エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

雪の六義園

2010年02月21日 | 日記
今年の冬は暖冬傾向にあるのは間違いない。
そうであるけれど、降雪も異常に多いのである。

東京もその傾向にあって、昨日までの寒さは身に堪(こた)えた。



過ぐる降雪の日、ぼくは駒込駅から徒歩圏内の「六義園」に出かけた。
雪はまだ降り続いている。



久しぶりの場所である。
桜と紅葉の時期、年二回はここ六義園を訪なう。

雪の六義園は初めてである。

石碑の前に誰が作ったのか「雪うさぎ」が置いてあった。



風流な方がいるのだな!
と嬉しかった。
チャンと、南天の葉と赤い実が使われている。



雪が降る水場は、良いものである。
降りしきっている様は幽玄でもある。



この建物では、句会などが催される。
左隣には瀟洒(しょうしゃ)な茶室などもあって、異空間がうずくまっている。



六義園には立派な石灯篭も多い。
風景の中に納まっているのである。






にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ
にほんブログ村
                   荒野人

桜花(はな)へ!

2010年02月20日 | 日記
日本では花といえば桜の花を言うのである。
その昔「花が咲いたな!」と言えば桜の花が咲いたという事なのであった。

だから「桜花」と書いて「はな」と読むのである。
桜花=はなである。

桜だけは特別なのである。
「お花見」は桜にだけ許された物見遊山である。





           桜花(はな)へ



        桜花はいつだって
        季節限定で
        なければ
        人は魅入らない
        と
        誰が決めたのだ
        桜花はいつだって
        咲いて散る
        その作業を繰り返し
        あたかも
        それが任務であるかのように
        年毎に繰り返して
        飽きることが
        ない
        桜花がいつだって
        そうであるように
        耳目を集めて
        知らぬ間に
        散ってしまう
        樹の周りに渦を巻いて
        散ってしまう
        青春を散らす
        桜花は
        惜別の瞬時すら
        拒絶する
        自らの美学に殉じて
        潔さでうずくまることを
        知らない
        桜花の悲しく美しい倣(なら)いに
        森羅万象が
        号泣するとき
        桜花は
        満開となって
        花びらを吹雪(ふぶ)かせる
        花びらは散るのではない
        吹雪となって
        蘇(よみが)える
        桜花はいつだって
        人臣の奥部に
        美しき記憶となって
        刻まれる

        桜花は
        記憶の中に刻印され
        て
        悠久の岸辺に生きる
        桜花は吹雪の中で
        記憶の岸辺に生きる
        のだ





桜花一枝の美しさこそ、日本の美学の真髄である。
わび、さびは人の心の中の風景である。

と「喝破(かっぱ)」したい。





にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へにほんブログ村
                     荒野人

