今回は、「染付 唐子雪遊文 八寸皿」の紹介です。
表面
裏面
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代後期
サ イ ズ : 口径;23.0cm 底径;14.2cm
なお、この「染付 唐子雪遊文 八寸皿」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、既に紹介しているところです。
そこで、次に、その時の紹介文を再度掲載することをもって、この「染付 唐子雪遊文 八寸皿」の紹介に代えさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー177 伊万里染付唐子雪遊文八寸皿 (平成25年1月1日登載)
唐子が、「雪輪文」を転がして遊んでいるので、雪遊びの図そのものズバリである。
竹笹の上に乗っている物も雪であろう。いわゆる「雪持ち笹文」である。
この辺では、あまり雪は降らないので雪景色は珍しい。かといって、正月には雪が降って雪景色になってほしいと願っているわけではないが、このお皿の文様は、なんとなく、正月にふさわしいように思われる。
唐子が、無心に雪とたわむれ、嬉々として遊んでいる様はほほえましい。
嬉しそうな唐子の表情、躍動感あふれる唐子の動きには、心和ませるものがある。
このお皿の口縁上部には、1か所、窯傷がみられる。
多分、現代なら、傷物として廃棄されたのであろう。
しかし、当時、磁器はまだ貴重品であったので、廃棄されずに市場に流通され、現在まで伝世したのであろう。
今なら、むしろ、その窯傷は、見所として珍重されるのであろうか、、、。
ところで、このお皿の口径は23.0cmなので、厳密には八寸には満たないが、七寸よりは八寸に近いので、「八寸皿」と表示した。
江戸時代後期 口径:23.0cm 高台径:14.2cm
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*古伊万里バカ日誌107 古伊万里との対話(唐子雪遊文の皿)(平成25年1月1日登載)(平成24年12月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
唐 子 (伊万里染付唐子雪遊文八寸皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人のところにも無事正月が巡ってきたようである。
暮には、庭師さんによる庭の手入れも終り、また、懸案だった屋根の修理も終ったりで、例年になく心安らかな正月を迎えることが出来たようである。
そこで、心安らかな対話の出来そうな古伊万里を求めて押入れ内を引っかきまわしていたようであるが、なんとかそれにふさわしそうなものを引っ張り出してきて対話を始めた。
唐子: あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
主人: うん、おめでとう。今年もよろしくな。
でもな~、年をとってくると、なんか、正月を迎えるに当たっての心境たるや複雑だな~。
一休さんの歌に、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」というのがあるが、年老いてくるとその歌の意味がしみじみと身につまされるよ!
唐子: まあ、そう後ろ向きに考えずに、明るく、元気に、前向きに考えてください!
主人: うん、そうね。そうしよう。
その点、お前はいいな~! 元気いっぱいだ! 嬉々としているね。雪ダルマ作りでもしているのかね。
唐子: ご主人も、子供の頃、雪ダルマ作りをして遊んだことがありますか。
主人: もちろんあるよ。
私は、舞鶴城という佐竹氏の居城だった城跡にある小・中学校で学んだんだが、その頃はよく雪が降ってね、特に小学校の中庭には雪が積もり、そこでよく雪遊びをしたことを思い出すよ。
唐子: あの~、佐竹氏というと秋田藩で、秋田県内にありましたよね。ご主人は秋田県の出身なんですか?
