最近の青少年犯罪を巡る若干の感想など。諸般の事情により文章がやや泥酔気味である点はつとに御容赦願いたい。
十七歳,この言葉から連想されるのは,少し以前であれば大江健三郎かダリダか南沙織か,あるいは「今なら少年Aで済む」のチビ猫の御主人か,大方そんなところであっただろう。要するに,「切ない年頃」としての象徴的存在だ。一方,マスコミという名の一種邪悪な情報伝達機関においては,最近起きたいくつかの事件を契機として,その十七歳というイメージを妙に歪めた形で無理やり再定義した上で万人に提示せんとする。要するに,すこぶる押しつけがましい。
そりゃあ私とて,昨今世間を騒がせているハイティーンのバカタレ青少年たちのことを思うにつけて,我が力の遠く及ばぬこと極めて忸怩たるものがあり,彼らの社会的位置付け,存在理由の意味付けにおいては日々密かに心痛めているところではあります。社会的悪業に対する単純な憎しみとそこから発生する正当なる弾劾,反社会的行為に関する社会病理学的考察,そのような客観的態度は自らの不甲斐なさに対する弁明でしかないことは重々承知である。とは申しても,例えばカルチャー分野では山藤章二,サブカルチャー業界では天野祐吉,エコノ・ソシオ方面ではジョージ・フィールズといった,いかにも訳知り風のクチを聞く方々の御託に自らの判断を委ねるような,そこまでダラクしているつもりは毛頭ない。
さて当のバカタレ青少年たち,当然のことながら「彼は昔の我ならず」なのであって,少なくとも高度経済成長期以降の約30年の間に,世の中の「しくみ」やら「暮らし向き」やらは劇的なまでに変貌してしまった。そのような激動の時代のただなかに誕生した現在の彼ないし彼女らは,かつて私たちが汗水たらして作り上げてきた社会経済,文明文化,風俗風習のもとに生まれ育ってきたわけであり,それはとりもなおさず私たちの蒔いた種,育てた苗,年々歳々収穫する作物,未来に向けて蓄えゆく資産,すなわち四方遙かに稲穂の稔るこの秋津島大和の国に住まう私たちの世代ひとりひとりの自己責任に帰趨する問題なのだ。『星の王子さま』に登場する性悪な薔薇に対峙するがごとく「めんどうみた相手には責任がある」わけでありまして。(なーに言ってんだか)
ただ現実的には,幸か不幸か私自身には17才の子供もいなければ身近に17才の知り合いも存在しない。ウチのサワガニ兄弟はと申せば未だ8才と5才に過ぎず,応分の成長にはあと10年余もの歳月を必要としている。西暦2010年,この世界はどのような地点にまで到達しているのだろうか。そしてその時,私ども家族は果たして子供らにどのような正統的文化の継承,正しかるべき遺伝子の伝達をば成し遂げているのだろうか。いささか心許ないけれども,かといって決して目を背けることのできぬ重要課題である。
というわけで論旨不明瞭のまま話は変わって,以下,若干の回想モードに移る。
私事になるが,はじめて東北地方を旅したのは17才の冬のことだ。当時,売れっ子作詞家だったなかにし礼 Nakanishi Reiが,自らの二十歳の頃の屈折した日々,無頼と放埒,そして東北地方への逃避の旅などをやや抑えた調子で語っているのをどこかのエッセイか何かで読んで,そのような真摯な,というか自分自身に真っ正直な生き方に多少なりとも心情的に共感したのか知らん。その若き先達の足跡をなぞるようにして,あるいは内なる何者かに背中を押されるようにして,私もまた北国の知らない町々を伝書鳩のように訪れた。ある日は八戸市郊外の海蝕台地の崖端に沿った寒々とした漁村を,海から吹き上げる地吹雪に身体を前屈みにして足早に通り抜けたり(別に座頭市ではなかったけれど),また別の日は青森駅近くの『ラベル』という名の名曲喫茶を探しあて,恐る恐る店内に入るやムズカシイ顔して何時間もクラシック音楽に聴き入っていたり(無論クラシックなんて聴く柄ではなかったけれど),そんなオママゴトのような非日常的空間に自らを一時的,強制的に追い込んでいった次第だ。多分はそのような無為を積み重ねることによって,行く手の彼方から聞こえてくるかも知れぬ声に耳を傾けること,そしてその声のなかから未来に託すべき一縷の希望(もしそんなものがあるとして)を見出さんとしていたのかも知れない。
ただし,オチコボレ高校生ではあっても,あいにく「不良少年」ないし「浮浪少年」にはとてもなれそうになく,加えて季節は厳冬期のため駅の待合室で夜を明かすのも少々辛い状況にあったことから,その旅行にあっては手堅くユース・ホステルを宿とすることに決めた(女々しい妥協と申すなかれ)。青森市内では合浦公園近くに「うとうユースホステル」というのがあり(既に潰れちまったらしく,今ではもう存在しないようだ),駅から大通りを東に向かって真っ直ぐに歩いていったのだが,冬の夕暮れ,慣れない雪道を転ばぬようにソロリソロリとゆっくり進むため,かなりの時間がかかったことを記憶している。中古のダッフルコートにヨレヨレのリュックを背負い,足元はキャラバン・シューズで固め,厳寒の道をソロリソロリと突き進む,それは温帯育ちの脆弱な17才の身にとっては切ないまでに辛い行軍であった。夕闇の遙か南方には風雪に煙った八甲田連峰が屹立として聳えているものと思われ,一方,北に目を転じれば,怒濤渦巻き凍てつくような津軽海峡冬景色が展開しているはずであった。人が生きていく上で極めて過酷な土地,妥協を許さない困難な風土がこの国には存在することを改めて肌で実感した。しかしそれは同時に,一人前の立場で自然と対決することを許されたような,何というかワクワクするような体験でもあった(ヲイヲイ,たかだか街中の舗道を歩くだけだというに!)
