はじめに
私は、「過程」の哲学ではなく、「歴程」の哲学という概念によって、ホワイトヘッドがその主著Process and Reality で展開したコスモロジーを批判的に継承することを心がけている。なぜ、「歴程」という語を使うか。
それは、ホワイトヘッドの哲学的コスモロジーの要諦は、米国のprocess theologian のいうprocess の概念によっても、またホワイトヘッド自身のいう「有機体の哲学」という概念によっても十分に良く表現されないと考えるからである。
たとえば、「有機体の哲学」という言葉では、個的実存の自律性・独立性というものが表現されず、常に個物が全体に従属するカテゴリーとなるという含意がある。しかし、ホワイトヘッドの云う活動的存在(actual entity)は、自己創造的であり、自己原因的である。すなわち、活動的存在は個物であり、真の意味で実存する物(res vera)なのであるから、決して「世界」を構成する一要素にすぎない物ではない。活動的存在は個的な実存として世界をうちに含むことによって世界をその都度超越する存在なのである。
Process theology でいうところのprocess の概念を、ホワイトヘッドの Process and Reality の原点にたちかえってもういちど批判的に吟味し、継承すべき優れた洞察が何であり、批判すべき点はなんであるかを再考する必要があろう。
「歴程」という語を私が使用する理由は、それが単なるコスモロジーだけではなく、我々の実存的な歴史をも表現することが出来るからである。いや、むしろ話は逆であって、個的実存を本質的に特徴づける歴史性が、人間のみならず、人間がそこにおいて存在する世界、そして諸々の世界の総体に他ならぬ宇宙そのもののもつ本質的な特性であるというべきかもしれない。コスモロジーと個的実存の思索の双方を射程に収め得る概念として、私は「歴程の哲学」という用語を使用したのである。
「歴程」には、日本語ではさらに別の含意がある。それは戦前と戦後を通じて日本の現代詩をになってきた詩誌の名前でもあった。草野心平、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉等が昭和10年に刊行したこの詩誌は、イデオロギーの拘束抜きで、個々の詩人の個性を重んじた詩的サークルを形成し、現在に至っている。そこで「歴程」ということばは、なによりも個々の人が経過した人生の軌跡、個人史を表すものであり、それぞれの詩人の実存の歴史にほかならない。
「過程」という日本語には、「歴程」とは違って、そのような個的実存の歴史を表すという含意がない。また、「過程」には、過ぎゆくもの、途上にあるものという意味が強すぎて、その都度完結し、作品として結実する生の航跡という意味が表されない。つまり「過程」は、その過程によって生み出された「作品」も、また「過程」において自己形成する作者自身を表現することが出来ないのである。
ホワイトヘッドがProcess という言葉を使うとき、それは、単に「途上にある」もの、「初めと終わりの中間」にある「過ぎゆくもの」を表しているのではない。Process は、實は、自己を形成し、創造し、自己の作品のなかにその都度、自己の存在の航跡を表現していく我々自身の生の歩みを一般化した語なのである。 我々は、みな、自己の生に於いては、脚本家であり、演出家であり、主役なのである。各人は、自己の歴程の主人公であるが、その主人公自身が、歴程において、他者と出会い、他者の世界を自己の世界へと内面化しつつ(抱握しつつ)、自らを他者に対して作品として与える存在なのである。
そういう自己創造のプロセスとその成果を現すのに「歴程」という日本語が最も相応しいのではないだろうか。 我々の世界の根柢を「ポイエーシスの世界」と呼び、作られたものから作るものへと動いていく創造的世界と捉えたのは西田幾多郎であるが、ホワイトヘッドの歴程の哲学の趣旨も、まさしく創造的世 界とその創造的要素である個物(actualentity)にほかならない。 それでは、かかるポイエーシス世界の構造は、のようにして哲学的に表現されるのか。単に藝術作品の創造という意味での狭い意味でのポイエーシスにとどまらず、実践(プラクシス)も理論(テオーリア)もすべて、そこにおいて表現されるべきポイエーシスの世界とは如何なるものであるのか-これが歴程の哲学の主題である。
「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天も地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。
西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が考察すべき課題は、我々のすまう世界が根源的に歴史に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、
存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。
「偶然性は「この場所」「この瞬間」における独立なる二元の邂逅として尖端の危うきに立って辺際なき無に臨むものである」とは九鬼周造の言葉であるが、この「無」を無限なる物に意味にとり、有限なる世界がそこにおいてある場所と了解するならば、それはまさに歴程の哲学の視点である。この場所・この瞬間に於ける個的実存こそが歴程の哲学の基礎である。個的実存は、つねにそれに対して、その都度、相対的な世界を有つ。個的実存は、その世界を前提として現成するが、世界の内に有るのではない。世界内存在というだけでは個的実存は規定されない。それは世界を内在させることによって、世界を超越する。個的実存は時に於いて生起するのではなく、それ自身が時である。
中央大学文学部哲学科の学部生でございます。いつも興味深く拝見させております。
「歴程」は自己創出的(いわば、オートポイエティック?)な、語として了解しても構いませんでしょうか?
