あれまぁ,いつの間にか春になってしまった。こうしてまた性懲りもなく春という季節を迎えたわけだ。まったくモウ,この先あと幾度この苦しみ,もとい,この苦い喜びを重ねることになるのだろうか。なんて,そんなショーモナイこと考えずに,ただただ自然と漫然と,淡淡と寂寂と日々を過ごしてゆくに如かないことは重々承知しておるのではございますが。。。 それにしても,なんだか年をとるにつれて自らの思考回路,表現手法,行動様式,はたまた生活規範などなどがグズグズになってゆくばかりで,とりわけ文章表現においては明晰な叙述能わず,毅然としたスタイル志向をとうに喪失してしまったようだ。多様性からの乖離,紋切り型への執着,挙げ句の果ては無限ループへの収斂。そういった自らの脳内衰弱を裏付けるかのように,最近では身体的劣化も各部位において目立っており,特に頸椎,膝関節,足爪,歯など「骨」関係の劣化が顕著である。毎日摂取しているカルシウム・サプリメントなんぞ所詮気休め,悪あがきに過ぎないのだろう。そう,二ヶ月ほど前のことになろうか,オヤツに「芋けんぴ」を食べていたら,何と左上の奥歯が割れてしまった! そこは元々虫歯治療でクレーター状に掘削したところに詰め物を施してあった大臼歯なのだが,恐らくは経年劣化により詰め物が微妙に緩んでしまったものと思われ,そこに芋けんぴ咀嚼に伴う強い負荷圧力がかけられた結果,クレーター外輪の一部がヒビ割れてしまったのだ。まさに,芋けんぴ恐るべし,である。すぐに近所の歯医者に駆けつけて応急処置を施していただき,奥歯の三分の一ほどの部分が,ちょうど銅鐸のような形状で根こそぎ引き抜かれた。 で,この先どうすればいいんでしょうか? と,体脂肪率30%を優に超えると思われる恰幅の良い歯科先生に問えば,まぁ,全部抜いちゃった方が一番手っ取り早いんですけどねぇ。。。でも,なんとか残った部分を拠り所として全体を保存することも可能ですから。というわけで,その奥歯は延命措置を講ずることと決められ,その前段として現在も週に一度「コンチの患者さん」として通院継続中である。しかし,この根管治療ってヤツがまた長期戦になりそうで,ああ,いつまで続くヌカルミぞ,って感じだ。。。
グズグズとした前置きはこれくらいにして,標題にかかわる話に移らせていただく。それは少し前の冬に体験した一寸せつないエピソードである。
ある日の夕方,宮城県・仙台市郊外の静かな住宅街を歩いていた。仙台およびその周辺というエリアは,私にとって過去に幾度となく訪れている,まぁ比較的馴染み深く愛着のある土地である。初めてその地に足跡を印したのは今を去ること はや半世紀近くもの昔のことだ。そのことは以前にもどこかで記したように思うが,当時は大都会の場末でしがないオチコボレ高校生をやっており,そんな毎日のサエナイ生活のなかで,ある時なぜか突然思い立って《みちのくひとり旅》なんぞを挙行したのであった。そりゃ私とてヘソマガリ・ハイティーンとはいいながら曲がりなりにも人の子でありましたですゆえ,誰でも一度は通過するであろう悩み多き青少年というステージの最中にあってソレナリニ鬱々悶々とした日々を過ごしていたのでアリマス(たとえそれがヒメアカホシテントウChilocorus kuwanaeのごとき取るに足らぬ悩みであったにしろ)。その挙げ句の思い詰めた行動だったのだろう,と,今になってみればまるで他人事のようにボンヤリと思い返すのである。
その東北逃避行,もとい東北旅行は確か常磐線経由の急行夜行列車で出掛けたと記憶している。季節は やはり冬だった。夜行日帰りの山行などを別にすれば,私にとってそれは初めての遠方への一人旅,いささかの気負いもあり,多分は全身緊張につつまれた面持ちで上野発の夜行列車に乗り込んだという次第だ。さいわい普通車両のボックスシートは独占状態だったけれども,その堅い背もたれに最後まで馴れることができなくて一晩中碌々眠ることもできずに やがて夜明けを迎え,朝方の薄暗い霞のなかで列車が仙台市内に近づくと,車窓から望まれたのは初めて見る北国の大きな都市,そこには何やら黒い屋根ばかりの低い家並みが延々と続いている,まるで時代劇の書き割りを思わせる鬱屈とした風景が広がっていた。ああ,これが《みちのく》って土地なのか,と,我知らず不思議な感動を覚えたことであった。以来数十年,その決して短からぬ歳月のなかで東北地方を何度訪れたことだろう。