「世界医療センター-療養所の終末」という松本さんの「将来構想」を示す基本的な論文は、1967年12月に発表されたものですが、そのときの松本さんの肩書きは、「本園入園者」です。これは自治会が再建される前に発表されたもので、療養所が終末期を迎えて、医師不在の場所になりつつある現実を踏まえて書かれたものですが、その議論を要約すると次のようになるでしょう。
1 療養所が「終末」に近づいたからと言って、療養所の統廃合はすべきでないこと。不自由舎にいる長期療養者の心情を考慮しなければならない。
2 「医師不在の療養所」という将来的に差し迫った危機に対処するために、また、統廃合に替わる対策として、全生園を医療センターとして整備することを提案する。
3 その医療センターは、沖縄をも含めた国立療養所と私立病院とを傘下におさめた医療センターでなければならない。場所は、全生園の敷地の約半分をそれにあてる。
4 その医療センターは、総合医療センターであり、療養者の生活の場からは切り離す。
5 その医療センターは、将来的には、「世界医療センター」として、アジア・アフリカの救癩センターとしての機能を持たせるようにする。
当時(1967年6月)の全患協ニュースをみますと、第14回定期支部長会議(多磨支部は欠席)の運動方針の最初に「療養する権利を守り医療を充実させる運動」があげられ、その第二項に「二 十一施設毎に高度な医療専門的治療を充実させる。なおその他に最高度の専門医療が受けられる治療センターを設ける。医療の充実。機能療法士。職能療法士。義肢技工士の定員化」という文言がある。また自治会閉鎖のため欠席した多磨支部へのメッセージがあります。
このころ入所者の平均年齢は当時50歳です。これはほぼ当時の松本さんの年齢ですが、療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、あらたに療養所に緒勤務を希望する医師がきわめて少なかったので、そのまま放置すれば療養所は医師のいない療養所になってしまうと言う危機感が背景にあります。さらに療養所では高度の医療は受けられず、療養所の外部の病院を利用することが、らい予防法のもとでは困難であった時代において、療養者の医療を充実させることが焦眉の課題であったわけです。
また、全患協ニュース(1967年1月―1967年6月)に連載された、「療養生活研究委員会」の答申書「将来の療養所像について」の四項に
「ハンセン氏病の治療が、今後解放医療に向かうとしても、治療の主力機関は既存の療養所に置くべきである。したがって、欠陥に満ちた既存療養所の施設、スタッフ、システム(体系)の確立が先決である。なお、その他に最高度の専門医療(基本治療、一般治療、整形、形成外科的治療)が受けられる治療センター(病院形態)を設けて、外来および入院治療を行いうるようにすることが望ましい。」
これはいうなれば40年前の全患協の将来構想といってもよいでしょう。
松本さんが多磨誌に1967年12月に書かれた「世界医療センター」という論文と同時期の全患協の「将来構想」とを具体的に比較してみますとつぎのような顕著な違いがあります。
まず、「療養生活研究会」の答申では、資料の主力機関は既存の療養所に置くべきであるとなっていますが、松本さんの提案は、医師不足が深刻化していた当時において、事実上日本全体の医療センターの役割を云わされていた全生園に、入園者の生活の場からは独立した大きな医療センターを設置するというものでした。そして将来的には、そこを日本のみならず世界のハンセン病者のための医療センターとして整備するという提案を含んでいます。日本ではハンセン病の療養所は週末を迎えているけれども、その経験を生かして世界の病者のために貢献できる施設を設置するということ、そういう意味で、目を日本だけに向けるのではなく地球的な規模で考えているところが、松本さんの論文の独自性です。
そこには、日本でハンセン病医療を志す医師を確保するという目的もありました。があり、若い医師にとってハンセン病医療の重要性を訴えるという意味があります。
松本さんは自治会が再建されますと、1967年の世界医療センターの設置を提案した論文で述べたご自身のアイデアを実現するための具体的な行動に出られます。それは、「小さき声」第二期 22号のなかで、松本さんご自身が次のように当時を回想していますので、それを紹介しましょう。
自治会発足間もなく、会長の平田(平沢)と私は、厚生省陳情を行なったが、多摩支部が単独で陳情を行なったのは、創立以来初めての事であった。ライ予防法闘争以後、厚生省陳情の道は開かれ、各支部は単独陳情を行なっていたが、多摩支部は全患協本部所在地として全体の事を考え、単独陳情はしなかった。
陳情の目的は、11万坪の敷地の一部を売って多摩研究所を合併し、ライセンターとして全生園の全面的整備をしてもらうことであった。現実に、多摩全生園は医療センターとしての機能を果たしてきた。
