今年度,福島県会津地方における比較的大きな河川調査の仕事を引き受けた。かなり広範囲の地域に及ぶ調査で,大雑把に言うと次のような町や村を辿る旅である。
仕事の始まりは会津若松市。そこを起点として,会津本郷町→下郷町→田島町→舘岩村→檜枝岐村→伊南村→南郷村→只見町→金山町→三島町→柳津町→会津坂下町と会津地方のさまざまな町や村を道中双六のように巡回し,再び会津若松市へと戻る。川の調査であるからして,当然,川の流れに沿って下流から上流へ,あるいは上流から下流へと谷間を移動する。時には分水嶺の峠を越えて山向こうの水系に移ることもある。全体を通じて約2週間近い長期出張で,その調査を春・夏・秋と季節を違えて計3回行う。これを「ドサ回り」といわずして何といおう。
会津地方は若年の頃に一度だけ訪れたことがある。尾瀬に魅せられて何度も通っていた時期,一度くらいは「裏側から」入山するルートを選んでみようと思った。いまだ東北新幹線など開通していない時代のことで,当時住んでいた横浜市内の家を夕方過ぎに発ち,まず京浜東北線で上野駅まで行き,上野から東北本線の夜行鈍行列車で福島県の郡山市へと向かう。郡山駅で翌朝始発の磐越西線の蒸気機関車に乗り換えてエッチラオッチラ煙吐きながら磐梯熱海や猪苗代湖を経由して会津若松まで行き,会津若松から今度はディーゼル列車の会津線に乗ってゴットンゴットン会津田島駅まで,そこからさらに会津乗合バスに乗り換えて延々と数時間ゆられて桧枝岐村の奥にある尾瀬御池まで辿り着いた,確かそんな行程であったと記憶している。まったく「遥かな尾瀬」の言葉通りのアプローチでありました。道中の風景は今ではもうほとんど覚えておらず,ただただ十重二十重に連なる山また山のなかを列車とバスにゆられながらひたすら山奥目指して運ばれてゆく,といった感じであった。
少年期に経験したそのような原風景,特に山や川,森や田畑や農村集落のたたずまいは現在でも基本的には変わらないのだろう。しかしながら「彼は昔の彼ならず」であって,道路事情が当時と比べて格段に良くなっていること,スキー場やドライブイン,クアハウスなどいわゆるリゾート関連の立派な施設が街道沿いに目立っていること,さらには町役場や学校などの公共建築物のなかに時として違和感を覚えるほどに立派なシロモノが散見されること,そのような現状は山里の全体的な印象を往時とはかなり違ったものにしている。単相から複雑系へ,純粋から混濁へ,モノクロからフルカラーへ,ビンボーからダイジンへ,まぁ,レッテル貼りは何でもいいけれど,所詮この世知辛い時代にあって,失われし「原風景」を真っ正直に追い求めるなんてぇことは,見果てぬ夢でしかないのかな? おっとっと,またぞろ例の退行的な性分がアタマをもたげてきたゾ(やれやれ!)
仕事上でのつかのまの訪問ではあるものの,どの町もそれぞれに印象深い。特に,南会津郡只見町には数日間滞在したこともあり,惹かれるところが少なくなかった。『本の街たもかぶ』などという知る人ぞ知る大きな古本屋がある。仕事の合間に時間を作ってちょいと覗いてみたが,いかんせん貧民の友『ブック・オフ』を身近に有する者としてはさしたる有り難味は感じない。この山里のアイデア・ビジネスは果たして全国区狙いに値するシロモノであろうか? せいぜい「背取り屋さん」が訪れないのが穴場といえば穴場って位か。
仕事が少し早目に終わった日,只見川の堤防沿いの道を晩夏の夕風に吹かれながらノンビリと歩いた。支川の伊南川は鮎釣りでつとに有名だが,只見川の方は上流のダム放水による流況変化が激しいため釣り人もほとんど寄り付くことがなく,まるで息をひそめるように静謐とした,あるいはむしろ「暗澹とした」と形容した方がより適切な,重く淀んだ流れである。小さな橋のたもとには「熊出没注意!」などという立派な看板が,まるで通行関所のようにデデーンと設置されている。いや,極めて真面目な話なのだ。この地では人々は常に自然と直に対峙している。