あの町この村,あの山この川,北国のさまざまな風土,さまざまな人々,そしてさまざまな出会いと別れ,それらの数多くの経験は今現在のワタクシの全身全霊にどれほど染み付いていることだろうか。そしていかばかりか我が身に血肉化されたことであろうか。人の一生において,経験と時間との積算によるライフポイントの消費は個々の生命体を定義づけるためのスヴニールsouvenirを導く必須課程であって,やがてそれは次世代に託すシェーヌchaineとなり,さらに墓場まで持ってゆくエリタージュheritageともなるのであろう。とかなんとか小賢しい理屈をこねたところで,デモシカシ,しょせんオマエなんぞ賢治先生が申すところのSuperficial traveler!(上っ面だけの旅行者)に過ぎなかったでないか!と指摘されれば,そりゃまぁ返す言葉もないのだケレドモ。。。
昔話を持ち出すとグズグズ気分に一層拍車がかかるばかりなので大概にしておこう。今冬の話に戻る。で,その日の夕方に出掛けた仙台市郊外の住宅地についてであるが,そこは初めて訪れる場所だった。春がもう遠からずやって来るであろう時期とはいえ,三月初旬の北国の黄昏は芯からひんやりと底冷えがして,外界を包む環境空気はあくまで重く暗く,我が身を吹き過ぎる風は余所者を突き放つように峻厳かつ傲然な振る舞いを示し,そして踏みしめる地面はどこまでも堅固で冷徹であった。
現在,仙台市の市街地周辺地域には,隣接する名取市や富谷町なども含め,標高100~200m程度の緩やかな丘陵地を切り開いて大手デベロッパーによる新興住宅地が数多く形成されているようだ。それらの大規模開発はいつの頃から行われはじめたのだろうか。少なくとも半世紀前にはどこもかしこも野山ないしサトヤマであったように思うが,今わたくしの眼前に展開するそれら郊外住宅の風景は,それこそどこに出しても何恥じることのない立派な住宅街としての景観佇まいを呈している。街路は整然と構築され,それぞれの家並みは概して美しく,往来するクルマは国産大型車が目立ち,巨大石鹸箱もとい大型ワゴン車なんぞもムダに往来しているのである。恐らくはどの家々にも,豪華で洒落た造作のリビングルームには50インチを超える立派な液晶テレビジョンがデデーンと鎮座ましましていることだろう。そこでは目眩く電波の往来が,地上デジタルBSデジタル取り混ぜて昼夜をわかたず決して絶えることがない。そしてその街に暮らす子供らもまた,東京圏ベッドタウンの子供と何ら変わることがない身なり格好をし,その行動生態や価値観も都会の子らと同等であるに違いない。ゆいいつ,道ゆく老人たちだけが《みちのく》の雰囲気をかろうじて漂わせているといった風情を保ち,そして彼らの些細な表情や仕草は,その新しい街に言いしれぬ違和感を抱いていることを伺わせるのだ。
要するに今日の日本社会において,地方都市の旧市街から少しはずれたところに形成された新興住宅地というエリアの景観生態および社会構造は,たとえそれが大都市であれ中小都市であれ,あるいは北国であれ南国であれ,だいたいが全国画一的なのであって,その土地土地の本来有している歴史風土とは圧倒的に馴染まない,いわば大きな「住宅展示場」に人が常住しているようなモンである。そこでは風景が模式化され,風土がかき消され,歴史文化が断絶している。デベロッパーによる大規模宅地開発というものが,しょせんは資本主義経済原則にのっとった未開の土地の開拓,すなわちネイティブな大地の侵略の謂であることを考えれば,それはある意味当然のことなのである。なんて,今更しかつめらしく言うには及ばないか(イカンイカン,またぞろ紋切り型に落ち込んでいるゾ)。
昨年の大震災で津波による壊滅的な被害を受けた仙台市域の沿岸部一帯,とりわけ名取川下流の閖上地区あたりの昔ながらの海辺集落などは ずっと昔から調査等で何度も訪れており,とても好きな土地柄だった。それらの地域は震災から一年を経た現在でもまことに無惨な状態のままで,かつての暮らしや賑わいは跡形もなく,昔日の面影は失われてしまった。人その地に集い,そして,人その地を去りゆく。丘陵地域の大層立派な新興住宅地の有様と対比するにつけ,それはあまりに悲しい歴史的現実としての聚落遷移のありようである。
