エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

味覚を表現する二人の女流時代小説作家

2011年01月20日 | 日記
閑話休題
バンコクが続いたので、今日は話題を変えたいのである。

ハルキ文庫の時代小説文庫というカテゴリーの作品群はなかなかに面白いのである。
とりわけ、二人の女流作家は特筆する必要がある。

食に関する小説であり、加えて時代ものである。

その二人とは、高田 郁(かおる)であり、和田はつ子である。

高田女史は「みをつくし料理帖」
そして和田女史は「料理人季蔵捕物控」をハルキ文庫で上梓している。
どちらも、涎なくしては読み進めないのである。



高田女史の「みをつくし」は「澪つくし」であって、主人公も澪の名を持つ心優しい江戸時代の女性である。
涎もさることながら、涙なくしては読み進めない人の機微に触れる文章である。

出されているのは、まだ4冊だけれどぼくは一気に読んでしまった。
読み終わって「しまった!」
と思っている。
「老後の楽しみがさらに減ってしまった!」のである。
「ぬかったね!」

高田女史の小説は一篇に一つのメインディッシュがあり、その料理の感性に心血を注ぐ姿も描かれる。
なかなかスリルもあり、その料理が目の前に浮かんでくる気配も感じられる。



和田女史の捕物控は、少しばかり疲れる。
捕物であるから、推理が入り、加えて筋が複雑になるのはやむを得ないのである。
気楽に読み通すのは無理であるけれど、食の表現なりそのレシピに撞目するのである。

一篇の中に複数の料理が登場する。
目移りするほど楽しいのである。
しかも、その味覚を表現する力は相当なものがある。

日本の作家で食を文学として追求したのは「開高 健」「池波正太郎」である。
開高では「新しい天体」などは、垂涎の一冊である。
池波では「剣客商売」に登場する料理である。

どちらも現在の食卓でも色褪せない新鮮さであって、ぼくは真似をしてこうした両作家の示したレシピで食べたこともあった。

旨いのである。
それは食材に対する愛情が深いからなのである。

詩人・室生犀星は「たとえ鰯と言えども、かたち正しからざるものに鍋を貸すべからず!」と言った。
けだし至言である。








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                     荒野人