「この病は死に至らず」に含まれている四番目の評論「世界医療センター」は、いうなればリアルタイムで書かれたものです。1971年当時、まだ松本さんは、自治会長ではなく総務部長でした。1966年に自治会が解散された後で、3年間自治会のない状態が続いたので、松本さんは、自治会を再建することが自分の使命であると考えられたようです。そのことは当時の多磨の評論や「小さき聲」を読むとただちに分かります。
今日はキリスト者としての松本さんについて詳しくお話しすることは出来ませんが、キリスト者の自由ということについて、三つのことを申し上げたいと思います。
松本さんは1918年に生まれ、17歳の時、つまり1935年に慈恵医大でハンセン病であるという診断を受けます。そして、その当時の多くの患者さんと同じく、自殺しようと思ったと書かれています。松本さんの少年時代に、兄が自殺をしており、それを目撃した松本さんは大きな衝撃を受けたのですが、後になってから自分と同じ病であったことが分かります。松本さんご自身も荒川の吊り橋から身を投げようとしたのですが、その瞬間に、「一体俺は何のために生まれたんだろうか」という疑問を起こし、どうしてもその答を知りたいと思い自殺を思いとどまったということを書かれています。そして、多磨の療養所に入所された。先ほど云いました「生まれたのは何のために」という本のタイトルは、このときの問いかけから来ているのですが、松本さんは、その問の解答が別に得られたわけではなかったけれども、実はその答えは問の中にあったのだと云うことを最後に書かれています。つまり神様は、そういう問を自分に与えることによって、今まで自分を生かながらえさせて下さったのだというのです。そういう問を問い続けることこそが、17歳の時より80歳になるまでの自分の生涯であったと言っておられます。
入所間もなく、松本さんは療養所の図書館に行って、一人で岩波文庫の文学書・哲学書を数十冊のノートに書き写しながら、勉強を開始します。とくにドストエフスキーの小説に登場する人物に共感し、彼の作品を通じて次第に聖書に対する関心が目覚め、「俺は何のためにうまれたのか」という問いにたいする答えは聖書の他にはないと思うようになります。またキリスト者の原田嘉悦さんから大きな影響を受け、内村鑑三の著作に接します。このころの集中的な勉強が、のちに失明の障害を克服して文書伝道するときに大いに役だったと書かれています。
松本さんは1941年に当時開設された全生常会の役員だった原田嘉悦さんに依頼されて少年舎の寮父となり、学校の先生の代わりを勤めます。そのときの松本さんの教育方針は、子供達に自己を表現する習慣を付けさせるために、毎月、作文と詩を一編づつ作り、短歌や俳句は二首以上作るというものでしたが、このような作文重視の教育の背後には
「苦難のただなかで言葉ももたず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」
という松本さんの思いがありました。松本さんから教えられた人達に、山下道輔さんや、谺雄二さんがいます。
少年舎の療父を引き受けたのを機会に、松本さんは洗礼を受けて秋津教会の教会員になります。当時の心境を、松本さんはあとになってから回想して、「罪と罰」の登場人物であるソーニャが、教会の門を叩くことをすすめてくれたのだと書いています。律法によれば石で撃ち殺される罪の女であるソーニャの「神」とは、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官によって捨てられたイエスにほかならない、松本さんはそのように文学的に直観されたのです。そして、松本さんは、自己が執拗に問い続け、求めていたものは自己のうちにはなく、この捨てられたイエスにあることに心の目がひらかれたのだと書かれています。
ずいぶんと文学的な書き方ですし、教会の門の中に入っても、洗礼や信仰告白などの形式に躓き、そこではまだ決して生きた信仰には触れることができなかったとも書かれていますが、50年後に過去を振り返って、松本さんは、「ソーニャの神は捨てられたイエスに他ならない」というそのときの直観は、決して間違ってはいなかったと云っています。
松本さんは秋津教会で、のちに結婚される田中義子さんと知り合うのですが、義子さんは、目黒慰廃園から転園してきた方でした。当時は、療養所の整理統合が進んでおり、米国からの資金援助が途絶えた目黒慰廢園が解散され、療養者がすべて強制的に全生園に転園させられました。松本さんは原田嘉悦さんの薦めで、義子さんと1945年に結婚されましたが、この結婚生活は長くは続きませんでした。奥様は結核も併発しており、新薬プロミンの副作用もあって、1950年に結核性腹膜炎で亡くなられます。そして松本さんご自身もその後すぐに失明されます。このときに松本さんの経験された大きな試練と苦しみについては、「小さき聲」の自伝的回想、のちに書かれた「生まれたのは何のために」などに詳しく書かれていますが、このような悲惨な境遇に出会われたとき、松本さんはそれを、偶然的な不運によるものとは決して考えず、そこには必然的な理由があること、それは自己の無信仰の罪の結果だったのだと受け止められたようです。松本さんがおののいていたのは「自己を裁く神」であり、そのような神をリアリティを以て受け容れたときに十字架のイエスによる「赦し」が、はじめて分かったと書かれています。