そんなことをブクツサ考えながら,私は小さなリュックを背負って郊外住宅地の舗道を歩いていたのだった。見知らぬ土地の夕暮れの寂しさがその足取りを否応なしに急がせる。のみならず,緩慢で頼りない歩行を自ら奮い立たせるように,歌を唄いながら,それもハッキリと声に出して唄いながら歩く。最近では臆面もなく声を発して唄いながら歩行することが少なくない。年を経るにつれ人は誰も厚顔無恥になるものである。私の場合,その時々に口をついで出る歌は,マルセル・ムルージだったりダニエル・ギシャールだったりジュリアン・クレールだったりミシェル・デルペッシュだったり,あるいは中島みゆきだったり尾崎亜美だったり小椋佳だったり生物係だったり,歩いている場所の風景によって,気象条件によって,歩行時の体調・気力によって,歩くテンポによって,さまざまなシチュエーションに依存する,それこそ千差万別の歌謡メドレーである。といって,もちろん嫌いな歌は唄いませんし,知らない歌は唄えませんが。
そのとき口ずさんでいたのは,セルジュ・ラマSerge Lamaの《ジュ・テーム・ア・ラ・フォリJe t'aime a la folie》だった。
♪ オスィト クロンシャントゥ セデジャ キルフェボー
トゥレモ コナンヴァントゥ オンレ ヴォロゾワゾー
てな感じで,多少なりとも落ち込んだ気分を高ぶらせるように空元気をだして歌いながら人気のない夕暮れの住宅街を歩いていた。たまにイヌを連れた散歩の老人などとすれちがったりするときには,いちおう遠慮して声を少しばかり落としたりはするけれども,それでも歌うことは止めない。やはり,厚顔無恥,礼儀知らずか? いや,そのことは世間を見る目が変わり世間に対峙する手法を転換させたが故の行為である,といったほうがむしろ適当だろう。その真っ暗な巨きなもの対して儚い抵抗を試みているのだ。ジジババのコンテスタシオン,ってヤツですか。 あれ? どっかで聞いたセリフだぞ?
歌のほうは,一番のルフランが終わり,調子に乗って二番へとなだれ込んでいった。私自身,この歌は二番の歌詞の方が好きなのである。ヤガテ消エユク我ガ身ナレバコソ。。。
♪ オスィト クロンレーヴ セデジャ コネドゥー
オスィト コナンクレーヴ セコンネ タムルー
♪ セデジャ クロンパンス アヴェク メランコリ
クススラ ビェント ビェント ビェント フィニ
そして,いささか淋しい気持ちを抱きながら,再びルフランへと入ってゆく。
♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ジュテマラフォリジュテマラフォリ,
ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラヴィ イイイ
♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ジュテマラフォリジュテマラフォリ,
ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラヴィ
とその時,どこからか女性の歌声が聞こえてきて,私の歌を追いかけるように覆い被さるようにきれいにハモってきたのだ。それは突然のことであったがゆえ,こちらも不意を突かれたように少々驚いた。 いったい誰だ? 周囲に気を巡らすと,どうやらその澄んだ歌声は舗道に面したある住宅の庭から聞こえてくる様子だった。私はその家の前で歩みを止め,それでも歌うことはやめずに,そのまま気持ちよく織り重ねられたハーモニーのなかに我が身をゆだねるに任せた。
♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラ~ ヴィ~~
そうやって心地よいルフランが幾度となく繰り返されて,やがてエンディングを迎えた。歌い終えたあと,あらためて周囲を見渡し,そしてやおら遠慮がちに垣根越しに伸びをして覗いてみると,あれま,樹木越しに若い女性と目があってしまった。それもガイジン。アングロサクソン系の顔立ちのスラリとした美しい女性であった。作業着を身にまとい,手には高枝切りバサミのような長い棒を持っている。おそらく庭の手入れでもしている途中だったのだろう。
