私事ながら,本年度,ウチの二人の息子は高校と大学のダブル受験である。上の方は私立の美術大学を,下の方は公立の普通高校を希望している。いずれも第一志望は高きに設定しているがゆえ,併せて押さえ(滑り止め)の学校なども考えておかねばならない。近年における我が家庭内財政収支を鑑みるに,これはまことにキビシイ状況に直面しているのであるが,ま,ジンセイなんてヤツはなるようにしかならないのだし,金は天下の回りものなんだし(ホントか?),いよいよとなったら今夏でようやくローンも完済した現在の土地・家屋をエイヤッと売り払っちまえばいいんだし。。。
受験勉強そのものに関しては,父親としては基本的に何の口出しもできない。昨今の受験事情(制度,情報,技術,等)は全くのチンプンカンプンであるし,なまじ半世紀近く前の自らの受験体験を持ちだしたところで一笑に付されるのが落ちだ。それで,ある程度のまとまった時間がとれる日(ただし平日限定)に,受験予定の大学および高校の下見なんぞにノコノコ出掛けて各学校の施設,人材,周辺環境などを逐一視察し,家に戻ったあとでそれらの様子を子供らに伝えてあげるくらいがせめてものリア・サポート(後方支援)である。なおこの場合,出掛ける際の交通手段は当然自転車となります。先月,東京都下にある某美大に行ったときは往復で120kmを超えた。帰宅したのが夜も随分遅い時間になってしまい,かなりヘバりました。また,先週は高校の方で滑り止めの候補に挙げられている県内東部の某私立高校に出掛け,そのときの往復の距離は80km程だった。こちらは平地基調の快適な走行でありました。電車で行けばいいのに!などと一部から冷たい視線を受けたりもするが,なに,本人が好き好んで自転車に乗ってイソイソと出掛けているわけです。いちおう,自転車事故に係わる傷害保険はタップリ加入しているので(トータルで,死亡or第一級障害が1億円近い),イザというときはそれが役立つことでありましょう(即座に冗談と取られないところが一寸恐い,ケレドモ)。
ところで,大学のキャンパスの方はそうでもないが,高校の校舎や体育館,グランド,そしてそこに集う生徒たちの様子を真近でじっくり眺めていると,ずっとずっと遥かな昔に自分自身が同年齢のハイティーンであった頃のさまざまな出来事がまるで走馬燈のように,あるいは芝居の書き割りのようにとりとめもなく思い出されてきて,我知らず感無量の思いがフツフツと湧き出ずるのを止めることができない。それは必ずしも自分の通っていた高校のことばかりではなく,小・中学校時代の友人が進学した高校,あるいは部活や文化祭などで訪れた他校のことなど,私自身が多少とも関わりを持ち,いくばくかの思い入れを込めたことのある学校に対するあれやこれやのRMA(ランダムメモリアクセス=断片的記憶の消長)なのである。ヨロコビもカナシミも幾年月。そして今まさに眼前の風景全体からじんわりと感じられてくるのは,高等学校という一種独特な社会,地域におけるエア・ポケットのような閉鎖的共同体が醸し出す雰囲気,若くて青くて未熟で,快活で傍若無人で鬱屈として,けれどもどこか潔い生の営みといったものをいつだって感じさせる,いわば「若衆宿的な」と言ったらいいか「ハイティーン運命共同体的な」と申したらよろしいか,そのような集合体のリアルタイムな実存なのであって,それらが遠い過去の記憶と曖昧にシンクロしながら,傍から見ているこちらの心情をいや増しに息苦しくさせるのである。要するに 《Hier encore, j'avais vingt ans》 状態に陥ってしまうのであります (アー,ナサケナヤ)。
もちろん,時代と共に「高校生活」のありさまは変わってゆくだろう。特に制度上,構造上の進化ないし変貌は顕著であろう。けれども,そこに身を置く高校生自身の本体ないし本質というものは,真之や常規の例を引き合いに出すまでもなく,昔も今も何ら変わることがない。高校生は高校生,何てったって高校生!なのだ。 《On ne nait pas lyceen: on le devient!》 それは君ら方のジンセイの一過程,未熟から成熟への端境期に課せられた重要な試練の時なのであるからして。不易流行の追い風・向かい風に我が身を晒しつつ,一方ではまた,エリートだとかボンクラだとかオチコボレだとか言われながら彼らも彼らなりに大変な日々を過ごしているのだなぁ,などとその心情を思い遣りつつ,ここでもまた,ハァー,と溜息ひとつ吐いたりする老人なわけであります (アー,ヤルセナヤ)。
とかなんとか,性懲りもなくジジイの繰り言が続いてしまうが,それはそれ,今にも雨が降り出しそうな曇天の日の午後,校門を出て帰宅の途につく男女の高校生たちの後ろ姿を,道路反対側の路傍の片隅に佇んでボンヤリと眺めているひとりの老人がそこに居る,ということで御勘弁願いたく存じます(いえ,決してアヤシイ者ではございません!) ふと,尾崎亜美Ami Ozakiの歌などが思い浮かぶ。
Walkin' in the rain Walkin' in the rain
肩から 雨の匂いが 背中から 放課後の匂いがした
ロッカーのドアを閉める音 笑いさざめく声
みんな濡れながら 濡れながら どこへ行くんだろう
言葉より 正直な 後ろ姿がとけてゆく
Walkn' in the rain 時のままに...
