歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

松本馨の信仰と自治会活動 その6

2007-09-04 |  宗教 Religion
次に、松本さんの評論「最後の一人のために」を取り上げます。これは、いまから、37年前に書かれたもので、当時の全患協の運動に呼応して、再建されるべき自治会の活動の基本について述べたものです。この論文の冒頭に明記されているように、松本さんは

一、強制隔離政策による損失補償。
二、身体障害者-老令者をも含む-に、拠出年金に替る特別措置を考慮してもらうことと日用品費の増額。
三、作業賃の増額。
四、居住様式の改善。
五、治療棟と病棟の改築

という全患協多磨支部の主張を引用・支援しつつ、独自の論陣を張っています。
ここでとくに注目すべきは、1の強制隔離政策による損失補償の項目でしょう。松本さんは、強制隔離による損失補償に消極的な意見を要約して次のように云っています。

「強制隔離収容によって、私も家族も損失を受けたおぼえは無い、かえって助かったのだ。もし、隔離収容所が無かったならば、家族は私の一生の面倒を見なければならず、それによって受ける家族の犠牲は、金銭で量ることはできない。もし又、私の病気が世間に知れれば私は家を出て、生命の尽きるまで、あてもなく地をさ迷わなければならなかったであろう。強制隔離は、私にとって救いだったのである。」

このような考え方は、国賠法訴訟の裁判が終わった現在では、影を潜めましたが、35年前においては、まだまだ根強い意見であったと思います。それに対して松本さんは次のように反論しています。

もし隔離収容所がなかったらと云う前提のもとに、強制隔離を肯定することは、強制隔離の是非とは無関係である。現実の悲惨を、それよりも更に重い悲惨を過去に想像して、美化することもありうるからである。私が問題にしているのは、半世紀の歴史を持つ隔離収容所で、何が行なわれ何が起つたかと云うことである。

そして、次に、米国のキング牧師の例を挙げ、

黒人指導者キングは兇弾に斃れて既にこの世には居ないが、黒人の抗議デモは今後も継続されるであろう。それの止む時は死か、白人と平等の自由を獲得した時である。キングは私達にもまた、如何にして人間を回復するか、国民と平等の自由を確保するか、を教えている。それは諸要求に対する運動を通してのみ受取らされるのである。損失補償要求が出来るか出来ないかは、その人が人間性を回復しているか、回復していないか位、私にとっては重要なことに思われる。

と云っています。また、戦前から引き続いて行われていた軽症患者による重症患者の介護という制度を、患者自身の「相愛互助」の精神によるものと美化してきた考え方が、如何に実情とかけ離れたものであったか、その背後に患者が労働しなければ生活できない現実があり、患者の労働に頼らなければ運営できなかった療養所の実態があったことを指摘しています。
松本さんは、また、医療センターについての独自の構想についても言及し、

一万人の内の二十分の一、三十分の一、或いは最後の一人のために医療センターは設立しておかねばならない。生活の諸要求の声に消されてしまっている病棟の奥深くに、医療センターの設立を望む人達が居るのである。死と斗っている人達である。この人達のためにも、医療センターは設立させなければならないし、その責任が療養所に関係する総ての人にある。その声は弱く細く、小さければ小さいほど、関係者は謙虚に耳を傾けなければならない。私達もまた謙虚に病友の細き声に聞かなければならない。人の生命は世界よりも重い、それはキリストの教えなのである。

と結んでいます。「小さき声」とは、松本さん御自身の伝道文書のタイトルですが、それがここでは、ご自身だけではなく、病苦に悩む療友の「細き声」に聴こうという意味で使われています。
  それでは、この論文の中で言及されている医療センターについて松本さんはどのような構想を持っていたのでしょうか。
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