マウンテン・エキップメント社製のダウン・ジャケットを購入した時代から遡ること約5年,1970年代の前半に横浜・曙町の「のぼる靴店」でオーダーメイドのチロリアン・シューズを購入した。これも暫く以前から欲しくて欲しくて,やはりある時突然エイヤッ!と気合いを入れて買ってしまったクチである。価格は確か2万8千円だったかな。これまたベラボウな分不相応の買い物であった。
当時下宿していた横浜・屏風ヶ浦の下宿(三畳一間,トイレ・流し共同)の家賃が月3,200円だった(すなわち家賃9ヶ月分に相当する趣味的出費である)。もっとも,三畳一間のアパート暮らしであったからといって決して貧乏苦学生の境遇をかこっていたわけではなく,当時としてはごくごく人並みの大学生としてのポジションを保持していたように思う。何しろ学食のランチが75円ポッキリの時代だ(すなわち昼食約370回分に相当する道楽的出費である)。
そのような大金をどうやって工面したかと申せば,これはもうアルバイト以外に活路はないわけで,本来基本的には慎ましかるべき学生生活を支えるための必須科目として種々雑多なアルバイトを節操もなく臆面もなくコツコツとコンスタントに行っていた次第だが,それらのなかで,下宿の大家さんに紹介された近所の小学生相手の家庭教師が最も主要な現金収入源であった。やや自閉症気味の小学6年生の男の子で,家にいる時間の大部分は船とか飛行機とか電車とかのプラモデル製作に熱中しており,学校の勉強にはほとんど関心を示さなかった。ただし,当方にとって有難いことにそのお宅の御両親が大変デキた方々で,学力・成績の向上よりもむしろ日々の勉強の親身な相談相手になってくれれば良いという基本方針のもとに私を雇用された。で,当方ももっぱら北海道や東北や北陸など,彼にとっては遠い北国の見知らぬ世界,テラ・アンコグニタの地形・地質やら景観やら風俗習慣やら,あるいはローカル鉄道のこと連絡船のことヒッチハイクのことなどを自らの乏しい体験を踏まえながら面白おかしく話して聞かせた。いわゆる「社会科関係」ばかり教えていたわけで,まるで週2回の教育実習シミュレーションのごときであった。今にして思えば,その少年を閉ざされた世界から多少なりとも解き放ってあげようなどという御為倒しがなかったとはいえなくもないが,結果として一応それなりに喜んでもらえたと思う。そのような「師弟関係」は約半年間ほど続いた。以後,彼とは現在に至るまで全く音信不通である。30年近くを経た今日,さて彼はどのような人生を送っているのだろうか?
話を戻して,そういった数々の苦労の末に蓄えられた生活費のかなりの部分を一気に切り崩して購入したチロリアン・シューズであるが,さすがにオーダー品だけあって寸分なく我が足にピッタリとフィットし,一歩一歩の歩行においても充分な質感をもって地面を捉える着実なレスポンスが得られた。まさに身体と大地との一体化,人地融合を生まれて初めて体感するような補助道具であることが理解され,決して無駄な買い物ではなかったと満足した。
ただし,普段そこらを歩くための靴としては正直なところかなりヘビーデューティーであり,特にその重量に慣れるのには少々時間がかかった。それでも,そのような欠点など少しも厭わなかったのは,やはり時代の主流が「豊かさ」にシフトしつつあったこと,それに伴いコバヤシ・ヤスヒコ的世界が徐々に市民権を得てきたことの反映であったと思う。あるいは,階級のなしくずし的崩壊,とでもいうべきか。とにかく毎日が嬉しかったですね。気分はまるで「ガレリアンのスキップ」といった風でありました。
以来,その靴をもっぱら日常のタウン・シューズとして西へ東へ南へ北へ,毎日毎日履き続けた。一応は地理学科などに所属していたこともあり,都心を歩き場末を歩き郊外を歩き地方都市を歩き街道沿いの町や村を歩き野山を歩き,とにかく半径数10kmだかの自らの生活圏小世界を丹念に歩くことにかけては人後に落ちないというささやかな自負すらあった。いわゆるエクスカーション(巡検)ってヤツである。とりわけ好んで歩いたのは,横浜市東部一帯に広がる下末吉台地,多摩丘陵から三浦半島へと連なる第三紀丘陵,さらには相模野の台地ならびに沖積低地など,関東平野南部の多摩川と相模川に挟まれた地域のデコボコ大地である。今ではもう手元にないが,その頃は国土地理院の2万5千分の1地形図に自らの足跡を赤線で辿り,それら何枚もの地形図が徐々に赤線でグチャグチャになってゆくことが無性に嬉しかった。今の御時世なら,意味ないじゃん!とか即言されそうであるが,いやいや,当時は若年層におけるそのような行動様式は決して特異でも稀少でも変態でもなかったと思う(多分ね)。
