平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

絶対という事

2008-11-03 13:38:44 | Weblog
 聖書を読んでいて一番難解な概念は絶対という言葉です。ヤハウェ=イエスは絶対神と呼ばれていますが、そもそも絶対とは何なのでしょうか?多くの人はこれを「完全」という意味で用いていますが、そのような単純なものではありません。

 聖書、特に旧約聖書を読めば分かるのですが、神が預言者に命令する事は変な事が多いのです。山に登れ、石を積め、塩をまけ、川を上着で叩け、目に唾でこねた泥を塗れ、などなど。現代の理屈ばかりこねる人間なら、大半は「何でそうするのですか?」と質問するか、不平を言いながら渋々従うところです。神が絶対の力を持っているのなら、変な儀式など必要もない理屈です。

 では、なぜ神は変な儀式を預言者に授けているのでしょう。それは聖別するためです。選び分けるためです。神が選んだ人に権威を与えるために、普通の人間では躊躇する事を命令し、素直に従った者を預言者としているのです。神のこの命令が絶対なのです。逆らう事は許されていません。預言者が逆らえば預言者ではなくなるし、普通の人が逆らえば神の祝福は無くなるのです。実際、役目の後に禁止されている食事をしたために、帰路で獅子に殺された預言者がいるのです。

 このように神の命令は絶対であり、預言者はモーセのように尻込みする事になります。預言者も人間ですから、いかに神の命令でも王を怒らせたりするのは気が引けるものでしょう。しかも、彼は無知で愚かな民衆を何十万人も導かなくてはならなかったのです。何かと言えば権力を独占していると批判されます。苦悩に対して得る対価はほとんど無きに等しく、預言者ほど割に合わない仕事もないのです。では、預言者はどうして活動を続けたのか?それは神の言葉が絶対だからです。

 エジプト宰相ヨセフのように獄に繋がれたり、モーセのように何度も殺されそうになったり、エリシャのように子供に馬鹿にされたり、このような預言者の苦労が今の日本の下地となっているのです。もっとも、エリシャを馬鹿にした子供42人は呪われて熊に殺されましたが。子供と言えど神の人に逆らうのは許されないのです。

 神の心は計り知れず、人間の思いでは理解不能、あるいは損になる命令がたびたび預言者には下されます。預言者は神の予定調和を信じて、それを遂行するのみです。神と預言者の絆は、神と王との絆よりも強いのです。預言者もかっとなって子供を呪い殺したりの間違いもしますが、苦難をものともしない強さには敬服せざるを得ません。パンと水だけで力がみなぎるだけの信仰、それが僕の課題ですかね。パンと水はモーツァルトも真似をしたようですが…。

     エフライム工房 平御幸
コメント
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