あー,これもまたシミジミとした良い歌だなぁ。 この歌は亜美チャン流のシャイでメロウな 《さらば青春》 なのだろうけれど,いえワタクシとて思いはほぼ同じ。やがて社会の荒海へと船出してゆく若者たちに手向ける応援歌。後方支援の切なる願い。知らぬまに拳を握りしめながら,ついそんなことを感じてしまうのでありました。
みんな,ガンバルンダヨ! Growing together!
受験勉強そのものに関しては,父親としては基本的に何の口出しもできない。昨今の受験事情(制度,情報,技術,等)は全くのチンプンカンプンであるし,なまじ半世紀近く前の自らの受験体験を持ちだしたところで一笑に付されるのが落ちだ。それで,ある程度のまとまった時間がとれる日(ただし平日限定)に,受験予定の大学および高校の下見なんぞにノコノコ出掛けて各学校の施設,人材,周辺環境などを逐一視察し,家に戻ったあとでそれらの様子を子供らに伝えてあげるくらいがせめてものリア・サポート(後方支援)である。なおこの場合,出掛ける際の交通手段は当然自転車となります。先月,東京都下にある某美大に行ったときは往復で120kmを超えた。帰宅したのが夜も随分遅い時間になってしまい,かなりヘバりました。また,先週は高校の方で滑り止めの候補に挙げられている県内東部の某私立高校に出掛け,そのときの往復の距離は80km程だった。こちらは平地基調の快適な走行でありました。電車で行けばいいのに!などと一部から冷たい視線を受けたりもするが,なに,本人が好き好んで自転車に乗ってイソイソと出掛けているわけです。いちおう,自転車事故に係わる傷害保険はタップリ加入しているので(トータルで,死亡or第一級障害が1億円近い),イザというときはそれが役立つことでありましょう(即座に冗談と取られないところが一寸恐い,ケレドモ)。
ところで,大学のキャンパスの方はそうでもないが,高校の校舎や体育館,グランド,そしてそこに集う生徒たちの様子を真近でじっくり眺めていると,ずっとずっと遥かな昔に自分自身が同年齢のハイティーンであった頃のさまざまな出来事がまるで走馬燈のように,あるいは芝居の書き割りのようにとりとめもなく思い出されてきて,我知らず感無量の思いがフツフツと湧き出ずるのを止めることができない。それは必ずしも自分の通っていた高校のことばかりではなく,小・中学校時代の友人が進学した高校,あるいは部活や文化祭などで訪れた他校のことなど,私自身が多少とも関わりを持ち,いくばくかの思い入れを込めたことのある学校に対するあれやこれやのRMA(ランダムメモリアクセス=断片的記憶の消長)なのである。ヨロコビもカナシミも幾年月。そして今まさに眼前の風景全体からじんわりと感じられてくるのは,高等学校という一種独特な社会,地域におけるエア・ポケットのような閉鎖的共同体が醸し出す雰囲気,若くて青くて未熟で,快活で傍若無人で鬱屈として,けれどもどこか潔い生の営みといったものをいつだって感じさせる,いわば「若衆宿的な」と言ったらいいか「ハイティーン運命共同体的な」と申したらよろしいか,そのような集合体のリアルタイムな実存なのであって,それらが遠い過去の記憶と曖昧にシンクロしながら,傍から見ているこちらの心情をいや増しに息苦しくさせるのである。要するに 《Hier encore, j'avais vingt ans》 状態に陥ってしまうのであります (アー,ナサケナヤ)。
もちろん,時代と共に「高校生活」のありさまは変わってゆくだろう。特に制度上,構造上の進化ないし変貌は顕著であろう。けれども,そこに身を置く高校生自身の本体ないし本質というものは,真之や常規の例を引き合いに出すまでもなく,昔も今も何ら変わることがない。高校生は高校生,何てったって高校生!なのだ。 《On ne nait pas lyceen: on le devient!》 それは君ら方のジンセイの一過程,未熟から成熟への端境期に課せられた重要な試練の時なのであるからして。不易流行の追い風・向かい風に我が身を晒しつつ,一方ではまた,エリートだとかボンクラだとかオチコボレだとか言われながら彼らも彼らなりに大変な日々を過ごしているのだなぁ,などとその心情を思い遣りつつ,ここでもまた,ハァー,と溜息ひとつ吐いたりする老人なわけであります (アー,ヤルセナヤ)。
とかなんとか,性懲りもなくジジイの繰り言が続いてしまうが,それはそれ,今にも雨が降り出しそうな曇天の日の午後,校門を出て帰宅の途につく男女の高校生たちの後ろ姿を,道路反対側の路傍の片隅に佇んでボンヤリと眺めているひとりの老人がそこに居る,ということで御勘弁願いたく存じます(いえ,決してアヤシイ者ではございません!) ふと,尾崎亜美Ami Ozakiの歌などが思い浮かぶ。
Walkin' in the rain Walkin' in the rain
肩から 雨の匂いが 背中から 放課後の匂いがした
ロッカーのドアを閉める音 笑いさざめく声
みんな濡れながら 濡れながら どこへ行くんだろう
言葉より 正直な 後ろ姿がとけてゆく
Walkn' in the rain 時のままに...
あー,これもまたシミジミとした良い歌だなぁ。 この歌は亜美チャン流のシャイでメロウな 《さらば青春》 なのだろうけれど,いえワタクシとて思いはほぼ同じ。やがて社会の荒海へと船出してゆく若者たちに手向ける応援歌。後方支援の切なる願い。知らぬまに拳を握りしめながら,ついそんなことを感じてしまうのでありました。
みんな,ガンバルンダヨ! Growing together!