歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について

2018-05-12 |  宗教 Religion
仏祖の座禅と菩薩道―道元最期の在家説法について
 
建長五年(一二五三)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
 
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
 
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。
 病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。
 晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。
 
道元禅には菩薩道の実践という意味があったことは、「傘松道詠」所収の次の和歌からもうかがわれる。
 
 愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
 草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
道元の師、如浄禅師もまた、「座禅の中において衆生を忘れないこと」一切の衆生を慈しみつつ座禅の功徳を廻向する」ことの大切さを説いている。
 
「いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の諸仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。」
(『宝慶記』ー入宋沙門道元自身が記録した如浄との問答記録ーによる)
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