また、この語は個体的な事象のみに偏ることなく、連帯性をも表現している、ということでしょうか?
宗教の思想など、問漢外で不躾な質問ですが、よろしくお願い致します。
>「歴程」は自己創出的(いわば、オートポイエティック?)な、語として了解しても構いませんでしょうか?
>また、この語は個体的な事象のみに偏ることなく、連帯性をも表現している、ということでしょうか?
自己創出的という場合、論者によっては、他者との連帯性を抽象して語りますが、私の場合は、個体性と連帯性は不可分です。
つまり、その都度の個的実存の「自己」は、かならず「他者」を含んで成立するというところがポイントです。個的実存は、その都度の他者の全体(現実世界)を内在させることによってそれを越える。そして創出された「自己」は、ひとつの客体(作品)として、新たな創造されたものとして、現実世界に与えられる。
内在的超越→超越的内在
のダイナミズムの全体が、その都度の自己と他者、個的実存と現実世界との関わりですね。
個体性と連帯性を不可分に語り読むことが非常に難解で苦戦してしまうのですが、頑張ってホワイトヘッドを読んでいこうと思っています。
創出した刹那、与件となるのですね。
内在的超越や超越的内在と聞くとドゥルーズを想起してしまうのですが、ドゥルーズにとってホワイトヘッドは非常に大きかったのでしょうか…恥ずかしながら(?)ドゥルーズからホワイトヘッドに入っていった者として、とても気になります。余談すいません。
田中先生のファンなので、お返事いただけて光栄です!!
今後とも陰ながら応援しております!!
共感いたします。
持続する瞬間を時間的原子論と理解してきたフォードたちの世代のプロセス神学的なホワイトヘッド解釈とは違った、新しい解釈の地平が開けていくような語ですね。出来事としての活動的存在の生成と消滅を、瞬間においてしか語れないという従来の解釈の偏狭さを突破して、たとえば、一人の人間の生涯をも持続する生成と消滅の出来事として、つまり歴程として捉えることができる。ローマ帝国の興亡も、星雲の誕生から消滅までも、多が一になり一つ増し加えられていく生成と消滅の出来事として語ることができるという解釈の地平です。それは、ホワイトヘッド自身がはっきりと示唆していたことであり、量子的な生起も、ひとりの人間の生涯も、生命の営みも、文明の歴史も、宇宙的エポックまでも、語りうるホワイトヘッド哲学の幅の広さを日本語のうちに見事に受け止めておられる点、感服いたします。
歴程の哲学において、悲哀、悲劇、悪を、そして熱意、満足、善、平安(平和)を、いかにして語るのか、宇宙の創造性と調和とをいかに整合的に語りうるのか、先生のこれからの考究に、強い期待と深い関心を抱いております。共感を籠めて、「歴程の哲学」という解釈の地平が開けていく場に、私自身も、私なりの立場で、参与したいと(おこがましいかぎりですが)思います。
私は、先日の日本ホワイトヘッド・プロセス学会のシンポジウムで先生がこの言葉を口にされたとき、バニヤンを思いました。天路ではなく、多なる現実世界の歴程を、先生に触発されつつ、私も考えてまいりたいと思います。
重複の多い乱文、失礼しました。