こちらは年がいもなく一瞬ドギマギしたが,それでもやや照れ気味に Merci, madame! と声を掛けて挨拶した。すると彼女の方も C'est moi aussi, Merci beaucoup! と私に言葉を返し,少し首をかしげてニッコリ微笑むと,それから背を向けてスタスタと家の中へと戻っていったのだった。後に残されたのは寒々とした夕暮れの見知らぬ住宅街の舗道に立ちすく老人一名ばかりなりけり。ちなみに,その彼女の容姿は,少し前にYoutubeで視聴したセルジュ・ラマのケベックでのコンサートに出演していたバックコーラス三人組女性のうちの左側のショートカットの人によく似ていた。あるいは,若き日の輝いていた頃の,My Favorite Thingsを唄うジュリー・アンドリュースみたいな感じ,でもあったかなぁ(ああ,ナンジャラホイ)。
まぁ,そんな拙いエピソードを記しておきたかったわけであります。生きるという病気Mal de Vivreの一例,それもきわめて特殊な事例であるとは重々承知しております。それが春を迎えるに相応しい挿話かどうか,そんなこと知ったことではないわいな。蛇足までに申し添えれば,そのとき生じた心の動きを別の歌のイメージを借りて言い表すと,村下孝蔵の《いいなづけ》のルフラン,あんな感じだったろうか。愛という名のホロ苦い感情に浸る心地よさ。 はいはい,メソメソ老人でございますよ! いずれにしても所詮は《人生紙芝居》ってなモンで,邂逅と別離,誕生と消滅,二重螺旋。そうやって繰り言はどこまでも続いてゆく。。。
それにしても,こんな突然の出来事が我が身に降りかかるわけであるから,これでもまだジンセイってヤツは生きるに値するのだろうか。 ダロウカ?
グズグズとした前置きはこれくらいにして,標題にかかわる話に移らせていただく。それは少し前の冬に体験した一寸せつないエピソードである。
ある日の夕方,宮城県・仙台市郊外の静かな住宅街を歩いていた。仙台およびその周辺というエリアは,私にとって過去に幾度となく訪れている,まぁ比較的馴染み深く愛着のある土地である。初めてその地に足跡を印したのは今を去ること はや半世紀近くもの昔のことだ。そのことは以前にもどこかで記したように思うが,当時は大都会の場末でしがないオチコボレ高校生をやっており,そんな毎日のサエナイ生活のなかで,ある時なぜか突然思い立って《みちのくひとり旅》なんぞを挙行したのであった。そりゃ私とてヘソマガリ・ハイティーンとはいいながら曲がりなりにも人の子でありましたですゆえ,誰でも一度は通過するであろう悩み多き青少年というステージの最中にあってソレナリニ鬱々悶々とした日々を過ごしていたのでアリマス(たとえそれがヒメアカホシテントウChilocorus kuwanaeのごとき取るに足らぬ悩みであったにしろ)。その挙げ句の思い詰めた行動だったのだろう,と,今になってみればまるで他人事のようにボンヤリと思い返すのである。
その東北逃避行,もとい東北旅行は確か常磐線経由の急行夜行列車で出掛けたと記憶している。季節は やはり冬だった。夜行日帰りの山行などを別にすれば,私にとってそれは初めての遠方への一人旅,いささかの気負いもあり,多分は全身緊張につつまれた面持ちで上野発の夜行列車に乗り込んだという次第だ。さいわい普通車両のボックスシートは独占状態だったけれども,その堅い背もたれに最後まで馴れることができなくて一晩中碌々眠ることもできずに やがて夜明けを迎え,朝方の薄暗い霞のなかで列車が仙台市内に近づくと,車窓から望まれたのは初めて見る北国の大きな都市,そこには何やら黒い屋根ばかりの低い家並みが延々と続いている,まるで時代劇の書き割りを思わせる鬱屈とした風景が広がっていた。ああ,これが《みちのく》って土地なのか,と,我知らず不思議な感動を覚えたことであった。以来数十年,その決して短からぬ歳月のなかで東北地方を何度訪れたことだろう。あの町この村,あの山この川,北国のさまざまな風土,さまざまな人々,そしてさまざまな出会いと別れ,それらの数多くの経験は今現在のワタクシの全身全霊にどれほど染み付いていることだろうか。そしていかばかりか我が身に血肉化されたことであろうか。人の一生において,経験と時間との積算によるライフポイントの消費は個々の生命体を定義づけるためのスヴニールsouvenirを導く必須課程であって,やがてそれは次世代に託すシェーヌchaineとなり,さらに墓場まで持ってゆくエリタージュheritageともなるのであろう。とかなんとか小賢しい理屈をこねたところで,デモシカシ,しょせんオマエなんぞ賢治先生が申すところのSuperficial traveler!(上っ面だけの旅行者)に過ぎなかったでないか!と指摘されれば,そりゃまぁ返す言葉もないのだケレドモ。。。