約3年後にかなり擦り切れたビブラム・ソールの張り替えをして,さらに数年にわたって飽きることなく履き続けた。やがて,地形図を無闇矢鱈トレースすることを誇る愚行を止めるようになっても,周辺世界をシコシコと歩き回る習性自体は決して止まらなかった。
しかしながら蜜月の崩壊はあっけなく訪れる。あるとき,何かのきっかけでダンロップのテニスシューズを履いて暫く歩いたら,その軽いこと軽いこと,大地を軽やかに蹴る際の得も言われぬ快感にビックリした。今でいうところの「ゼルダのホバー・ブーツ」のような感覚である。そのすぐ後で再び馴染みのチロリアン・シューズを履いてみると,何と自分は今まで天狗の鉄下駄のごとき「重し」を足に括り付けていたことよ!と改めて愕然とした。それを境として,徐々にそのチロリアン・シューズとは疎遠になってゆき,やがて1980年代の終わり,横浜の街を離れる時にキッパリと処分してしまった。約15年の寿命であった。最後の数年間はほとんどワックス手入れもせずに仕舞われたままで,捨てるときは埃まみれのヨレヨレボロボロに朽ち果てており,かつて共に過ごした栄光の日々の証は見る影もない有様だった。
そうして今,いささか取って付けたようではあるが,ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassensの《エレーヌの木靴》なんて歌を思い浮かべながら,かつて愛したモノを捨てる悲しみ,自分が不甲斐ないばっかりに最後まで責任を持って守ってやることが出来なかったモノに対して少なからず哀惜と悔恨の情を覚える。さよう,凡人はモノに凝滞せり,という淋しい結論である(そうでしょ?スタパ・オジサン!)
エレーヌの木靴は泥だらけだった
三人の兵隊は彼女を百姓女と呼んだ
哀れなエレーヌは まるで「悩める魂」みたいだった
もう君は これ以上井戸を探さなくてもいい
もし水が欲しいのなら 彼女の涙で君のバケツを満たせばいい
ぼくは苦労してエレーヌの木靴を脱がせた
ぼくは兵隊じゃないけど 苦労はむくわれた
哀れなエレーヌの木靴のなかに その泥だらけの木靴のなかに
ぼくは女王の足をみつけた
そしてぼくはそれを守った
当時下宿していた横浜・屏風ヶ浦の下宿(三畳一間,トイレ・流し共同)の家賃が月3,200円だった(すなわち家賃9ヶ月分に相当する趣味的出費である)。もっとも,三畳一間のアパート暮らしであったからといって決して貧乏苦学生の境遇をかこっていたわけではなく,当時としてはごくごく人並みの大学生としてのポジションを保持していたように思う。何しろ学食のランチが75円ポッキリの時代だ(すなわち昼食約370回分に相当する道楽的出費である)。
そのような大金をどうやって工面したかと申せば,これはもうアルバイト以外に活路はないわけで,本来基本的には慎ましかるべき学生生活を支えるための必須科目として種々雑多なアルバイトを節操もなく臆面もなくコツコツとコンスタントに行っていた次第だが,それらのなかで,下宿の大家さんに紹介された近所の小学生相手の家庭教師が最も主要な現金収入源であった。やや自閉症気味の小学6年生の男の子で,家にいる時間の大部分は船とか飛行機とか電車とかのプラモデル製作に熱中しており,学校の勉強にはほとんど関心を示さなかった。ただし,当方にとって有難いことにそのお宅の御両親が大変デキた方々で,学力・成績の向上よりもむしろ日々の勉強の親身な相談相手になってくれれば良いという基本方針のもとに私を雇用された。で,当方ももっぱら北海道や東北や北陸など,彼にとっては遠い北国の見知らぬ世界,テラ・アンコグニタの地形・地質やら景観やら風俗習慣やら,あるいはローカル鉄道のこと連絡船のことヒッチハイクのことなどを自らの乏しい体験を踏まえながら面白おかしく話して聞かせた。いわゆる「社会科関係」ばかり教えていたわけで,まるで週2回の教育実習シミュレーションのごときであった。今にして思えば,その少年を閉ざされた世界から多少なりとも解き放ってあげようなどという御為倒しがなかったとはいえなくもないが,結果として一応それなりに喜んでもらえたと思う。そのような「師弟関係」は約半年間ほど続いた。以後,彼とは現在に至るまで全く音信不通である。30年近くを経た今日,さて彼はどのような人生を送っているのだろうか?
