平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

横糸の必要性

2008-11-22 04:46:27 | Weblog
 僕は神の教会をネットワークにたとえますが、別の表現では良い織物となります。織物とは、縦糸(経)に横糸(緯)を編み込んだもので、これだけの作業で強靱で美しい布が出来上がります。このように素敵な織物ですが、縦糸と横糸では役割が違うのです。

 縦糸は、社会で言えば縦社会、人間で言えば個人です。個人個人が別々の色ならば、出来上がる織物も色々な色が散りばめられたものになりますが、いわゆる文様(もんよう)を獲得するには横糸の助けが必要となります。横糸は、何往復も行き来するシャトル(=杼~ひ)によって運ばれる一本の糸です。杼は、硬直した縦社会に横の繋がりをもたらす人物に似ています。実は、イエスの十字架(クルス)も縦と横の木で出来ているように、織物のクロスは十字架と同じ意味なのです。

 昭和天皇が亡くなった時に、競馬界にタマモクロスという十字架と、オグリキャップという茨の冠が出現したように、日本はイエスの奥義を伝える尊い国です。しかし、現在の日本は横糸の足りない織物に似て、個人個人がバラバラに孤立して、横の繋がりを欠く構造的な欠陥を有しています。

 例えば、フィギュアスケートで選手にプレゼントする時、ファンは自分の都合でプレゼントを決めています。これを自己愛の投影と言います。投げ込まれる花やぬいぐるみも嬉しいでしょうけど、本当に選手のためになっているのでしょうか?ファン一人一人の予算は限られていますが、何人かが結束して資金をプールすれば、少し高価なプレゼントが実現できます。勉強盛りの選手なら、遠征先でもゲーム感覚で学べるニンテンドーDSや、演技や練習のDVDを再生できるノートパソコンなどが有り難いはずです。このように、横の繋がりというのがあれば、自己満足のプレゼントから選手に必要なプレゼントに意識改革も出来るのです。

 選手に対して自己愛を投影するファンは多いですが、愛の本質は自己犠牲であり、また相手を自由にする事なのです。選手が自由に活動できる環境のために自分の資金を提供する。その精神があれば、ありきたりなものを投げ入れてゴミ袋に収容され、本当に選手の元に行くのかヤキモキする事も無くなると思います。でも、横糸の役割を買って出る人は大変だろうなとは思います。これが自己犠牲ですね。

 という事で、今回はフィギュアスケートのプレゼントをたとえとして書きましたが、僕が教会を建設しようとする理由が理解されましたでしょうか。相手を自由にする事、そのための自己犠牲、この理念こそがイエスの東方教会にあったものですが、異邦人の教会(バチカン)によって失われてしまいました。大半の教会が縦社会だという事は、横糸のない織物状態だという事を証明しているのです。教会建設に疑問を持つ読者に対する、これが解答です。

     エフライム工房 平御幸
コメント (2)
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