25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

共同幻想のこと

2019年12月13日 | 文学 思想
 ぼくが尊敬してやまない吉本隆明は「戦後思想の巨人」と呼ばれていた。借り物ではない「自前の思想」だとよく言っていた。大学生の頃から彼の著作を読み始めて、ずっと書物が刊行されるたびに楽しみに読んだ。ぼくが学生の頃、「試行」という雑誌を発行していたので、それも読んでいた。その雑誌の中で岡山の永瀬清子という詩人を知った。このブログのタイトルは永瀬さんの詩から取った。
 吉本隆明は死ぬ直前まで発言をした。伊豆の海でおそらく急に体が冷えたのだろう、水泳中に溺れた。救助され一命はとりとめ、また仕事に復帰した。テレビ番組「進め!電波少年」で突撃取材を受け、タライに顔を突っ込んで溺れる真似をしたとか、週刊誌で読んだことがあるが、ぼくはその番組を見ていなかった。そんなこともありながら、徐々に吉本隆明の身体は故障が多くなってきた。文体も変わってきた。十四歳の子供にもわかるような文をこころがけるようになったと思う。若いころの吉本隆明の文は難解だった。

 今、振り返って彼が書いた著作からぼくが日々考えるうえで典拠としているものは「共同幻想論」と「言語にとって美とは何か」である。特に「共同幻想論」は個人幻想、対幻想、共同幻想という観念の領域を「古事記」と「遠野物語」から考察していったのだった。共同幻想と個人幻想は相反してしまう。例えばバスケットボールのクラブに入っていて、土曜日も日曜日も練習があるとする。すると個人としては優勝するためにやろう、と自分に言い聞かせて土・日の練習に取り組む。別の者は日曜日に見たいものがあるから休んでしまえ、と考え、休んでしまう。共同幻想は「クラブ活動での優勝」である。個人幻想は個人の自由な幻想である。
 この個人幻想を重視して休む生徒が共同幻想を重視して休まないとなれば、そしてそれがクラブ員全員がそうなれば、共同幻想と個人幻想が重なり、クラブは強くなる。

 このことを国家に置き換えてみると、国家は共同幻想である。しかも権力という幻想を持ち、そこには実力部隊である警察がいる。ひとつ例に出す。尖閣列島を中国が取りに来たらどうするか。威勢のいい人は共同幻想と個人幻想を重ねて全面に出して、中国のを蹴散らせ、となる。尖閣なんて中国にあげたってどうってことないよ、と思っている人がいたとする。そういう意見をテレビ局は取り上げてはくれないだろう。テレビ局は大事件のように扱う。つまり国が侵略されたかのように報道することだろう。テレビは魔物なのである。今日幻想にも引っ張るときは引っ張る。個人幻想の題材も提供する。

 国家という強い共同幻想は幾分力を弱めていると思うが、島国である日本はユーラシア大陸ほどに、アメリカ大陸ほどに人種、民族の融合が多いとは思えない。するとまた「ナショナリズム」の強風が吹いてくるということになる。威勢のよい派は国家存亡の危機だと煽るだろう。きれいごと派はとにかく話し合いだ、と主張するだろう。共同幻想には風通しのよい穴を二つほど開けておけばよい。領土については歴史の時間をどこまで過去にもどすかで解釈が変わる。中国側は中国の都合に合わせて中国のもの、日本側は日本のものだったのだから日本のものと主張するだろう。
 この強力な共同幻想(自衛隊員の個人幻想の犠牲やこんなことで戦争するのは馬鹿らしいと各人が思う個人幻想を犠牲にしてまでの共同幻想という意味で)に対して「共同統治」という共同幻想でやりあっていくしかないことになる。

 天皇の継承のことでも、共同幻想と個人幻想が相反することも多々あるかもしれないのに、一致して重なってしまうとひどいことが起こる。これは戦前に日本列島人が経験したはずだ。
 この問題は解かれねばならない。意識にも上らなければならない。教室でも論議されなければならない。

 吉本隆明は人間のもつ共同幻想の成り立ちを考察することから次の世代にさらに深い論議を示唆したに違いない。2012年3月16日逝去。