万里における技術革新の歴史と重なるということもあるんでしょうか。
この品は古九谷寄りでありながら、独自の魅力を放つ逸品だと思います。
18世紀以降となると、なんか薄っぺらに感じてしまうんです(-_-;)
食器なのに、どうしてこんなに材料も吟味し、手間暇かけて作ったのかと驚かされます。現代では、とても、採算が合いませんから作りませんよね。
それだけに、当時は、磁器がいかに高級品であったか、高かったかがわかりますよね。
そんな所に、私は、惹かれるのかもしれません。
以前、拙ホームページでアップした「青だけを使った桃の形をした皿」のことを覚えてくれていましたか。嬉しいですね(^-^;
あれは、確か、平成28年9月1日に、「伊万里古九谷様式色絵草花蝶文羽団扇形小皿」としてアップしたものですね。羽団扇形は桃の形にも見えますものね。
青一色の色絵というのも珍しいですが、青一色の色絵には、染付にはない温かみを感じさせますものね。
そんな工夫まで凝らすんですものね。当時の古伊万里を益々好きになってしまう理由の一つでもあります(^-^;
そうなんですよね。過渡期の同じような物を、人によっては、それを、柿右衛門様式に分類したり、古九谷様式に分類したりしますよね。
典型的に柿右衛門様式なり古九谷様式なりに分類できる場合はいいんですが、それが困難なケースでは、どうしても主観的な相違で分類が分かれてしまいますね。
その辺に問題があると思います。
古伊万里の研究が進み、柿右衛門も古九谷も古伊万里に含まれようになりましたが、まだ日が浅いですね。
それだけに混乱が生じたわけですけれど、まだまだよく整理されていませんね。
だんだんと、長い年月を経て、その辺が整理されていくことを期待したいです。
残念ながら、私はここに参入できません。実はずっと密かに、こういった色絵が穴場だ(笑)、いつかは本格的に・・・と思いつつ、時間だけがすぎて、もはや、資力、気力、体力ともに風前の灯状態です(^^;)
で、残るは昔の話だけ(笑)。当時は、頻繁に上京していたので、渋谷、お茶の水・・骨董ビルなどを行脚していました。確かに、ああいった場所が無くなる時期に、骨董界の熱気も冷めてきたように思います。
私は、たまにしか上京しませんでしたが、まだ若かったので、上京した折には、精力的に動き回っていました。今では、疲れて動けません(><)
あの頃は、この手の物がチラホラとあったんですよね。でも、意外と高かったように記憶しています。
この手の物は、柿右衛門でもなく、古九谷でもなく思われていました。
じゃ何処で作られた物かとなりますが、結局、よく分からない物ということになっていましたね。しかし、上手でもありますので、結構、値段だけは、そこそこの値段がしていましたね。
一方、その頃から、古九谷伊万里説が言われるようになり、私は、これ等は伊万里(古九谷)に違いないと思いましたので、私も、こういった色絵は穴場だと思うようになりました(笑)。
しかし、いかんせん、資金力がありませんので、少ししか買うことが出来ませんでした(><)
今では古伊万里が安くなりましたが、この手の物は、なかなか市場に出てきませんね。また、出てきても、依然として高いですね。
やはり、良い物はブームに左右されないんですね。
私も、昔の話が主になってしまいました(笑)。
この様な色絵を柿右衛門様式と分類している博物館もありますね。柿右衛門の定義とは何をもって言うのかと言う事になりますが、この辺りが曖昧ですので、どちらにもとれるような気も致します。
初代柿右衛門も最初は古九谷様式の色絵を
作っていたはずで、それを長崎に持って行ったみたいですが、それから要望に応じて考案して濁し手を作り~これがヨーロッパで好評だったと言う事から考えますと、柿右衛門様式は濁し手の輸出向け作品だと言えば、すっきりする様な気もします。
濁し手は素地を作るのに1工程増やしていますので、明らかに中国色絵越を狙ったやり方で~+αと思うのですが?
日本での伝製品が少ない所を見ますと当時は人気が無かったのかもしれませんね?