話を戻して,そういった数々の苦労の末に蓄えられた生活費のかなりの部分を一気に切り崩して購入したチロリアン・シューズであるが,さすがにオーダー品だけあって寸分なく我が足にピッタリとフィットし,一歩一歩の歩行においても充分な質感をもって地面を捉える着実なレスポンスが得られた。まさに身体と大地との一体化,人地融合を生まれて初めて体感するような補助道具であることが理解され,決して無駄な買い物ではなかったと満足した。
ただし,普段そこらを歩くための靴としては正直なところかなりヘビーデューティーであり,特にその重量に慣れるのには少々時間がかかった。それでも,そのような欠点など少しも厭わなかったのは,やはり時代の主流が「豊かさ」にシフトしつつあったこと,それに伴いコバヤシ・ヤスヒコ的世界が徐々に市民権を得てきたことの反映であったと思う。あるいは,階級のなしくずし的崩壊,とでもいうべきか。とにかく毎日が嬉しかったですね。気分はまるで「ガレリアンのスキップ」といった風でありました。
以来,その靴をもっぱら日常のタウン・シューズとして西へ東へ南へ北へ,毎日毎日履き続けた。一応は地理学科などに所属していたこともあり,都心を歩き場末を歩き郊外を歩き地方都市を歩き街道沿いの町や村を歩き野山を歩き,とにかく半径数10kmだかの自らの生活圏小世界を丹念に歩くことにかけては人後に落ちないというささやかな自負すらあった。いわゆるエクスカーション(巡検)ってヤツである。とりわけ好んで歩いたのは,横浜市東部一帯に広がる下末吉台地,多摩丘陵から三浦半島へと連なる第三紀丘陵,さらには相模野の台地ならびに沖積低地など,関東平野南部の多摩川と相模川に挟まれた地域のデコボコ大地である。今ではもう手元にないが,その頃は国土地理院の2万5千分の1地形図に自らの足跡を赤線で辿り,それら何枚もの地形図が徐々に赤線でグチャグチャになってゆくことが無性に嬉しかった。今の御時世なら,意味ないじゃん!とか即言されそうであるが,いやいや,当時は若年層におけるそのような行動様式は決して特異でも稀少でも変態でもなかったと思う(多分ね)。
約3年後にかなり擦り切れたビブラム・ソールの張り替えをして,さらに数年にわたって飽きることなく履き続けた。やがて,地形図を無闇矢鱈トレースすることを誇る愚行を止めるようになっても,周辺世界をシコシコと歩き回る習性自体は決して止まらなかった。
しかしながら蜜月の崩壊はあっけなく訪れる。あるとき,何かのきっかけでダンロップのテニスシューズを履いて暫く歩いたら,その軽いこと軽いこと,大地を軽やかに蹴る際の得も言われぬ快感にビックリした。今でいうところの「ゼルダのホバー・ブーツ」のような感覚である。そのすぐ後で再び馴染みのチロリアン・シューズを履いてみると,何と自分は今まで天狗の鉄下駄のごとき「重し」を足に括り付けていたことよ!と改めて愕然とした。それを境として,徐々にそのチロリアン・シューズとは疎遠になってゆき,やがて1980年代の終わり,横浜の街を離れる時にキッパリと処分してしまった。約15年の寿命であった。最後の数年間はほとんどワックス手入れもせずに仕舞われたままで,捨てるときは埃まみれのヨレヨレボロボロに朽ち果てており,かつて共に過ごした栄光の日々の証は見る影もない有様だった。
そうして今,いささか取って付けたようではあるが,ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassensの《エレーヌの木靴》なんて歌を思い浮かべながら,かつて愛したモノを捨てる悲しみ,自分が不甲斐ないばっかりに最後まで責任を持って守ってやることが出来なかったモノに対して少なからず哀惜と悔恨の情を覚える。さよう,凡人はモノに凝滞せり,という淋しい結論である(そうでしょ?スタパ・オジサン!)
エレーヌの木靴は泥だらけだった
三人の兵隊は彼女を百姓女と呼んだ
哀れなエレーヌは まるで「悩める魂」みたいだった
もう君は これ以上井戸を探さなくてもいい
もし水が欲しいのなら 彼女の涙で君のバケツを満たせばいい
ぼくは苦労してエレーヌの木靴を脱がせた
ぼくは兵隊じゃないけど 苦労はむくわれた
哀れなエレーヌの木靴のなかに その泥だらけの木靴のなかに
ぼくは女王の足をみつけた
そしてぼくはそれを守った