今日はキリスト者としての松本さんについて詳しくお話しすることは出来ませんが、キリスト者の自由ということについて、三つのことを申し上げたいと思います。
松本さんは1918年に生まれ、17歳の時、つまり1935年に慈恵医大でハンセン病であるという診断を受けます。そして、その当時の多くの患者さんと同じく、自殺しようと思ったと書かれています。松本さんの少年時代に、兄が自殺をしており、それを目撃した松本さんは大きな衝撃を受けたのですが、後になってから自分と同じ病であったことが分かります。松本さんご自身も荒川の吊り橋から身を投げようとしたのですが、その瞬間に、「一体俺は何のために生まれたんだろうか」という疑問を起こし、どうしてもその答を知りたいと思い自殺を思いとどまったということを書かれています。そして、多磨の療養所に入所された。先ほど云いました「生まれたのは何のために」という本のタイトルは、このときの問いかけから来ているのですが、松本さんは、その問の解答が別に得られたわけではなかったけれども、実はその答えは問の中にあったのだと云うことを最後に書かれています。つまり神様は、そういう問を自分に与えることによって、今まで自分を生かながらえさせて下さったのだというのです。そういう問を問い続けることこそが、17歳の時より80歳になるまでの自分の生涯であったと言っておられます。
入所間もなく、松本さんは療養所の図書館に行って、一人で岩波文庫の文学書・哲学書を数十冊のノートに書き写しながら、勉強を開始します。とくにドストエフスキーの小説に登場する人物に共感し、彼の作品を通じて次第に聖書に対する関心が目覚め、「俺は何のためにうまれたのか」という問いにたいする答えは聖書の他にはないと思うようになります。またキリスト者の原田嘉悦さんから大きな影響を受け、内村鑑三の著作に接します。このころの集中的な勉強が、のちに失明の障害を克服して文書伝道するときに大いに役だったと書かれています。
松本さんは1941年に当時開設された全生常会の役員だった原田嘉悦さんに依頼されて少年舎の寮父となり、学校の先生の代わりを勤めます。そのときの松本さんの教育方針は、子供達に自己を表現する習慣を付けさせるために、毎月、作文と詩を一編づつ作り、短歌や俳句は二首以上作るというものでしたが、このような作文重視の教育の背後には
「苦難のただなかで言葉ももたず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」
という松本さんの思いがありました。松本さんから教えられた人達に、山下道輔さんや、谺雄二さんがいます。
少年舎の療父を引き受けたのを機会に、松本さんは洗礼を受けて秋津教会の教会員になります。当時の心境を、松本さんはあとになってから回想して、「罪と罰」の登場人物であるソーニャが、教会の門を叩くことをすすめてくれたのだと書いています。律法によれば石で撃ち殺される罪の女であるソーニャの「神」とは、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官によって捨てられたイエスにほかならない、松本さんはそのように文学的に直観されたのです。そして、松本さんは、自己が執拗に問い続け、求めていたものは自己のうちにはなく、この捨てられたイエスにあることに心の目がひらかれたのだと書かれています。
ずいぶんと文学的な書き方ですし、教会の門の中に入っても、洗礼や信仰告白などの形式に躓き、そこではまだ決して生きた信仰には触れることができなかったとも書かれていますが、50年後に過去を振り返って、松本さんは、「ソーニャの神は捨てられたイエスに他ならない」というそのときの直観は、決して間違ってはいなかったと云っています。
松本さんは秋津教会で、のちに結婚される田中義子さんと知り合うのですが、義子さんは、目黒慰廃園から転園してきた方でした。当時は、療養所の整理統合が進んでおり、米国からの資金援助が途絶えた目黒慰廢園が解散され、療養者がすべて強制的に全生園に転園させられました。松本さんは原田嘉悦さんの薦めで、義子さんと1945年に結婚されましたが、この結婚生活は長くは続きませんでした。奥様は結核も併発しており、新薬プロミンの副作用もあって、1950年に結核性腹膜炎で亡くなられます。そして松本さんご自身もその後すぐに失明されます。このときに松本さんの経験された大きな試練と苦しみについては、「小さき聲」の自伝的回想、のちに書かれた「生まれたのは何のために」などに詳しく書かれていますが、このような悲惨な境遇に出会われたとき、松本さんはそれを、偶然的な不運によるものとは決して考えず、そこには必然的な理由があること、それは自己の無信仰の罪の結果だったのだと受け止められたようです。松本さんがおののいていたのは「自己を裁く神」であり、そのような神をリアリティを以て受け容れたときに十字架のイエスによる「赦し」が、はじめて分かったと書かれています。