町の中心部を抜けて国道を南に進むと,やがて,馬鹿でかい「溜池公園」のような只見ダム貯水池の広大でフラットな水面が谷間に展開する。さらにその背後には田子倉ダムの巨大なコンクリートの堤体が,まさに聳えるがごとく眼前にそそり立っている。人工的な,あまりに人工的なといえばまさにその通りの景観なのだが,私にとっては何故か心休まる不思議な光景として映じる。我が国における戦後の経済復興期から高度成長期へと邁進してゆく歴史的「進化」の過程のなかで,産業構造の転換,社会階層の流動化,共同体の崩壊等々の「置きみやげ」あるいは「記念碑」として,現在それらの風景は周囲の自然と奇妙な調和を保ちながら成立しているわけだ。地域住民は喜びも悲しみも幾年月,数10年ものあいだ常にこの風景と共にあったことを思えば,しょせんはスーパーフィシャル・トラベラー(ないし偶然的観察者)である「都会もん=余所者」に文句をいわれる筋合いなど断じてあるまい。ちなみに現在,町を通る鉄道は一日にたったの3本しか運行されていない。それが現実なのである。
調査中のある一日,只見川中流域に設置されている宮下ダムの管理事務所で船を借用し,ダムサイトから約1時間近くかけて上流部の調査地点まで只見川を遡った。その船はダム湖内の流木・ゴミ等を除去するための作業船ゆえ,せいいっぱい頑張っても時速約3ノット程度しかスピードが出せず,そのため実にノンビリゆっくりとした遡航となった。川の水量は豊かで河谷いっぱいに滔々と流れ,両岸は切り立って深い緑に覆われており,聞こえるのは船のエンジン音とかすかな鳥の囀りだけ。たまに山の斜面に集落がぽつりぽつりと点在するが,人の気配はほとんどない。今ここが大陸の河川であると指摘されても,訝る理由はどこにもなかろうというものだ。山深い渓谷に沿って,川の流れにほぼ併走するようにJR只見線が通じており,ときにトンネルに隠れ,ときに古びた橋梁が川の水面を横切る。実際に走る列車に遭遇するといった僥倖はあいにく望めないけれども(何しろ1日3本!),それでも目を閉じれば,あたかも川面を渡る透明な風の中を走る軽便鉄道車両と併走しているような気持ちになってくる。好天に恵まれた夏の日の午前,連日の調査の疲れなど思わず忘れてしまうくらいに心地よいヤスラギで満たされるひとときである。唐突に,こんな歌が思い浮かぶ。
遠い雪がひかる ゆれる花がひかる
空に水がとけて 風もあかるい
山を越え 谷を越え レールは続くよ
ユレユレイー レイホー ユレユレイー レイホー
スイスの電車
これは昔,といっても3~4年前のことだが,うちのアキラがまだ「鉄道大好き幼児」であった頃に買ってあげた『乗り物の歌』を集めたビデオ・テープのなかに入っていた曲の一節で,アキラも私もお気に入りの歌のひとつだった。歌っているのは新居昭乃Arai Akinoという名のオネーサンで,牧歌的で抒情的な詩とメロディーに相応しい,なかなか味のある魅力的な歌声の女性だった。今ではそのビデオは既に手元にないので改めて確認することはできないが,先程ネット検索をしてみたら,一部の世界(私の全く与り知らぬ世界)では随分と有名な歌い手であるらしい。その歌声なればこそ,むべなるかな。
そうそう,思い出した。桧枝岐ルートで尾瀬に入山した昔々のあの夏の日,山上の湿原で有名な会津駒ヶ岳の登山口が村の街道のすぐ脇にあることを移動中のバスの車中から発見して,ヨシ,今度は会津駒に登りに来よう! と固く心に誓ったはずであった。けれど,その時の思いを果たせぬまま徒に齢を重ね続け,既に30年もの歳月が過ぎてしまった。この間,一体ワタクシは何をしていたのだろう? 同じ時代のまた別の夏の日のこと,スイスの有名観光地であるグリンデルワルトからクライネシャイデッグに通じる登山電車の乗客であったことがある。絵葉書そのまんまの美しい風景を車中から眺めていると,やがて眼前にアイガー北壁が迫り,その峨々とした山容に言葉もなく圧倒された。すると,同乗していたドイツ人らしき若い男が,ホレ,あっちの山はヴェッターホルンだよ! などと御丁寧にも教えてくれた。ヨシ,出来ることならいつかあの頂上に立ってみよう! と,やはりその時強く感じた(はずであった)。ああ,全てはマボロシなのだろうか。
それにつけても,「歌」は眠っている記憶の底からいろんなものを引き出す。歌っているのは,誰なんだろうか?