主人: いや~、違うんだ。常陸の国だよ。茨城県だよ。
この前、「名将 佐竹義宣」(南原幹雄著 角川書店 平成18年5月31日発行)という本を読んで知ったんだが、佐竹氏は、清和源氏の嫡流で、平安末期から延々と20代にわたって常陸の国に根を張り、強い勢力を保っていたんだね。佐竹氏の居城は、関東三名城の一つと言われ、水戸から北に約20キロメートルほど行った常陸の国の「太田」という地にあったんだ。それで、その城の名前は、地名から「常陸太田城」とか、佐竹氏の城なので「佐竹城」とか言われていた。また、その城の周辺には鶴が舞っていたので「舞鶴城」とも言われていたな。「舞鶴城」などと、いかにも優雅な名前だよな。
もっとも、厳密には、佐竹氏の居城は、初代~2代までの約10~20年間は、その舞鶴城から数キロメートル西に行った天神林という所にあったらしいし、常陸の国全体を支配するようになった佐竹氏第20代の佐竹義宣は、居城を水戸に移しているので、ず~っと舞鶴城だったわけではないな。しかし、関ヶ原の戦い後、佐竹義宣は、徳川家康により、水戸から秋田に転封されているので、水戸が居城だったのは約11年間にすぎないんだ。結局、佐竹氏3代~20代の義宣までの約450年間は舞鶴城が佐竹氏の居城だったわけで、佐竹氏の居城は舞鶴城だったと言っても過言ではないと思う。
それで、今でも、茨城県北部に行くと、佐竹氏の居城=舞鶴城と思っている人は多いよ。
唐子: ご主人は、「舞鶴城」というような優雅なお城の跡地で学ばれたんですね。
主人: そうだったんだよな~。子供の頃は、そんなことはちっとも思っていなかったんだけどな~。今から思うと、いい所で学んでいたんだよね。
でも、戦国時代には、お城の周辺は沼地だったので鶴が舞っていたかもしれないけれど、江戸時代には開発されて沼地は田んぼになってしまい、鶴は舞っていなかったんじゃないかと思うよ。けれども、江戸時代には、このお城の周辺は、水戸八景の一つの「太田の落雁」という景勝地に選ばれているので、風光明媚な所であったことは確かだね。
唐子: 優雅なだけではなく、風光明媚な所でもある場所で学ばれたんですね。それに、学ばれた小・中学校は城跡にあったということですから、その小・中学校も、遠くから見れば、石垣に囲まれた天守閣のように見えるんではありませんか?
主人: いや、いや、そうではないんだ。石垣なんかなかったな~。古い中世のお城だったせいか、石垣なんかは使ってなかったね。自然の地形を利用しているんだろうね。小学校の敷地の端っこの一部が急な土の断崖のようになっていたことを思い出すよ。天然の土塁の役目を果たしていたんだろうね。今、我々がイメージするようなお城ではなかったんだろうね。天守閣もなかったみたいだから。
唐子: わりと地味なお城だったんですね。
主人: もっぱら実戦的な、小高い鯨の背中のような丘を利用して作った平山城だから、遠くから見たら、コンモリとした小山のように見えたんじゃないかな。その周辺が風光明媚で、自然環境に恵まれていたということかな。
唐子: そうでしたか。でも、いずれにしましても、いい環境の中で学ばれましたね。
主人: うん。そうだね。感謝しなけりゃね。
今日は、お前と話をしていて、自分の小学生だった頃を思い出し、懐かしい気持ちになれたよ。ありがとう。
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私の小学校も城跡にありました。例の春日局の城ではなく、隣の集落の城です。戦国時代ですから、砦のようなものだったんでしょう。
この皿の絵は雪だるまですから、やはり雪輪紋は厳然としてあるのですね。黒丸があって鼓の皮に非常によく似ていますが、黒丸はデザインとして入ってきたのでしょう。
遅生さんも、城跡にあった小学校で学びましたか。
戦国時代の城は、石垣などなく、土塁だけの城が多かったですよね。
雪輪文は、いろんな意味で捉えられているようですが、この絵を見ますと、やはり、雪の象徴としても捉えられていたと思うんですよね。
確かに、鼓の皮に非常に似ていますね。
雪輪文について、以前、遅生さんがブログで書かれていましたよね。それについて、後で読み返してみます(^_^)
雪輪文はウチにもいくつかありますが、唐子が雪だるま(?)を作っている図というのは
とても珍しいように思います。
酒田は雪国なので、確かに子供の頃はこんな雪遊びをしたものでした
雪の結晶の件ですが、気温が下がると、雪が大きな結晶の形で降ることがあったのを思い出しました。
そうですか。江戸後期には、「市井の人々も雪の結晶について知っていたと思われます」か。「陶磁器に描かれる雪輪紋は、やはり雪の結晶をデザイン化したもの」と考えていいわけですね。
ありがとうございます(^_^)
人気があったのでしょうね。
雪国の酒田では、子供たちは、今でもこのような雪遊びをするのでしょうね。
こちらでは、あまり雪が降らないこともありますが、今の子供は、このような遊びはしないようですね。
気温が下がると、雪が大きな結晶の形で降ることがありますか。
こちらでは、見たことがないような気がします。
やはり、そちらは雪国ですね。