プロミンが科学治療薬として採用されたのは1949年で、20年経過していた。沖縄を除く本土では新発生患者はゼロになろうとしていた。それに合わせるかの様に、各施設共医師の欠員が目立っていった。特に、ライの専門医が不足し、基本治療科の充実した全生園に全国の新発生患者が送られてきた。また、各園共児童の新発生患者がなくなり小中学校を閉鎖していったが残りの小中学生もまた、全生園に集められた。それでも10人に達しなかった。急速に、療養所は終焉に向かっていたのである。
この他に、僻地の施設では治療できない者もまた、全生園に一時転院し治療を受けた。社会復帰者もまた全生園を利用し常時30人前後が病棟に居た。外来患者の利用者も年間1000人を超えていた。これに対して、センターとして正式に認められていなかったが為に、厚生省は必要な予算処置をとらず、全生園の患者と職員の犠牲によって運営し、両方から不満が出ていた。
平田と私は厚生省ロビーで野津療養所課長外4名と会った。陳情書は私が作成し、前もって課長の元へ届けておいたので、平田と私が陳情書に基づいて交互に説明したが、第一回は課長にしてやられた、という思いを強くした。
「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」
と軽くあしらわれてしまったのである。
終息に向かっているが故にセンターは必要なのである。
現状のまま放置しておけば患者が居なくなる前に医師看護婦が居なくなってしまうだろう。既にその兆候が表われ、危機的状況に追い込まれていたのである。第一回の陳情は、厚生省優勢の中に何の成果も得ずに終った。帰りの車の中で平田は、「これからだ」と言った。「初めての経験で僕も固くなってたけれども、課長も固くなっていた様な気がする……」「僕達が恐がったのだよ。今頃はロビーの消毒で大騒ぎしているだろう。」平田と私は笑った。日頃近寄り難い恐い存在である役人の消毒姿が滑稽に思えたのだった。
ここでは、「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」という当時の厚生省の官僚の言葉と、「終息に向かっているが故にセンターは必要なのである」という松本さんの考え方の対比が実に明瞭に出ています。当時の入所者の平均年齢は50歳で、これは松本さんの年齢でもありました。これに対して療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、療養所に勤務を希望する若い医師が以内という現実をどうするか、この問題をふまえて、世界医療センターという論文が書かれたわけですが、そこには、多磨療養所の土地の一部を売却してその資金を得るという具体的な提言も含まれていたわけです。
この「世界医療センター」というアイデアは、のちに成田先生によって、ライセンター構想として取り上げられ、松本さんもそれに賛成されて、その実現のために努力されましたが、様々な反対にあって結局の所は実現しませんでした。その間の事情については、松本さんの書かれた「生まれたのは何のために」に松本さんの立場から要約されています。現実には、全生園には東部地区の医療センターの役割を果たす病棟が新設されたわけですが、松本さんは、それが将来的には世界医療センターとなるべきものだという希望は持ち続けられたようです。たとえば、1979年の全患協ニュースの「将来の療養所の在り方について」特集号に、松本さんは、「世界医療センター」と題してつぎのような投稿をしています。
多磨全生園を利用した外来客は1971年が990人であるが、72年は11月現在ですでに1000人を超えている。入院者は病棟整備のため制限したが71年よりも増えている。 このことは斜陽化の一途をたどっている療養所の医療の枯渇化と、多磨全生園のセンター的性格が年毎に深められていることを意味する。
一九支部長会議は、東部五園の医療センターとして多磨全生園を指定したが、私の希望は未開発国に集中している幾百万という病友に、医療の手をさしのべるセンターとして設立されることである。多磨の敷地内には世界で唯一のハ氏病研究所と高等看護学院がある。 周辺には国立療養所や大学があり、医療提携と進んだ技術を導入することができる。
国内の医療センターとして整備されても、若い医師の魅力とはならない。海外の医療派遣、国際的知名人の医学者や留学生を招くことによって、眠り勝ちなハ氏病医学界の目をさますと共に、若い医師や看護婦に希望を与えることになるだろう。
この考えの背景には日本の救らい事業が外国宣教師によって行われたこと、それに報いて欲しいという願望がある。世界の同病者が癒されるまで私達は共に苦しみ、医療センター運動を続けなければならない。
