25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

プールサイド 村上春樹

2016年06月08日 | 文学 思想

その男は35歳まで完璧な生活を送ってきた。不動産で成功した父親をもち、水泳選手で活躍し、大学に入っても学業優秀。だれもが有名な企業に入るのだろうと思われていた。ところが教材販売会社に就職し、人を驚かせたが、彼はすべての学校や担当の教職員ともあい、営業成績を伸ばし、さらにはメインテナンスが必要な視聴覚教材を作りあげ、その会社を不動のものとした。彼は大企業の中で埋没してしまうよりも自分の能力を会社サイズでいかせる道を選んだのだ。30歳そこらで重役となった。給料も他の同期よりも多く、結婚もし、友人たちとも付き合い、外車も手に入れ何不足ない生活をしていた。

鏡で全身をくまなくチェックすると、若い頃に比べて筋肉のつき方、脂肪のつき方が変化している。水泳をしていた頃の体の貯金を就職して使い果たしてしまったことに愕然とする。彼は再び水泳をはじめ、虫歯の治療をし、時々体のチェックをする。背の筋肉脂肪や腹部の横の筋肉脂肪など、削るに難しい筋肉質脂肪が目につく。

 ある日、彼は人生の折り返し地点を35歳に決めようと決心した。別に38歳でも、40歳でもよかったのだが、彼は35歳を選択した。35歳からはこっちの世界。妻のいる30歳はあっちの世界。彼は涙を流した。

 これは村上春樹の「プールサイド」(短編集 回転木馬のデッドヒート文庫版)の僕の覚えているストーリーである。表現のしかたが違うのはご勘弁いただきたい。

 僕もいつの日から、たぶん30台後半だったように思う。ターンをしなければならない、とまでは彼のように思わなかったが、ターンがあることによって400メートルも1500メートルも泳げるのであり、人生のメリハリもあるというものだ。僕はいつしか「未来」とか、煎じ詰めれば、未来の究極である「死」からの視線を取り込んで生きる、という風になった。それはどうしようもなく押し寄せてくることで、親鸞の「還相=帰りのゾーン」を意識していたように思う。

 僕はプールサイドの彼ほどきちんとした人間ではなく、感受性も乏しいから、泣くまでのことはなく、「未来から現在を考える」ようになっていき、その視線の取り込みはとても自然で、とても大事なことではないかと思ってきた。つまり泣くことでもなかった。

 プールサイドの彼は、満足した結婚生活。恋人までできて楽しみ、ふと、24歳の彼女に性的に与えてあげられるまで成熟してしまったことにも気がつく。

 35歳以降に何をすればいいのかわからなくなる。

 回転木馬のデッドヒートを夜な夜なつまみ食いしてしまった。宮尾登美子の「菊亭八百善の人々」を読んでいる。あまりに長いので、休憩にと取り出して、再読してしまう。この頃、小説の読み方が違ってきたのに気づく。村上春樹は「才能アリ」である。

*この「回転木馬のデッドヒート」と、「レキシントンの幽霊」「東京奇譚集」「神のこどもはみな踊る」は優れた短編集である。村上春樹は短編集にいいものがあると僕は常日頃思っている。「レーダーホーゼン」「トニー滝谷」「プールサイド」。彼の奇譚収集癖はいたって文学的である。ぜひおすすめしたい。

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