25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

香華

2019年12月09日 | 映画
 3年ほど前に有吉佐和子の小説を結構読んで、中でも言葉の掛け合い、人間関係で痛快に面白かったのは「芝桜」と続編の「木瓜の花」である。「木瓜の花」は突出して面白い。おや、TSUTAYAのレンタルショップに「香華」という映画DVDがあるのを見つけた。「木瓜の花」を読んだあとに「香華」を読んだのだった。すさまじく勝手な母親で夫が死んでから娘を実家に置きっぱなしで、村の庄屋の息子と再婚する。この結婚生活にも飽いて、夫に東京に出て行こうとけしかけ、功を奏して、東京暮らしが始まるのである。小説の主人公は死んだ元夫との子で実家に置かれぱなしになった娘の須永朋子である。新しい夫にわがままばかり言い、夫は稼ぎもなく、実家からも援助をもらえず、結局、朋子を芸者屋に売り、朋子の母親もついでに公娼として売られることになる。この母親はついぞ反省をしたことがない。娘に悪いことをしたなどと思ってはいない。裁縫だけは上手であるが、兎に角銀座みたいなところが好きで万事楽しくやりたいという女である。

 そんなストーリーを思い出し、最後の小説のシーンを強烈に覚えていた。和歌の浦の友達の旅館から海の方を眺めて、「この和歌の浦の波は寄せる波はあっても返す波はない片男波・・・というのよ」(原文は覚えていない)人生もそうだ。寄せる波だけであり、返す波がない。親鸞はそうではないという。人生には往きと還りがあるという。そのことはともかく、これを映像で見てみようと思った。監督は木下恵介。音楽は木下忠司。前編と後編の2枚組である。3時間半。大正、昭和の建物、町並み、風景が現れる。ぼくが13歳になるくらいまでのぼくの知らない風景である。懐かしいような、珍しいような質感がある。

 母親役が音羽信子。娘の朋子役が岡田茉莉子、戦犯で絞首刑になる軍人は加藤剛。朋子の実家で下働きしていた少年が大人になったのが三木のり平。朋子の父が死に葬式をやっている最中に日露戦争勝利の報が届く。明治38年から映画は始まる。物語は昭和38、9年までである。朋子と知り合いの旅館の女将と片男波を見ているところで終わりである。

 ああ、そうだった。軍人を好きになって結婚を約束するが、男の親に反対された。その理由は母親が娼婦だったからだった。これは香華の中だったか。「紀の川」と「芝桜」や「木瓜の花」とこんがらがってきて、映画で再度確認するということになった。有吉佐和子の小説は「会話のやりとり」が面白い。ああ言えばこう言う。神経を逆なでするようなことを言えば次の日にはケロッと忘れている。木瓜の花の主人公の腐れ縁の女は「芝桜を咲かせる」のも、「木瓜の花の盆栽を育てる」のも才があった。香華のわがまま気ままで男好きな母親も「生地模様を見立て、それを縫って着物を作る」という才があった。憎たらしい女性とだけ描かれているわけではなかった。有吉佐和子はきっとけたたましい作家だったのではないか。そんなことも思った。

 和歌の浦へ行って「片男波」を見てみたいと思うが本当に返ることのない波はあるのだろうか。