現実に実現した医療センターは、松本さんが本来考えておられたものとはほど遠いものであったとはいえ、松本さんのアイデア自身は、あとで講演されます國本さんの「国際ハンセン病センター」へと引き継がれていきましたので、それについては次の講演でお話があると思います。
1 療養所が「終末」に近づいたからと言って、療養所の統廃合はすべきでないこと。不自由舎にいる長期療養者の心情を考慮しなければならない。
2 「医師不在の療養所」という将来的に差し迫った危機に対処するために、また、統廃合に替わる対策として、全生園を医療センターとして整備することを提案する。
3 その医療センターは、沖縄をも含めた国立療養所と私立病院とを傘下におさめた医療センターでなければならない。場所は、全生園の敷地の約半分をそれにあてる。
4 その医療センターは、総合医療センターであり、療養者の生活の場からは切り離す。
5 その医療センターは、将来的には、「世界医療センター」として、アジア・アフリカの救癩センターとしての機能を持たせるようにする。
当時(1967年6月)の全患協ニュースをみますと、第14回定期支部長会議(多磨支部は欠席)の運動方針の最初に「療養する権利を守り医療を充実させる運動」があげられ、その第二項に「二 十一施設毎に高度な医療専門的治療を充実させる。なおその他に最高度の専門医療が受けられる治療センターを設ける。医療の充実。機能療法士。職能療法士。義肢技工士の定員化」という文言がある。また自治会閉鎖のため欠席した多磨支部へのメッセージがあります。
このころ入所者の平均年齢は当時50歳です。これはほぼ当時の松本さんの年齢ですが、療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、あらたに療養所に緒勤務を希望する医師がきわめて少なかったので、そのまま放置すれば療養所は医師のいない療養所になってしまうと言う危機感が背景にあります。さらに療養所では高度の医療は受けられず、療養所の外部の病院を利用することが、らい予防法のもとでは困難であった時代において、療養者の医療を充実させることが焦眉の課題であったわけです。
また、全患協ニュース(1967年1月―1967年6月)に連載された、「療養生活研究委員会」の答申書「将来の療養所像について」の四項に
「ハンセン氏病の治療が、今後解放医療に向かうとしても、治療の主力機関は既存の療養所に置くべきである。したがって、欠陥に満ちた既存療養所の施設、スタッフ、システム(体系)の確立が先決である。なお、その他に最高度の専門医療(基本治療、一般治療、整形、形成外科的治療)が受けられる治療センター(病院形態)を設けて、外来および入院治療を行いうるようにすることが望ましい。」
これはいうなれば40年前の全患協の将来構想といってもよいでしょう。
松本さんが多磨誌に1967年12月に書かれた「世界医療センター」という論文と同時期の全患協の「将来構想」とを具体的に比較してみますとつぎのような顕著な違いがあります。
まず、「療養生活研究会」の答申では、資料の主力機関は既存の療養所に置くべきであるとなっていますが、松本さんの提案は、医師不足が深刻化していた当時において、事実上日本全体の医療センターの役割を云わされていた全生園に、入園者の生活の場からは独立した大きな医療センターを設置するというものでした。そして将来的には、そこを日本のみならず世界のハンセン病者のための医療センターとして整備するという提案を含んでいます。日本ではハンセン病の療養所は週末を迎えているけれども、その経験を生かして世界の病者のために貢献できる施設を設置するということ、そういう意味で、目を日本だけに向けるのではなく地球的な規模で考えているところが、松本さんの論文の独自性です。
そこには、日本でハンセン病医療を志す医師を確保するという目的もありました。があり、若い医師にとってハンセン病医療の重要性を訴えるという意味があります。
松本さんは自治会が再建されますと、1967年の世界医療センターの設置を提案した論文で述べたご自身のアイデアを実現するための具体的な行動に出られます。それは、「小さき声」第二期 22号のなかで、松本さんご自身が次のように当時を回想していますので、それを紹介しましょう。
自治会発足間もなく、会長の平田(平沢)と私は、厚生省陳情を行なったが、多摩支部が単独で陳情を行なったのは、創立以来初めての事であった。ライ予防法闘争以後、厚生省陳情の道は開かれ、各支部は単独陳情を行なっていたが、多摩支部は全患協本部所在地として全体の事を考え、単独陳情はしなかった。
陳情の目的は、11万坪の敷地の一部を売って多摩研究所を合併し、ライセンターとして全生園の全面的整備をしてもらうことであった。現実に、多摩全生園は医療センターとしての機能を果たしてきた。
