春である。仕事のない春である。“3月60日”が過ぎてからというもの,日々これ休講の学生気分で過ごしている。周囲の状況は如何かと見渡せば,妻は薔薇アーチやらプランターやら雑草群落やらの保守点検に毎日夢中だし,長男はニンテンドー64にこれまた毎日夢中だし,次男はガラクタオモチャやら絵本やら雑誌やらを次々に取り出しては部屋中に散らかすのに夢中だし。そしてアワレナ父はとりたてて夢中になるモノもなく,エプロン掛けで夕食後の洗い物をしながらムカシ聞いた歌の数々を鼻唄まじりで思い浮かべたりしている。何の歌ですって? いや,軽いモノなら何でもいいんだけれど,例えば,今ではもうLPレコードが手元にないが,その甘ったるい声色だけは未だワタクシの脳裏にしっかりと焼きついているミシェル・デルペッシュ Michel Delpechの歌のいくつか。例えば《その月曜日に》など。
煙草を買いに階段を降りていく途中で
ジャン・ピエールは悟った もう自分が決して家に戻らないことを
彼はミッシェルと過ごした今日までの暮らしのことを考えていた
はぁ,とタメ息ひとつ それから彼は背を向けて街角を曲がった
ミッシェルはいつだって彼が会社で出世することを望んでいた
でも彼は マーケッティングで明け暮れる日々に嫌気がさしていた
カフェに入っても気が休まらず 頭のなかは外為相場のことばかり
おまけに何てこった 子供たちはだんだん彼に似てくるし
そんなわけで 彼はその月曜日に蒸発した
そんなわけで 彼はその月曜日に蒸発した
ミシェル・デルペッシュという男は日本の歌手に例えれば,何というか“節度ある布施明”といった位置づけであろうが(例えてどうする!),それにしても鼻唄気分でフンフンと口ずさむにはなかなか心地よい歌だ。洗い物の単調作業を機械的に行いながら,ムカシムカシのいろんな出来事いろんな歌が次々に浮かんでは消えてゆく。そうそう,デルペッシュにはこんな歌もあったっけ。
大洪水が起こる前は ここが僕らの家だった ぼくらの庭園だった
みんなして地道に生活を築きあげ 今日まで何とかうまくやってきた場所だ
でも今はもう すべて失われてしまった
ほら リンゴの木を見てごらん
濁流に耐えきれずに倒れてしまった僕らのリンゴの木を
今はもう鳥すら鳴いていない
あるのはただ 水と風だけだ
さあ一緒に あの丘の上までいこう
そうして ぼくらの家が流されてゆくのを見るんだ
もう諦めねばならない
すべては悪い方向に進んでいる 泣きたいくらいに.....
ここで世人は山田太一の『岸辺のアルバム』なぞを連想するかも知らんが,それは正しくない。彼と我とでは自然環境が違う,生活文化が違う,家屋の有する機能と構造が違う。しかり,拠って立つ「風土」が全く違う。多摩川沿いに密集するショートケーキ・ハウスとローヌ川上流の緑濃い谷間に点在する山村集落(と勝手に決めつけてしまうが)とでは「家」の持つ意味が基本的に異なるわけです(ヲイヲイ,話が少々こんがらがってきたぞ)。
気を取り直して元に戻って,それにしてもミシェル・デルペッシュが歌うような蒸発願望は無論ワタクシごときにも存在するわけでありまして,ただ,その行為に対する予めの正当な理由づけ並びに具体化のための手法を逐一追求する熱意は,はっきり申して欠けている次第です。でもやはり,ほんの一寸でもどっかに蒸発してみたいよー。ひとりローカル列車に乗って,五月の朝の東雲,うら若草の萌えいずる心まかせに,とかね。はいはい,ヒマ人の考えそうなコトでございますっ!
煙草を買いに階段を降りていく途中で
ジャン・ピエールは悟った もう自分が決して家に戻らないことを
彼はミッシェルと過ごした今日までの暮らしのことを考えていた
はぁ,とタメ息ひとつ それから彼は背を向けて街角を曲がった
ミッシェルはいつだって彼が会社で出世することを望んでいた
でも彼は マーケッティングで明け暮れる日々に嫌気がさしていた
カフェに入っても気が休まらず 頭のなかは外為相場のことばかり
おまけに何てこった 子供たちはだんだん彼に似てくるし
そんなわけで 彼はその月曜日に蒸発した
そんなわけで 彼はその月曜日に蒸発した
ミシェル・デルペッシュという男は日本の歌手に例えれば,何というか“節度ある布施明”といった位置づけであろうが(例えてどうする!),それにしても鼻唄気分でフンフンと口ずさむにはなかなか心地よい歌だ。洗い物の単調作業を機械的に行いながら,ムカシムカシのいろんな出来事いろんな歌が次々に浮かんでは消えてゆく。そうそう,デルペッシュにはこんな歌もあったっけ。
大洪水が起こる前は ここが僕らの家だった ぼくらの庭園だった
みんなして地道に生活を築きあげ 今日まで何とかうまくやってきた場所だ
でも今はもう すべて失われてしまった
ほら リンゴの木を見てごらん
濁流に耐えきれずに倒れてしまった僕らのリンゴの木を
今はもう鳥すら鳴いていない
あるのはただ 水と風だけだ
さあ一緒に あの丘の上までいこう
そうして ぼくらの家が流されてゆくのを見るんだ
もう諦めねばならない
すべては悪い方向に進んでいる 泣きたいくらいに.....
ここで世人は山田太一の『岸辺のアルバム』なぞを連想するかも知らんが,それは正しくない。彼と我とでは自然環境が違う,生活文化が違う,家屋の有する機能と構造が違う。しかり,拠って立つ「風土」が全く違う。多摩川沿いに密集するショートケーキ・ハウスとローヌ川上流の緑濃い谷間に点在する山村集落(と勝手に決めつけてしまうが)とでは「家」の持つ意味が基本的に異なるわけです(ヲイヲイ,話が少々こんがらがってきたぞ)。
気を取り直して元に戻って,それにしてもミシェル・デルペッシュが歌うような蒸発願望は無論ワタクシごときにも存在するわけでありまして,ただ,その行為に対する予めの正当な理由づけ並びに具体化のための手法を逐一追求する熱意は,はっきり申して欠けている次第です。でもやはり,ほんの一寸でもどっかに蒸発してみたいよー。ひとりローカル列車に乗って,五月の朝の東雲,うら若草の萌えいずる心まかせに,とかね。はいはい,ヒマ人の考えそうなコトでございますっ!