昔話を持ち出すとグズグズ気分に一層拍車がかかるばかりなので大概にしておこう。今冬の話に戻る。で,その日の夕方に出掛けた仙台市郊外の住宅地についてであるが,そこは初めて訪れる場所だった。春がもう遠からずやって来るであろう時期とはいえ,三月初旬の北国の黄昏は芯からひんやりと底冷えがして,外界を包む環境空気はあくまで重く暗く,我が身を吹き過ぎる風は余所者を突き放つように峻厳かつ傲然な振る舞いを示し,そして踏みしめる地面はどこまでも堅固で冷徹であった。
現在,仙台市の市街地周辺地域には,隣接する名取市や富谷町なども含め,標高100~200m程度の緩やかな丘陵地を切り開いて大手デベロッパーによる新興住宅地が数多く形成されているようだ。それらの大規模開発はいつの頃から行われはじめたのだろうか。少なくとも半世紀前にはどこもかしこも野山ないしサトヤマであったように思うが,今わたくしの眼前に展開するそれら郊外住宅の風景は,それこそどこに出しても何恥じることのない立派な住宅街としての景観佇まいを呈している。街路は整然と構築され,それぞれの家並みは概して美しく,往来するクルマは国産大型車が目立ち,巨大石鹸箱もとい大型ワゴン車なんぞもムダに往来しているのである。恐らくはどの家々にも,豪華で洒落た造作のリビングルームには50インチを超える立派な液晶テレビジョンがデデーンと鎮座ましましていることだろう。そこでは目眩く電波の往来が,地上デジタルBSデジタル取り混ぜて昼夜をわかたず決して絶えることがない。そしてその街に暮らす子供らもまた,東京圏ベッドタウンの子供と何ら変わることがない身なり格好をし,その行動生態や価値観も都会の子らと同等であるに違いない。ゆいいつ,道ゆく老人たちだけが《みちのく》の雰囲気をかろうじて漂わせているといった風情を保ち,そして彼らの些細な表情や仕草は,その新しい街に言いしれぬ違和感を抱いていることを伺わせるのだ。
要するに今日の日本社会において,地方都市の旧市街から少しはずれたところに形成された新興住宅地というエリアの景観生態および社会構造は,たとえそれが大都市であれ中小都市であれ,あるいは北国であれ南国であれ,だいたいが全国画一的なのであって,その土地土地の本来有している歴史風土とは圧倒的に馴染まない,いわば大きな「住宅展示場」に人が常住しているようなモンである。そこでは風景が模式化され,風土がかき消され,歴史文化が断絶している。デベロッパーによる大規模宅地開発というものが,しょせんは資本主義経済原則にのっとった未開の土地の開拓,すなわちネイティブな大地の侵略の謂であることを考えれば,それはある意味当然のことなのである。なんて,今更しかつめらしく言うには及ばないか(イカンイカン,またぞろ紋切り型に落ち込んでいるゾ)。
昨年の大震災で津波による壊滅的な被害を受けた仙台市域の沿岸部一帯,とりわけ名取川下流の閖上地区あたりの昔ながらの海辺集落などは ずっと昔から調査等で何度も訪れており,とても好きな土地柄だった。それらの地域は震災から一年を経た現在でもまことに無惨な状態のままで,かつての暮らしや賑わいは跡形もなく,昔日の面影は失われてしまった。人その地に集い,そして,人その地を去りゆく。丘陵地域の大層立派な新興住宅地の有様と対比するにつけ,それはあまりに悲しい歴史的現実としての聚落遷移のありようである。
そんなことをブクツサ考えながら,私は小さなリュックを背負って郊外住宅地の舗道を歩いていたのだった。見知らぬ土地の夕暮れの寂しさがその足取りを否応なしに急がせる。のみならず,緩慢で頼りない歩行を自ら奮い立たせるように,歌を唄いながら,それもハッキリと声に出して唄いながら歩く。最近では臆面もなく声を発して唄いながら歩行することが少なくない。年を経るにつれ人は誰も厚顔無恥になるものである。私の場合,その時々に口をついで出る歌は,マルセル・ムルージだったりダニエル・ギシャールだったりジュリアン・クレールだったりミシェル・デルペッシュだったり,あるいは中島みゆきだったり尾崎亜美だったり小椋佳だったり生物係だったり,歩いている場所の風景によって,気象条件によって,歩行時の体調・気力によって,歩くテンポによって,さまざまなシチュエーションに依存する,それこそ千差万別の歌謡メドレーである。といって,もちろん嫌いな歌は唄いませんし,知らない歌は唄えませんが。