付言しておけば,その頃の自分は大宰治の愛読者などでは決してなかったと思う(「晩年」くらいは読んでいたかな)。寺山修司などはかろうじて名前を知っている程度であった。しかし,東北,青森という土地の持つ雰囲気というか存在感は,自分の感性ないし心情に極めて近しいと直感的に感じたのは確かである。今になって思えば,それは私自身のキャラクタにではなく,大都会の場末で生まれ育ち17才まで何とかヌクヌクと成長してきたヒネクレモノの自分に近しい,という意味であった。しょせん我々は「大地の子」である以前に「時代の子」であるのだからして。以後「東北地方」は私にとって格別の存在となった。
もうひとつだけ,エピソードを記しておく。
同じ旅行の途中で岩手県花巻市を訪れた。花巻と言えば,これはもう賢治の足跡を辿るしかない(こちらの方は年少時からの熱心な読者であった)。イギリス海岸にゆき,下根子桜の羅須地人協会跡にゆき,旧花巻農学校にゆき,町中をところかまわずウロウロ歩き回り,それだけでもう万感胸に迫るものがあった。確か井上ひさしが若い頃に花巻を訪れた際,偶然に「下根子桜」に辿り着いて,思わず感あまって《風景は涙にゆすれ》てしまったというような想い出を文章にしていた。そこには少なからず脚色が含まれているのだろうが,いや何,私とて時代は多少異なるものの基本的には似たような体験の共有者である。
花巻での宿は,鉛温泉の近くの「花巻ユースホステル」にした。当時はまだ花巻電鉄が走っていた。非常に車幅の狭いチビスケ電車で,ロングベンチシートに座ると向かいの席の人とほとんど膝をつきあわせるような格好になってしまう。雪がしんしんと降りしきる中をそのレトロな電車がゴトンゴトンとゆっくりと走ってゆくさまは,ほとんど賢治童話の世界であった。
ユースホステルのペアレントはまだ若い,愛想のいいお父さんで,小学1年生くらいの可愛らしい娘がいた。「町に行きたい。新しい消しゴムを買いたい」などといってグズッている娘を,いかにも困ったような顔をしながら優しくたしなめていたその父親の表情を,今でもはっきりと思い出す。30数年を経た現在,父娘ともども今なお元気で暮らしているのだろうか。
私は「なめとこ山って何処にあるですか?」などとトンチンカンなことを聞いた。するとペアレントのお父さんは,「あ,賢治だべ? あれは,よぐわがんないけっど,このあだりの奥の方の,どっかの山のこどを指すんでないかなぁ?」とか何とか,間延びした調子で懇切丁寧に答えてくれたような記憶がある。つい今しがた出会ったばかりの余所者とのそんな訥々とした会話,それは少々オーバーな言い方をすれば自分にとっての一種「巣立ち」とでも言うべき交流であり,生まれ育った土地から遠く離れた見知らぬ場所に今現在自らが存在することの不思議さ,ひいては自分にとっての世界(=人生)の意味を改めて問いただす旅であることが痛切に思い知らされた。そして,ここがカンジンなところであるが,そのようなセンチメンタル・ジャーニーにより私の17才はある意味で「救われた」ような気がするのだ。ま,単純といえば全く単純なことだ。要するに,青少年は家の中に閉じこもっていては断じてイケナイ。どのような方向,どのような形式でもよい。自分一人を社会のただ中に,それも親兄弟や友人知人の庇護の元から出来るだけ遠くはなれた場所に放り出すこと。塵芥のような,大河の一滴のような自らの存在を認識すること。人生のスタートラインはその先にある。