仕事の始まりは会津若松市。そこを起点として,会津本郷町→下郷町→田島町→舘岩村→檜枝岐村→伊南村→南郷村→只見町→金山町→三島町→柳津町→会津坂下町と会津地方のさまざまな町や村を道中双六のように巡回し,再び会津若松市へと戻る。川の調査であるからして,当然,川の流れに沿って下流から上流へ,あるいは上流から下流へと谷間を移動する。時には分水嶺の峠を越えて山向こうの水系に移ることもある。全体を通じて約2週間近い長期出張で,その調査を春・夏・秋と季節を違えて計3回行う。これを「ドサ回り」といわずして何といおう。
会津地方は若年の頃に一度だけ訪れたことがある。尾瀬に魅せられて何度も通っていた時期,一度くらいは「裏側から」入山するルートを選んでみようと思った。いまだ東北新幹線など開通していない時代のことで,当時住んでいた横浜市内の家を夕方過ぎに発ち,まず京浜東北線で上野駅まで行き,上野から東北本線の夜行鈍行列車で福島県の郡山市へと向かう。郡山駅で翌朝始発の磐越西線の蒸気機関車に乗り換えてエッチラオッチラ煙吐きながら磐梯熱海や猪苗代湖を経由して会津若松まで行き,会津若松から今度はディーゼル列車の会津線に乗ってゴットンゴットン会津田島駅まで,そこからさらに会津乗合バスに乗り換えて延々と数時間ゆられて桧枝岐村の奥にある尾瀬御池まで辿り着いた,確かそんな行程であったと記憶している。まったく「遥かな尾瀬」の言葉通りのアプローチでありました。道中の風景は今ではもうほとんど覚えておらず,ただただ十重二十重に連なる山また山のなかを列車とバスにゆられながらひたすら山奥目指して運ばれてゆく,といった感じであった。
少年期に経験したそのような原風景,特に山や川,森や田畑や農村集落のたたずまいは現在でも基本的には変わらないのだろう。しかしながら「彼は昔の彼ならず」であって,道路事情が当時と比べて格段に良くなっていること,スキー場やドライブイン,クアハウスなどいわゆるリゾート関連の立派な施設が街道沿いに目立っていること,さらには町役場や学校などの公共建築物のなかに時として違和感を覚えるほどに立派なシロモノが散見されること,そのような現状は山里の全体的な印象を往時とはかなり違ったものにしている。単相から複雑系へ,純粋から混濁へ,モノクロからフルカラーへ,ビンボーからダイジンへ,まぁ,レッテル貼りは何でもいいけれど,所詮この世知辛い時代にあって,失われし「原風景」を真っ正直に追い求めるなんてぇことは,見果てぬ夢でしかないのかな? おっとっと,またぞろ例の退行的な性分がアタマをもたげてきたゾ(やれやれ!)
仕事上でのつかのまの訪問ではあるものの,どの町もそれぞれに印象深い。特に,南会津郡只見町には数日間滞在したこともあり,惹かれるところが少なくなかった。『本の街たもかぶ』などという知る人ぞ知る大きな古本屋がある。仕事の合間に時間を作ってちょいと覗いてみたが,いかんせん貧民の友『ブック・オフ』を身近に有する者としてはさしたる有り難味は感じない。この山里のアイデア・ビジネスは果たして全国区狙いに値するシロモノであろうか? せいぜい「背取り屋さん」が訪れないのが穴場といえば穴場って位か。
仕事が少し早目に終わった日,只見川の堤防沿いの道を晩夏の夕風に吹かれながらノンビリと歩いた。支川の伊南川は鮎釣りでつとに有名だが,只見川の方は上流のダム放水による流況変化が激しいため釣り人もほとんど寄り付くことがなく,まるで息をひそめるように静謐とした,あるいはむしろ「暗澹とした」と形容した方がより適切な,重く淀んだ流れである。小さな橋のたもとには「熊出没注意!」などという立派な看板が,まるで通行関所のようにデデーンと設置されている。いや,極めて真面目な話なのだ。この地では人々は常に自然と直に対峙している。