そのとき口ずさんでいたのは,セルジュ・ラマSerge Lamaの《ジュ・テーム・ア・ラ・フォリJe t'aime a la folie》だった。
♪ オスィト クロンシャントゥ セデジャ キルフェボー
トゥレモ コナンヴァントゥ オンレ ヴォロゾワゾー
てな感じで,多少なりとも落ち込んだ気分を高ぶらせるように空元気をだして歌いながら人気のない夕暮れの住宅街を歩いていた。たまにイヌを連れた散歩の老人などとすれちがったりするときには,いちおう遠慮して声を少しばかり落としたりはするけれども,それでも歌うことは止めない。やはり,厚顔無恥,礼儀知らずか? いや,そのことは世間を見る目が変わり世間に対峙する手法を転換させたが故の行為である,といったほうがむしろ適当だろう。その真っ暗な巨きなもの対して儚い抵抗を試みているのだ。ジジババのコンテスタシオン,ってヤツですか。 あれ? どっかで聞いたセリフだぞ?
歌のほうは,一番のルフランが終わり,調子に乗って二番へとなだれ込んでいった。私自身,この歌は二番の歌詞の方が好きなのである。ヤガテ消エユク我ガ身ナレバコソ。。。
♪ オスィト クロンレーヴ セデジャ コネドゥー
オスィト コナンクレーヴ セコンネ タムルー
♪ セデジャ クロンパンス アヴェク メランコリ
クススラ ビェント ビェント ビェント フィニ
そして,いささか淋しい気持ちを抱きながら,再びルフランへと入ってゆく。
♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ジュテマラフォリジュテマラフォリ,
ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラヴィ イイイ
♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ジュテマラフォリジュテマラフォリ,
ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラヴィ
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♪ ジュテマラフォリジュテマラフォリ,ラ~ ヴィ~~
そうやって心地よいルフランが幾度となく繰り返されて,やがてエンディングを迎えた。歌い終えたあと,あらためて周囲を見渡し,そしてやおら遠慮がちに垣根越しに伸びをして覗いてみると,あれま,樹木越しに若い女性と目があってしまった。それもガイジン。アングロサクソン系の顔立ちのスラリとした美しい女性であった。作業着を身にまとい,手には高枝切りバサミのような長い棒を持っている。おそらく庭の手入れでもしている途中だったのだろう。
こちらは年がいもなく一瞬ドギマギしたが,それでもやや照れ気味に Merci, madame! と声を掛けて挨拶した。すると彼女の方も C'est moi aussi, Merci beaucoup! と私に言葉を返し,少し首をかしげてニッコリ微笑むと,それから背を向けてスタスタと家の中へと戻っていったのだった。後に残されたのは寒々とした夕暮れの見知らぬ住宅街の舗道に立ちすく老人一名ばかりなりけり。ちなみに,その彼女の容姿は,少し前にYoutubeで視聴したセルジュ・ラマのケベックでのコンサートに出演していたバックコーラス三人組女性のうちの左側のショートカットの人によく似ていた。あるいは,若き日の輝いていた頃の,My Favorite Thingsを唄うジュリー・アンドリュースみたいな感じ,でもあったかなぁ(ああ,ナンジャラホイ)。
まぁ,そんな拙いエピソードを記しておきたかったわけであります。生きるという病気Mal de Vivreの一例,それもきわめて特殊な事例であるとは重々承知しております。それが春を迎えるに相応しい挿話かどうか,そんなこと知ったことではないわいな。蛇足までに申し添えれば,そのとき生じた心の動きを別の歌のイメージを借りて言い表すと,村下孝蔵の《いいなづけ》のルフラン,あんな感じだったろうか。愛という名のホロ苦い感情に浸る心地よさ。 はいはい,メソメソ老人でございますよ! いずれにしても所詮は《人生紙芝居》ってなモンで,邂逅と別離,誕生と消滅,二重螺旋。そうやって繰り言はどこまでも続いてゆく。。。
それにしても,こんな突然の出来事が我が身に降りかかるわけであるから,これでもまだジンセイってヤツは生きるに値するのだろうか。 ダロウカ?