プロミンが科学治療薬として採用されたのは1949年で、20年経過していた。沖縄を除く本土では新発生患者はゼロになろうとしていた。それに合わせるかの様に、各施設共医師の欠員が目立っていった。特に、ライの専門医が不足し、基本治療科の充実した全生園に全国の新発生患者が送られてきた。また、各園共児童の新発生患者がなくなり小中学校を閉鎖していったが残りの小中学生もまた、全生園に集められた。それでも10人に達しなかった。急速に、療養所は終焉に向かっていたのである。
この他に、僻地の施設では治療できない者もまた、全生園に一時転院し治療を受けた。社会復帰者もまた全生園を利用し常時30人前後が病棟に居た。外来患者の利用者も年間1000人を超えていた。これに対して、センターとして正式に認められていなかったが為に、厚生省は必要な予算処置をとらず、全生園の患者と職員の犠牲によって運営し、両方から不満が出ていた。
平田と私は厚生省ロビーで野津療養所課長外4名と会った。陳情書は私が作成し、前もって課長の元へ届けておいたので、平田と私が陳情書に基づいて交互に説明したが、第一回は課長にしてやられた、という思いを強くした。
「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」
と軽くあしらわれてしまったのである。
終息に向かっているが故にセンターは必要なのである。
現状のまま放置しておけば患者が居なくなる前に医師看護婦が居なくなってしまうだろう。既にその兆候が表われ、危機的状況に追い込まれていたのである。第一回の陳情は、厚生省優勢の中に何の成果も得ずに終った。帰りの車の中で平田は、「これからだ」と言った。「初めての経験で僕も固くなってたけれども、課長も固くなっていた様な気がする……」「僕達が恐がったのだよ。今頃はロビーの消毒で大騒ぎしているだろう。」平田と私は笑った。日頃近寄り難い恐い存在である役人の消毒姿が滑稽に思えたのだった。
ここでは、「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」という当時の厚生省の官僚の言葉と、「終息に向かっているが故にセンターは必要なのである」という松本さんの考え方の対比が実に明瞭に出ています。当時の入所者の平均年齢は50歳で、これは松本さんの年齢でもありました。これに対して療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、療養所に勤務を希望する若い医師が以内という現実をどうするか、この問題をふまえて、世界医療センターという論文が書かれたわけですが、そこには、多磨療養所の土地の一部を売却してその資金を得るという具体的な提言も含まれていたわけです。
この「世界医療センター」というアイデアは、のちに成田先生によって、ライセンター構想として取り上げられ、松本さんもそれに賛成されて、その実現のために努力されましたが、様々な反対にあって結局の所は実現しませんでした。その間の事情については、松本さんの書かれた「生まれたのは何のために」に松本さんの立場から要約されています。現実には、全生園には東部地区の医療センターの役割を果たす病棟が新設されたわけですが、松本さんは、それが将来的には世界医療センターとなるべきものだという希望は持ち続けられたようです。たとえば、1979年の全患協ニュースの「将来の療養所の在り方について」特集号に、松本さんは、「世界医療センター」と題してつぎのような投稿をしています。
多磨全生園を利用した外来客は1971年が990人であるが、72年は11月現在ですでに1000人を超えている。入院者は病棟整備のため制限したが71年よりも増えている。 このことは斜陽化の一途をたどっている療養所の医療の枯渇化と、多磨全生園のセンター的性格が年毎に深められていることを意味する。
一九支部長会議は、東部五園の医療センターとして多磨全生園を指定したが、私の希望は未開発国に集中している幾百万という病友に、医療の手をさしのべるセンターとして設立されることである。多磨の敷地内には世界で唯一のハ氏病研究所と高等看護学院がある。 周辺には国立療養所や大学があり、医療提携と進んだ技術を導入することができる。
国内の医療センターとして整備されても、若い医師の魅力とはならない。海外の医療派遣、国際的知名人の医学者や留学生を招くことによって、眠り勝ちなハ氏病医学界の目をさますと共に、若い医師や看護婦に希望を与えることになるだろう。
この考えの背景には日本の救らい事業が外国宣教師によって行われたこと、それに報いて欲しいという願望がある。世界の同病者が癒されるまで私達は共に苦しみ、医療センター運動を続けなければならない。
現実に実現した医療センターは、松本さんが本来考えておられたものとはほど遠いものであったとはいえ、松本さんのアイデア自身は、あとで講演されます國本さんの「国際ハンセン病センター」へと引き継がれていきましたので、それについては次の講演でお話があると思います。