町の中心部を抜けて国道を南に進むと,やがて,馬鹿でかい「溜池公園」のような只見ダム貯水池の広大でフラットな水面が谷間に展開する。さらにその背後には田子倉ダムの巨大なコンクリートの堤体が,まさに聳えるがごとく眼前にそそり立っている。人工的な,あまりに人工的なといえばまさにその通りの景観なのだが,私にとっては何故か心休まる不思議な光景として映じる。我が国における戦後の経済復興期から高度成長期へと邁進してゆく歴史的「進化」の過程のなかで,産業構造の転換,社会階層の流動化,共同体の崩壊等々の「置きみやげ」あるいは「記念碑」として,現在それらの風景は周囲の自然と奇妙な調和を保ちながら成立しているわけだ。地域住民は喜びも悲しみも幾年月,数10年ものあいだ常にこの風景と共にあったことを思えば,しょせんはスーパーフィシャル・トラベラー(ないし偶然的観察者)である「都会もん=余所者」に文句をいわれる筋合いなど断じてあるまい。ちなみに現在,町を通る鉄道は一日にたったの3本しか運行されていない。それが現実なのである。
調査中のある一日,只見川中流域に設置されている宮下ダムの管理事務所で船を借用し,ダムサイトから約1時間近くかけて上流部の調査地点まで只見川を遡った。その船はダム湖内の流木・ゴミ等を除去するための作業船ゆえ,せいいっぱい頑張っても時速約3ノット程度しかスピードが出せず,そのため実にノンビリゆっくりとした遡航となった。川の水量は豊かで河谷いっぱいに滔々と流れ,両岸は切り立って深い緑に覆われており,聞こえるのは船のエンジン音とかすかな鳥の囀りだけ。たまに山の斜面に集落がぽつりぽつりと点在するが,人の気配はほとんどない。今ここが大陸の河川であると指摘されても,訝る理由はどこにもなかろうというものだ。山深い渓谷に沿って,川の流れにほぼ併走するようにJR只見線が通じており,ときにトンネルに隠れ,ときに古びた橋梁が川の水面を横切る。実際に走る列車に遭遇するといった僥倖はあいにく望めないけれども(何しろ1日3本!),それでも目を閉じれば,あたかも川面を渡る透明な風の中を走る軽便鉄道車両と併走しているような気持ちになってくる。好天に恵まれた夏の日の午前,連日の調査の疲れなど思わず忘れてしまうくらいに心地よいヤスラギで満たされるひとときである。唐突に,こんな歌が思い浮かぶ。
遠い雪がひかる ゆれる花がひかる
空に水がとけて 風もあかるい
山を越え 谷を越え レールは続くよ
ユレユレイー レイホー ユレユレイー レイホー
スイスの電車
これは昔,といっても3~4年前のことだが,うちのアキラがまだ「鉄道大好き幼児」であった頃に買ってあげた『乗り物の歌』を集めたビデオ・テープのなかに入っていた曲の一節で,アキラも私もお気に入りの歌のひとつだった。歌っているのは新居昭乃Arai Akinoという名のオネーサンで,牧歌的で抒情的な詩とメロディーに相応しい,なかなか味のある魅力的な歌声の女性だった。今ではそのビデオは既に手元にないので改めて確認することはできないが,先程ネット検索をしてみたら,一部の世界(私の全く与り知らぬ世界)では随分と有名な歌い手であるらしい。その歌声なればこそ,むべなるかな。
そうそう,思い出した。桧枝岐ルートで尾瀬に入山した昔々のあの夏の日,山上の湿原で有名な会津駒ヶ岳の登山口が村の街道のすぐ脇にあることを移動中のバスの車中から発見して,ヨシ,今度は会津駒に登りに来よう! と固く心に誓ったはずであった。けれど,その時の思いを果たせぬまま徒に齢を重ね続け,既に30年もの歳月が過ぎてしまった。この間,一体ワタクシは何をしていたのだろう? 同じ時代のまた別の夏の日のこと,スイスの有名観光地であるグリンデルワルトからクライネシャイデッグに通じる登山電車の乗客であったことがある。絵葉書そのまんまの美しい風景を車中から眺めていると,やがて眼前にアイガー北壁が迫り,その峨々とした山容に言葉もなく圧倒された。すると,同乗していたドイツ人らしき若い男が,ホレ,あっちの山はヴェッターホルンだよ! などと御丁寧にも教えてくれた。ヨシ,出来ることならいつかあの頂上に立ってみよう! と,やはりその時強く感じた(はずであった)。ああ,全てはマボロシなのだろうか。
それにつけても,「歌」は眠っている記憶の底からいろんなものを引き出す。歌っているのは,誰なんだろうか?