サルバトーレ・アダモ Salvatore Adamoの 《君が戻ってくる時》という古い歌が,ここ最近ときどきアタマの中をよぎる。それは,こんなフレーズだ。
君がまた ぼくの元へ戻って来るとき
ブドウの蔓は 君が嫌いだった壁を覆っているだろう
もう隙間風も入らない
さぁ ぼくは屋根を修理しよう
君はぼくの部屋が 春よりももっと暖かいことを知るだろう
だってそこには 1月から12月まで
君を待っている太陽があるのだから
アダモ特有の例のハスキーなくぐもり声。非常に甘ったるいメロディー。やはりこれはセンチメンタル・ジャーニーの一種でありましょうか。いや,そうではない。ここで,ワタクシの深層において揺れ動いている感情は,家というもの,いやむしろ砦といった方が適切か,自分が守るべきものを匿うためのその砦を,これから先どうやってより立派なものに築き上げて行こうかという,いわば本能的な感情なのだ(おや,何だか昆虫みたいになってきたぞ)。
社会ないし世間(あるいは人生ないし日々の暮し)に対する保守的な姿勢,パーソナル・エンクロージャー,それに無意識に共感している自分が少々気恥ずかしい。 で,キーワードは“愛”ってか?
君がまた ぼくの元へ戻って来るとき
ブドウの蔓は 君が嫌いだった壁を覆っているだろう
もう隙間風も入らない
さぁ ぼくは屋根を修理しよう
君はぼくの部屋が 春よりももっと暖かいことを知るだろう
だってそこには 1月から12月まで
君を待っている太陽があるのだから
アダモ特有の例のハスキーなくぐもり声。非常に甘ったるいメロディー。やはりこれはセンチメンタル・ジャーニーの一種でありましょうか。いや,そうではない。ここで,ワタクシの深層において揺れ動いている感情は,家というもの,いやむしろ砦といった方が適切か,自分が守るべきものを匿うためのその砦を,これから先どうやってより立派なものに築き上げて行こうかという,いわば本能的な感情なのだ(おや,何だか昆虫みたいになってきたぞ)。
社会ないし世間(あるいは人生ないし日々の暮し)に対する保守的な姿勢,パーソナル・エンクロージャー,それに無意識に共感している自分が少々気恥ずかしい。 で,キーワードは“愛”ってか?