平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

才能と霊感

2008-11-13 02:44:06 | Weblog
 ブログを始める前に書き留めていた原稿(才能論)を読み直してみたら、結構良い事を語っているのでそのまま掲載する事にしました。日付は2005年4月16日となっています。

 "大多数の人は、才能は天性のものであり、そこには後天性は存在しないように考えている。実際、そのような才能もあるが、才能の本質を語ってもいない。なぜならば、本当の才能とは、神が純粋な魂に下さる賜(たまもの)に過ぎないからである。

 才能は素質(素材)と伸びシロ(成長力)の両方において優れていなくてはならないが、仮に両方備えている者があったとしても、これでも不足である。なぜならば、霊感(インスピレーション)が無くては、独自の世界を創造することはできないからである。従って、才能論を展開するときには、霊感について語らなくてはならないし、霊感を語ることのない才能論は、最初から一番大事なテーマを放棄したことになる。このように、才能は一言では語ることができないものであるから、今回は霊感にテーマを絞って書いてみよう。


 霊感とは、自分の外からやってくるものである。人間には自分の能力的な限界というものがある。それを素質と言うが、自分でどうこうできるものではない。できることと言えば、努力して素質に見合った成長を遂げることくらいである。素質は遺伝的な要素が強く、それを伸ばすには環境の整備が不可欠である。けれど、いくら努力しても限界があり、その壁の前には無力になるしかない。だが、霊感を持つ者は、まるで壁が存在しないかのように新たな次元の世界を開拓する。いやむしろ、傍目には壁を利用して成長しているようにさえ見える。こういう人を天才と呼ぶのだが、かつては天才も凡人と同じ道を歩み、幾つかの二股道で一緒に立ち止まっているのである。天才も凡人も、同じこの世に属して生きているのだから。

 このように、ある壁を乗り越えようとするときに、人は二股道に差し掛かり道の選択を強いられる。また、この道のことをカッバーラではパス(小径)と言う。この二股道のどちらを選ぶかの判断材料は、その人の経験ではない。全く新しい未経験の道なのだから、小賢しい経験則は通用しない。では、何をもって人は道の判断材料を選るのか?実は、その人の心の奥底にある純粋さである。純粋な人は、この二股道で神の声を聞く。この声は小さいので、心を澄ましていなくては聞こえてこない。世俗の事に心を煩わせている人には聞こえてこないのである。イエスは、これをマルタとマリアの姉妹にたとえている。妹のマリアがイエスの話を熱心に聞く余り、教会の仕事を疎かにした。姉のマルタは自分だけが忙しいので不平に思い、イエスにマリアに注意してもらおうとした。ところがイエスは、マリアを褒めた。

「あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならないものは多くはない。いや一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」ルカによる福音書10章41~42

 イエスの時代に生きて、イエスの話を聞くことができた人は幸いである。だが、せっかくイエスの側にいながら、マルタはイエスの話よりも客人の世話をする自分を選んだのである。そうすることで褒められると勘違いして。マルタには、人から良く思われたい、褒められたいという、世俗の価値観が生きていた。だから、イエスは純粋なマリアを褒めたのである。

 美術大学を目指して絵を学ぶ場合、目標をどこに置くかで成長の結果が違ってしまう。芸大に入りたい、公募展に通りたい、お金を稼ぎたい、こういう俗な価値観で絵を学んでも自ずと限界がある。僕は、研究所で先生が与える課題を無視した訳ではないが、一枚一枚にテーマを与えてそれを最優先させた。それは、心の中の神の声に従った結果であり、そういう意味では僕は霊感に恵まれていたのである。だが、神の声はいつでも誰にでも語られている。人がそれに気が付かず、破鐘(われがね)のように響いてくる悪魔の声に従っているだけなのだ。そう、二股道とは、神の光の道と、悪魔の闇の道の二股を指すのである。そして、神の声は心を澄まさなくては聞こえてこない小さな声なので、大半の人には聞こえてこないだけなのである。これは、心の持ち方における自己責任なのである。

 人生の岐路とは、些細なきっかけで迫られる二股道である。だが、その道の行く末は天国と地獄であるから、決して疎かにはできない。また、この世に属す人間で神による霊感を持つ者は極端に少ない。だから彼らの心の中は空虚である。その空虚さから逃れるために、擬似的な霊感を得ようとする。それが、悪魔の誘惑の声とも知らずに。チャネリングとか、自己啓発とか、カルトや様々なセミナーの実態はこれであり、心を澄まさなくても聞こえてくる破鐘の音なのである。才能のない者は、その空しさから闇の声に従い闇の道に至る。そして、名声や高収入などのこの世的な成功によって満足するのである。その結果、魂も霊も悪魔の物になってしまうのだが。"

     エフライム工房 平御幸
コメント (3)
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