おっと,最後まで論旨が曖昧のまま終わってしまいそうだ。ま,たまにはクダを巻くのも御愛敬デハナイカ(え,何時もだろうって?) 最後に私は,今まさに十七才を生きている見知らぬ青少年たちにカルトーラ Cartolaの《人生は風車》というサンバを捧げたい。その抑えた唄声は,慈父のような野の師父のような穏やかな語りかけで,切ないまでに優しく暖かく,励まし慰めるように人生の「宿命」を語る。確かに君ら方の生きる時代は心底やり切れないほどの閉塞状態にあるのだろう。けれど十七才の精神にとって,そのような状態はいつの時代にもごくアタリマエの,当然有り得べき現実でもあったのだ。大津皇子の時代にも,右大臣実朝の時代にも,牧文四郎の時代にも,あるいはフランソワ・ヴィヨンの時代にも,イジドール・デュカスの時代にも,ヴィクトル・ハラの時代にも。どうも上手く言えないけれど,世界とはそんなものなのだ(多分ね)。
さあ,そうと決まったらコドモタチよ,「犯罪」なんぞ悠長に計画しているヒマはない。さっさと荷物をまとめて旅に出なさい! 後のことは,とりあえず年寄りが引き受けるからネ。
まだ早いのに,恋人よ
君はよくない時に 人生を知りはじめてしまった
君はもう自分の出発の時を告げている
どの方角をめざすのかも
知らないままに
気をつけるんだ,愛しい人よ
君が心を決めたことは知っているけれど
君の曲がる街角のひとつひとつに
人生が少しずつ落ちてゆき
そして やがて時がたてば
君は今のままではなくなるのだ
僕の言うことをよくお聞き,恋人よ
気をつけるんだ,世界は風車のようなもの
君のささやかな夢を吹きとばし
空想を粉々にしてしまう
気をつけるんだ,愛しい人よ
死人のひとりひとりから
君は冷笑だけをゆずりうける
自分が絶望の淵にいることに気づいた時
自らの足で掘った絶望の淵に
十七歳,この言葉から連想されるのは,少し以前であれば大江健三郎かダリダか南沙織か,あるいは「今なら少年Aで済む」のチビ猫の御主人か,大方そんなところであっただろう。要するに,「切ない年頃」としての象徴的存在だ。一方,マスコミという名の一種邪悪な情報伝達機関においては,最近起きたいくつかの事件を契機として,その十七歳というイメージを妙に歪めた形で無理やり再定義した上で万人に提示せんとする。要するに,すこぶる押しつけがましい。
そりゃあ私とて,昨今世間を騒がせているハイティーンのバカタレ青少年たちのことを思うにつけて,我が力の遠く及ばぬこと極めて忸怩たるものがあり,彼らの社会的位置付け,存在理由の意味付けにおいては日々密かに心痛めているところではあります。社会的悪業に対する単純な憎しみとそこから発生する正当なる弾劾,反社会的行為に関する社会病理学的考察,そのような客観的態度は自らの不甲斐なさに対する弁明でしかないことは重々承知である。とは申しても,例えばカルチャー分野では山藤章二,サブカルチャー業界では天野祐吉,エコノ・ソシオ方面ではジョージ・フィールズといった,いかにも訳知り風のクチを聞く方々の御託に自らの判断を委ねるような,そこまでダラクしているつもりは毛頭ない。
さて当のバカタレ青少年たち,当然のことながら「彼は昔の我ならず」なのであって,少なくとも高度経済成長期以降の約30年の間に,世の中の「しくみ」やら「暮らし向き」やらは劇的なまでに変貌してしまった。そのような激動の時代のただなかに誕生した現在の彼ないし彼女らは,かつて私たちが汗水たらして作り上げてきた社会経済,文明文化,風俗風習のもとに生まれ育ってきたわけであり,それはとりもなおさず私たちの蒔いた種,育てた苗,年々歳々収穫する作物,未来に向けて蓄えゆく資産,すなわち四方遙かに稲穂の稔るこの秋津島大和の国に住まう私たちの世代ひとりひとりの自己責任に帰趨する問題なのだ。『星の王子さま』に登場する性悪な薔薇に対峙するがごとく「めんどうみた相手には責任がある」わけでありまして。(なーに言ってんだか)
