僕らは普通3歳くらいの頃に胎児の頃からの記憶が一度リセットされるように無意識の闇に沈みん込んでいく。その無意識の記憶がどのような色合で、どんな音で、どんな模様をしているか、闇はどんな闇なのか。それが一度成長過程でこれも無意識に出てくる時期がある。思春期だと思える。このころに彼女はデビューした。普通の人が味わう青春を味わうことができず、電車の切符一枚買うこともできなかった、という。そして27歳で「アイーティスト生活」から「人間活動」へと休止宣言をした。
宇多田ヒカルは33歳になった。子供がいる。育児をすることで、乳児の頃、どんな風な子はどんなふるまいをし、どんな時に泣き、と自分の憶えていない3歳くらいまでのことを子育てをしながらいくらか確認できたそうだ。母親である藤圭子が死んでからいろいろなことを考えたのだろう。
彼女は音楽活動を再稼働した。新しいアルバムは日本や海外でも大人気だそうである。北欧の国のどこだったかヒットチャート一位であり、今のところアメリカでは六位である。出たばかりだからまだ上がっていくのかもしれない。
哀しげなトーンの宇多田ヒカルの声とその音楽は進化し、深化していることに我々は気がつくはずだ。おそらくアルバムの内面のテーマは「自分と母」である。語り尽くせない言葉よりも一束の花。孤独な道を歩いていても一人じゃない、あなたがいる・・・。切ないが音のとりあわせがよく、何度も聴いてしまう。「ともだち」という歌もよかった。「道」はやっと母を客観的に見えた彼女の越え方がわかるような気がした。
心理学を学んだというよりも自分で考えたのだと思う。それは糸井重里が聞き手になってくれて語った言葉からもわかる。
なんだか、ほとんどミュージシャンがぶっ飛ばされたような気がする。音の新しさ、コーラスの斬新さ、楽器の選び方、これまで誰もできなかったことをやってしまったと僕は思いながら、Songs の録画を何度も見ている。
もうひとつ、桑田佳祐。健在である。彼の魅力のひとつにオマージュがある。わかっている人なら笑ってしまうが、わからない人には、なんだこの歌はとなる、そんな歌も多い。ところが前川清風のオマージュでもやっぱり桑田佳祐である。桑田の才能は青春時代であった昭和の懐かしみをほどよく持っているが、宇多田ヒカルの場合は、昭和のカケラもない。そしてクラッシクでもないポップスがここまできたか、と驚いてしまうのである。詩も練りに練られている。こういうアーティストが出てきたことにびっくりだ。こういうとき世界はすごい、と思う。