歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

愛宕百韻について 1

2005-02-23 | 美学 Aesthetics
愛宕百韻について

宗祇以後の連歌の考察の一環として、戦国の武将、特に細川幽齋と明智光秀をとりあげよう。光秀の場合、特に、天正十年五月二十八日、連歌師紹巴を宗匠として巻いた「愛宕百韻」の発句が最もよく知られている。同年六月二日が本能寺の変であるから、まさに主君信長に代わって天下人たらんとした光秀その人の心中を伺うことが出来る。発句

    ときは今天が下しる五月哉   光秀

は、「土岐一族の流れを汲む光秀が天下を治める五月になった」 という意味にとれるから、謀反を起こす直前の光秀の心境を詠んだものと解されている。後世の注釈書によると、連歌師紹巴は、本能寺の変の前に光秀の決意を知らされていたのではないかという嫌疑で取り調べを承けたときに、この発句の原型は

   ときは今天が下なる五月哉  光秀

と五月雨の情景を詠んだものであったものを、あとで光秀が書き換えたと弁明したとのこと。脇は

    水上まさる庭の夏山 行祐

であるから、実際の連歌の席では、五月雨の句であったものと思われる。
 おそらく、毛利征伐の戦勝祈願の為の百韻連歌の興行を、ひそかに本能寺の信長を謀殺するための決意表明の場に変えることは、光秀その人の意図であったのだろう。 初折裏では光秀は実に緊張感溢れる月の句を詠んでいる。

    しばし只嵐の音もしづまりて    兼如
      ただよふ雲はいづちなるらん  行祐
    月は秋秋はもなかの夜はの月    光秀


「もなか」は最中で十五夜の月。拾遺集、源順の

「水の面にてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける」

を踏まえた句。 これは、大事を前にした光秀の漲る気迫が感じられる。
 愛宕百韻から伺える光秀像は、細川幽齋と同じく、王朝の雅を受け継ぎ、古き伝統の守護者たらんとした教養人である。
 細川幽斎は光秀とは昵懇の間柄であったので、多くの武将は、本能寺の変に対して幽斎がどのように対応するかを見守っていた。幽斎は髪を下ろして僧形となり、信長公の追善供養をする意志を表明し、旗幟鮮明に、反逆には一切荷担しないと宣言した。この幽斎の対応を知らされて光秀は非常に動揺したらしく、卑屈とも言える協力要請の書状を再度幽斎に送り、それが今も細川家に残っている。
 信長の追善供養の為に、細川幽斎は本能寺の焼け跡に仮屋を作り、百韻連歌の興行をした。幽斎の発句に、聖護院門跡の道澄が脇を付け、連歌師の里村紹巴が第三を付けた。

  墨染めの夕べや名残り袖の露  幽斎
    玉まつる野の月の秋風   道澄
  分け帰る道の松虫音になきて  紹巴


 細川幽斎は武将には珍しく、古今伝授の秘伝をうけた歌人で、王朝の歌の伝統を後世に伝え

  冬枯れの野島が崎に雪ふれば尾花吹きこす浦の夕かぜ

のような雅やかな歌と共に

  西にうつり東の国にさすらふもひまゆく駒の足柄の山

と武人として東奔西走した生活も詠んでいる。

資料一 信長公記 「明智日向西国出陣の事」
五月廿五日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申侯。廿八日、西坊にて連歌興行、
発句惟任日向守。

ときは今天が下知る五月哉    光秀
水上まさる庭のまつ山      西坊
花落つる流れの末をせきとめて  紹巴


か様に、百韻仕り、神前に籠おき、五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。

資料二 常山紀談 「光秀愛宕山にて連歌のこと」

ときは今あめが下しる五月哉   光秀
水上まさる庭のなつ山      西坊
花落つるながれの末をせきとめて 紹巴


天正十年五月廿八日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。明智本姓土岐氏なれば、時と土岐とよみを通はして、天下を取の意を含めり。秀吉既に光秀を討て後、連歌を聞き大に怒て紹巴は呼、天が下しるといふ時は天下を奪ふの心あらはれたり。汝しらざるや、と責らる。紹巴、其發句は天が下なると候、と申。しからば懐紙を見よ、とて、愛宕山より取來て見るに、天か下しると書たり。紹巴涙を流して、是を見給へ。懐紙を削て天が下しると書換たる迹分明なり、と申す。みなげにも書きかねへぬ、とて秀吉罪をゆるされけり。江村鶴松筆把にてあめが下しると書きたれども、光秀討れて後紹巴密に西坊に心を合せて、削て又始のごとくあめが下しると書きたりけり。

年表  天正十年(一五八二)光秀五五歳

三月五日   信長の甲斐出陣に従い筒井・細川らと出発。
三月十一日  武田勝頼自刃  
四月二十一日 信長、甲斐より安土に凱旋
五月七日   信長、信孝に四国征伐を命ず。秀吉、備中高松城を囲む
五月十四日  信長より家康の饗応役を命じられる。
五月十七日  中国出陣を命じられ坂本に帰城。 
五月二十六日 坂本を発し丹波亀山に向かう。
五月二十八日 愛宕山に参詣し連歌会を催す。
六月二日   早暁、信長を本能寺に襲い、信忠を二条御所に囲む。夕刻、坂本に帰城。
六月四日   秀吉、毛利輝元と和議を結ぶ。
六月五日   光秀、安土城に入り、財宝を奪う。
六月九日   光秀、上京し銀子を禁中・諸寺に献上。鳥羽出陣
六月十三日  秀吉の軍勢と山崎で闘い惨敗。坂本に向かう途中、小栗栖で襲撃され討死。
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