1950年代といいますと、ハンセン病療養所は、そのありかたをめぐってまさに激動の時代を迎えていました。それは新薬プロミンによって生きる希望を与えられた療養者達が、新憲法で保証された人権の保障をもとめて、国家に対して団結して、らい予防法改正運動を推し進めていった時期に当たります。松本さんは、1970年代以降、自治会と全患協の活動に深くコミットするようになった後では、「患者運動の原点は、らい予防法改正運動であり、これをはずしてしまった単なる処遇改善運動は、もはや患者運動ではない」ということを強調されますが、1952年、53年の予防法改正運動の頃は、ご自身は活動に参加できる状況では有りませんでした。失明と肢体の不自由さという身体的な条件に加えて、心の支えであった妻の死、二重三重の苦しみの中で、自己の魂の救済を第一に考えること、どうしたら自己自身の罪と無信仰、「死に至る病」である絶望から癒されるのか、そういうことのほうが当時の松本さんにとっては根本問題であったのです。
松本さんは1950年に、友人にロマ書3章21―26節を朗読してもらっているときに、「自己を苦しめた審判の神と、祈っても叫んでも遂に答えなかった隠れた愛の神が、十字架の一点で一つになった」という回心経験をします。そしてその後、松本さんが始めたことは、聖書を心に一字一句刻みつけることでした。教会の方々の朗読の助けを借りて、松本さんは四福音書とパウロ書簡、詩編、そしてヨブ記を暗誦されたと書かれています。
そのころ松本さんのために聖書を朗読した友人の一人が野上寛二さんですが、彼を通じて松本さんは関根正雄の「預言と福音」を読むようになり、1952年に全生園に来られた関根正雄の聖書講義を聴きます。そして、関根正雄との出会いが、松本さんにとって第2の転機となります。松本さんがキリスト教信仰に基づいて自治会活動を始めるようになったことは、関根正雄の無教会主義キリスト教の精神に触れたことが大きな機縁となっていたと思います。
松本さんは、第一回目の回心の後では、神を愛することかけては誰にも負けないつもりであったが、他人を愛することがどうしてもできなかったと告白しています。 他人からは、「十字架狂い」といわれるくらい、ただ一筋に信仰を求めていったけれども、自分の身近にいる他者を愛することが、どうしてもできないという事実に非常に苦しまれたのです。そのような自己中心的な信仰、他のものをすべて犠牲にしてひたすらその中に逃避しようとした信仰そのものが全く否定されて、そういう自己自身に絶望したときに初めて、魂に十字架の刻印が捺されるのだ、ということを関根正雄から初めて聞かされます。松本さんは、その説教に深く共鳴します。そして、ただひとりになって、十字架の言葉を受け取りつつ祈っているときに、松本さんは第二回目の回心を経験したと書かれています。
その後、信仰による決断に従って、松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊されます。この伝道誌を読んでいきますと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっていますが、次第にその内容が変化していきます。その変化は、「私の救い」だけではなく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そして現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせます。個人の魂の救済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰のあり方を示しているように思います。
そのことは、とくに自治会活動にコミットされ始めたころから「小さき声」にもうけられた療養通信という記事によく示されています。そこでは、狭い意味でのキリスト教に関することではなく、当時の全生園の自治会や、松本さんが支部長を務められた全患協のなかで、療養者の生きる権利を守るためにどのような運動がなされているか、またそこにはどんな困難な問題がまだ未解決なものとして残されているのか、そのことを療養所の外部にいる人たちにも伝えるという意味を持っていました。いうなれば、それは、松本さんの伝道誌を通じて、松本さん個人だけではなく全生園そのものの社会復帰をめざす活動でもあったわけです。
松本さんは1950年に、友人にロマ書3章21―26節を朗読してもらっているときに、「自己を苦しめた審判の神と、祈っても叫んでも遂に答えなかった隠れた愛の神が、十字架の一点で一つになった」という回心経験をします。そしてその後、松本さんが始めたことは、聖書を心に一字一句刻みつけることでした。教会の方々の朗読の助けを借りて、松本さんは四福音書とパウロ書簡、詩編、そしてヨブ記を暗誦されたと書かれています。
そのころ松本さんのために聖書を朗読した友人の一人が野上寛二さんですが、彼を通じて松本さんは関根正雄の「預言と福音」を読むようになり、1952年に全生園に来られた関根正雄の聖書講義を聴きます。そして、関根正雄との出会いが、松本さんにとって第2の転機となります。松本さんがキリスト教信仰に基づいて自治会活動を始めるようになったことは、関根正雄の無教会主義キリスト教の精神に触れたことが大きな機縁となっていたと思います。
松本さんは、第一回目の回心の後では、神を愛することかけては誰にも負けないつもりであったが、他人を愛することがどうしてもできなかったと告白しています。 他人からは、「十字架狂い」といわれるくらい、ただ一筋に信仰を求めていったけれども、自分の身近にいる他者を愛することが、どうしてもできないという事実に非常に苦しまれたのです。そのような自己中心的な信仰、他のものをすべて犠牲にしてひたすらその中に逃避しようとした信仰そのものが全く否定されて、そういう自己自身に絶望したときに初めて、魂に十字架の刻印が捺されるのだ、ということを関根正雄から初めて聞かされます。松本さんは、その説教に深く共鳴します。そして、ただひとりになって、十字架の言葉を受け取りつつ祈っているときに、松本さんは第二回目の回心を経験したと書かれています。
その後、信仰による決断に従って、松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊されます。この伝道誌を読んでいきますと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっていますが、次第にその内容が変化していきます。その変化は、「私の救い」だけではなく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そして現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせます。個人の魂の救済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰のあり方を示しているように思います。
そのことは、とくに自治会活動にコミットされ始めたころから「小さき声」にもうけられた療養通信という記事によく示されています。そこでは、狭い意味でのキリスト教に関することではなく、当時の全生園の自治会や、松本さんが支部長を務められた全患協のなかで、療養者の生きる権利を守るためにどのような運動がなされているか、またそこにはどんな困難な問題がまだ未解決なものとして残されているのか、そのことを療養所の外部にいる人たちにも伝えるという意味を持っていました。いうなれば、それは、松本さんの伝道誌を通じて、松本さん個人だけではなく全生園そのものの社会復帰をめざす活動でもあったわけです。