25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

和歌の浦 片男波

2019年12月10日 | 映画
有吉佐和子の小説「香華」のラストシーンで、知り合いの旅館の女将さんが、二階の窓から外の海を見て、「和歌の浦の波は寄せる波はあっても返る波がないのよ・・・片男波っていうのよ」と言う。映画で、この波が見えるのを期待して見たのだったがその波は映されなくてがっかりした。和歌の浦に行って見てみたいものだ、とブログで書いたら、息子のお嫁さんのお父さんからメールがきて、

「カタヲナミ」の出所は、奈良初期の万葉歌人山部赤人の歌、「若の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(巻六919番)(訳:「和歌の浦に潮が満ちて干潟がなくなったので葦の生えた岸辺を指して鶴が鳴いて渡って行く」)から来ております。問題はこの歌の中の「潟を無み」の文法構造が、長い間(近世、たぶん明治時代まで)明らかにされなかったことにあります。人名や地名などの体言として理解されていたようです。だから和歌の浦に寄せる波になったり力士名(片男波)になったりしたのでしょう。しかし、正しくは、上の現代語訳からも分かるように、「***が・・・なので」と訳すべき副詞節であり、「をーみ構文」、または「み語法」と呼ばれています。万葉集には頻出します。だから和歌の浦へ行っても、片男波という波はありません。

と教えてくださった。ぼくらは義兄弟でもあるわけで、彼は兄貴だということになる。
 ぼくが干潟だったら波が寄せて水は吸い込まれていくのではないか、のような質問をさらにした。有吉佐和子はどこで寄せる波があり、返す波がないことをカタヲナミと知ったのだろうと思ったのだった。
 再度メールをいただいて、

 万葉集に、「浜辺に立って、海上から白々とよせ来る波が、足元に寄るとそこで行き所なく消えていく」という意味の歌(巻七1151)も確かにありますが、有吉佐和子のこの小説での会話では、ただ「片男波」という漢字の「片」にひかされて、寄せても返らない「片方向」の波というニュアンス(実際は返るが)で言われていると思いますが。

 干潟に水がなくなるのは、引き潮によって水が沖へ引いていくのであって、干潟に吸い込まれるということではないでしょう。

 とのこと。こういうやりとりに楽しさを感じる。しかし実際に海を眺めながら言う女将の言葉と「そう、カタヲナミ・・・」とつられたようにあいずちをうつ言葉はこれまで歩んできた人生を感じさせ、これからも寄せるように歩いていく主人公の姿にカタヲナミ=片男波で被せるのは見事だというしかないと思う。「笑っていいとも」でけたたましく出てきた有吉佐和子を思い出す。タモリが片男波をどこで知ったのか、何を意味するのか聞いてくれればよかったのに。