ただ現実的には,幸か不幸か私自身には17才の子供もいなければ身近に17才の知り合いも存在しない。ウチのサワガニ兄弟はと申せば未だ8才と5才に過ぎず,応分の成長にはあと10年余もの歳月を必要としている。西暦2010年,この世界はどのような地点にまで到達しているのだろうか。そしてその時,私ども家族は果たして子供らにどのような正統的文化の継承,正しかるべき遺伝子の伝達をば成し遂げているのだろうか。いささか心許ないけれども,かといって決して目を背けることのできぬ重要課題である。
というわけで論旨不明瞭のまま話は変わって,以下,若干の回想モードに移る。
私事になるが,はじめて東北地方を旅したのは17才の冬のことだ。当時,売れっ子作詞家だったなかにし礼 Nakanishi Reiが,自らの二十歳の頃の屈折した日々,無頼と放埒,そして東北地方への逃避の旅などをやや抑えた調子で語っているのをどこかのエッセイか何かで読んで,そのような真摯な,というか自分自身に真っ正直な生き方に多少なりとも心情的に共感したのか知らん。その若き先達の足跡をなぞるようにして,あるいは内なる何者かに背中を押されるようにして,私もまた北国の知らない町々を伝書鳩のように訪れた。ある日は八戸市郊外の海蝕台地の崖端に沿った寒々とした漁村を,海から吹き上げる地吹雪に身体を前屈みにして足早に通り抜けたり(別に座頭市ではなかったけれど),また別の日は青森駅近くの『ラベル』という名の名曲喫茶を探しあて,恐る恐る店内に入るやムズカシイ顔して何時間もクラシック音楽に聴き入っていたり(無論クラシックなんて聴く柄ではなかったけれど),そんなオママゴトのような非日常的空間に自らを一時的,強制的に追い込んでいった次第だ。多分はそのような無為を積み重ねることによって,行く手の彼方から聞こえてくるかも知れぬ声に耳を傾けること,そしてその声のなかから未来に託すべき一縷の希望(もしそんなものがあるとして)を見出さんとしていたのかも知れない。
ただし,オチコボレ高校生ではあっても,あいにく「不良少年」ないし「浮浪少年」にはとてもなれそうになく,加えて季節は厳冬期のため駅の待合室で夜を明かすのも少々辛い状況にあったことから,その旅行にあっては手堅くユース・ホステルを宿とすることに決めた(女々しい妥協と申すなかれ)。青森市内では合浦公園近くに「うとうユースホステル」というのがあり(既に潰れちまったらしく,今ではもう存在しないようだ),駅から大通りを東に向かって真っ直ぐに歩いていったのだが,冬の夕暮れ,慣れない雪道を転ばぬようにソロリソロリとゆっくり進むため,かなりの時間がかかったことを記憶している。中古のダッフルコートにヨレヨレのリュックを背負い,足元はキャラバン・シューズで固め,厳寒の道をソロリソロリと突き進む,それは温帯育ちの脆弱な17才の身にとっては切ないまでに辛い行軍であった。夕闇の遙か南方には風雪に煙った八甲田連峰が屹立として聳えているものと思われ,一方,北に目を転じれば,怒濤渦巻き凍てつくような津軽海峡冬景色が展開しているはずであった。人が生きていく上で極めて過酷な土地,妥協を許さない困難な風土がこの国には存在することを改めて肌で実感した。しかしそれは同時に,一人前の立場で自然と対決することを許されたような,何というかワクワクするような体験でもあった(ヲイヲイ,たかだか街中の舗道を歩くだけだというに!)
