芥川賞作家平野啓一郎の「かたちだけの愛」を読んでいる。読んでいるが、エンターメント小説を目指していないだけあって、思うことが多く、それに少々は買ってもらえるようにエンタメも工夫していれてあるようである。
美脚の女優が片足を交通事故で失ってしまう。その女優の復活のために、えもいわれぬ素敵な義足を作る話だ。
純文学というのはこういう隙間の特異な職業を取り出してきてしか、書けないのかと思うほどに、書かれた世界と僕らの世界は遠い。
純文学小説が売れなくなり、芥川賞をとっても、各種新人賞をとってもなかなか飯は食っていけない。古井由吉などは限りなく販売数ゼロに近いところまで徹底して純文学をやっているが、どうやって食っているのだろう。
純文学は戦後のさまざまな分野に分けられて、作家たる資質は映画や、脚本へ、漫画へ、テレビ構成作家へと散らばってしまった。純文学が掬い取れる現代社会。そんな難しいことを考えなくても映像やネットが映し出す。残念なことであり、復活を願うのであるが、書店を見れば、暗澹とした気になる。おそらくそういった純文学の沈みをケロリと吹き飛ばしてしまうのは村上春樹なのだろう。僕は主人公の性格は嫌いであるが。