付言しておけば,その頃の自分は大宰治の愛読者などでは決してなかったと思う(「晩年」くらいは読んでいたかな)。寺山修司などはかろうじて名前を知っている程度であった。しかし,東北,青森という土地の持つ雰囲気というか存在感は,自分の感性ないし心情に極めて近しいと直感的に感じたのは確かである。今になって思えば,それは私自身のキャラクタにではなく,大都会の場末で生まれ育ち17才まで何とかヌクヌクと成長してきたヒネクレモノの自分に近しい,という意味であった。しょせん我々は「大地の子」である以前に「時代の子」であるのだからして。以後「東北地方」は私にとって格別の存在となった。
もうひとつだけ,エピソードを記しておく。
同じ旅行の途中で岩手県花巻市を訪れた。花巻と言えば,これはもう賢治の足跡を辿るしかない(こちらの方は年少時からの熱心な読者であった)。イギリス海岸にゆき,下根子桜の羅須地人協会跡にゆき,旧花巻農学校にゆき,町中をところかまわずウロウロ歩き回り,それだけでもう万感胸に迫るものがあった。確か井上ひさしが若い頃に花巻を訪れた際,偶然に「下根子桜」に辿り着いて,思わず感あまって《風景は涙にゆすれ》てしまったというような想い出を文章にしていた。そこには少なからず脚色が含まれているのだろうが,いや何,私とて時代は多少異なるものの基本的には似たような体験の共有者である。
花巻での宿は,鉛温泉の近くの「花巻ユースホステル」にした。当時はまだ花巻電鉄が走っていた。非常に車幅の狭いチビスケ電車で,ロングベンチシートに座ると向かいの席の人とほとんど膝をつきあわせるような格好になってしまう。雪がしんしんと降りしきる中をそのレトロな電車がゴトンゴトンとゆっくりと走ってゆくさまは,ほとんど賢治童話の世界であった。
ユースホステルのペアレントはまだ若い,愛想のいいお父さんで,小学1年生くらいの可愛らしい娘がいた。「町に行きたい。新しい消しゴムを買いたい」などといってグズッている娘を,いかにも困ったような顔をしながら優しくたしなめていたその父親の表情を,今でもはっきりと思い出す。30数年を経た現在,父娘ともども今なお元気で暮らしているのだろうか。
私は「なめとこ山って何処にあるですか?」などとトンチンカンなことを聞いた。するとペアレントのお父さんは,「あ,賢治だべ? あれは,よぐわがんないけっど,このあだりの奥の方の,どっかの山のこどを指すんでないかなぁ?」とか何とか,間延びした調子で懇切丁寧に答えてくれたような記憶がある。つい今しがた出会ったばかりの余所者とのそんな訥々とした会話,それは少々オーバーな言い方をすれば自分にとっての一種「巣立ち」とでも言うべき交流であり,生まれ育った土地から遠く離れた見知らぬ場所に今現在自らが存在することの不思議さ,ひいては自分にとっての世界(=人生)の意味を改めて問いただす旅であることが痛切に思い知らされた。そして,ここがカンジンなところであるが,そのようなセンチメンタル・ジャーニーにより私の17才はある意味で「救われた」ような気がするのだ。ま,単純といえば全く単純なことだ。要するに,青少年は家の中に閉じこもっていては断じてイケナイ。どのような方向,どのような形式でもよい。自分一人を社会のただ中に,それも親兄弟や友人知人の庇護の元から出来るだけ遠くはなれた場所に放り出すこと。塵芥のような,大河の一滴のような自らの存在を認識すること。人生のスタートラインはその先にある。
おっと,最後まで論旨が曖昧のまま終わってしまいそうだ。ま,たまにはクダを巻くのも御愛敬デハナイカ(え,何時もだろうって?) 最後に私は,今まさに十七才を生きている見知らぬ青少年たちにカルトーラ Cartolaの《人生は風車》というサンバを捧げたい。その抑えた唄声は,慈父のような野の師父のような穏やかな語りかけで,切ないまでに優しく暖かく,励まし慰めるように人生の「宿命」を語る。確かに君ら方の生きる時代は心底やり切れないほどの閉塞状態にあるのだろう。けれど十七才の精神にとって,そのような状態はいつの時代にもごくアタリマエの,当然有り得べき現実でもあったのだ。大津皇子の時代にも,右大臣実朝の時代にも,牧文四郎の時代にも,あるいはフランソワ・ヴィヨンの時代にも,イジドール・デュカスの時代にも,ヴィクトル・ハラの時代にも。どうも上手く言えないけれど,世界とはそんなものなのだ(多分ね)。
さあ,そうと決まったらコドモタチよ,「犯罪」なんぞ悠長に計画しているヒマはない。さっさと荷物をまとめて旅に出なさい! 後のことは,とりあえず年寄りが引き受けるからネ。
まだ早いのに,恋人よ
君はよくない時に 人生を知りはじめてしまった
君はもう自分の出発の時を告げている
どの方角をめざすのかも
知らないままに
気をつけるんだ,愛しい人よ
君が心を決めたことは知っているけれど
君の曲がる街角のひとつひとつに
人生が少しずつ落ちてゆき
そして やがて時がたてば
君は今のままではなくなるのだ
僕の言うことをよくお聞き,恋人よ
気をつけるんだ,世界は風車のようなもの
君のささやかな夢を吹きとばし
空想を粉々にしてしまう
気をつけるんだ,愛しい人よ
死人のひとりひとりから
君は冷笑だけをゆずりうける
自分が絶望の淵にいることに気づいた時
自らの足で掘った絶望の淵に