時ならぬ雪の中で咲く花たち

2010年02月19日 | 日記
昨夜からの雪は、朝方まで激しく降り続いたのだけれど雪が止むと同時に溶け始め、午後にはすっかり無くなってしまっている。

いま、もう道端にすら雪の残滓(ざんし)は望めないのである。



昨夜来の時ならぬ雪は、水分をより多めに含んでいたのであろう。
葉の上で、溶解して行っているのである。

今春を告げると言われる花々は、えも言われぬ存在感を示している。



マンサクである。
山野で最も早く咲き初める。



サンシュユである。
小さな毬のような喫櫓の花が着くのである。
なんとも可愛らしいのだ。



極めつけはロウバイである。
チンチョウゲ科の花であって、甘い香りを発するのだ。

マンサクとよく似ている花であるけれど、よく見ると似て非なる花であると分かる。



三椏(ミツマタ)の花である。
やはりチンチョウゲ科であり、嗅(か)ぐと甘い匂いがする。

色、形、匂いなど、春を告げて惜しまない花たちである。
ソメイヨシノの蕾はまだ固いけれど、カンザクラの花や、カワズザクラの花は満開に近い。

満開の花の中に、赤く頬を染め上げている蕾(つぼみ)は時間の進行を示していると言えるのである。



蕾(つぼみ)には未来がある。
これから咲く、若き生き物なのである。

満開の桜が午後6時の太陽なら、蕾(つぼみ)たちは午前8時の太陽なのである。

今日の桜はカワズザクラと、カンサクラである。



カワズザクラである。
空を区切るように咲く花には、正に桜色のオーラがあって見る者を魅了する。



カンサクラである。
真ん中あたりで「ヒヨドリ」が花の蜜を吸っている。



相方が、この角度で写真を撮れ!と催促する。
裸の枝を晒(さら)している冬の木々を背景にして、どっこい咲いている!
そんな生命力をこの構図の中に見つけたのだろうか。

花の好きな相方である。
ぼくは心の中で相方に伝えた。
「この花よりもきみの方が魅力的だよ!」と。





にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へにほんブログ村
                荒野人

中国ニーハオ便所はいま・・・

2010年02月18日 | 旅行
かつて中国の最も恥部であった「厠所(チョースォ)」。
便所であるけれど、今はどうなっているのか?
といった質問が未だに囁(ささや)かれている。

中国の名誉のために、いまや少なくとも都市部ではニーハオ便所はなくなりつつある!と知らせたいのである。



公衆電話の左横の白壁が公衆便所である。
中に入ると・・・。



こうなっている。
足元滑るので注意せよ!と書かれている。

便器はこんな感じで清潔感が漂っているのである。



良く清掃されている。
もっともここは観光地であるからなのだけれど、それにしてもぼくが中国を最初に訪問したときに比べると隔世の感があるのだ。

確かに、7~8年前までは「ニーハオ便所」が殆どであった。
「雲古」をするとき、隣同士で挨拶が出来るから「ニーハオ便所」なのである。
仕切りは無いし、無論のこと個室になっていないのである。
仕切りがもし有ったとしても、精々腰の高さまでだったものだ。

例えば、中国の中央官庁のビルで便所に行った事がある。
ぼくは、小水であった。
用を足して、振り向いたトタン腰を抜かすほど驚いたのである。
ドアーを開けっ放しで「雲古」をする職員が、ぼくを見てニコニコしていたのである。

言ってみれば、ドアーは必要なかった時代であったし、ドアーを閉めて「雲古」をする習慣も無かったのである。

さて、ニーハオ便所である。
顔を見合わせながら「雲古」をするのは、あまり気分の良いものではない。

極端の場合は、一本の水路が刻まれていて、そこを跨(また)いで「雲古」をする便所もあった。
すると、お隣ではなく前後で人々が「雲古」をしているのである。
自分のお尻が無防備になったままなのである。

刻まれた水路には、時々水が流れる。
「雲古」を流すのである。



今は、手洗いも清潔感溢れるスペースになっている。
人が清潔感を感じるのは「無駄なスペース」の充実が大切であると自覚したのである。
その結果が、こうした公衆便所の充実なのである。

もちろん、オリンピック開催で国際的感性が磨かれた結果でもあろう。

外国人がニーハオ便所を経験出来ないに違いないのであるけれど、田舎に行けばきっと存在しているであろう。
かつての、こうした施設が懐かしく思い起こされるのである。

少なくても、楽しい中国がそこにあった。
大分臭かったけれど・・・。

今日は少しばかり「お下劣」な話で恐縮であった。
ご飯が不味くなったらお許しいただきたいものである。



にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へにほんブログ村
                     荒野人

雨に歌えば!

2010年02月17日 | 日記
今日は寒い!
寒くてたまりませんね。

二日前、河津桜を見た日の暖かい雨は何だったのだろうか。
しかも河津川沿いでの花見であったのだけれど・・。



思わず口をついた歌。
「花はどこへ行った」である。

サイネリアが寒さに凍えている。





          花への思い


        花が自然に発色している
        その色に
        自然の偉大さをみるのだ
        色は時として
        魂を揺さぶり
        大地に揺れ落ちる
        揺れ落ちると
        大地はその色に染まり
        花と同化する

        花は同化することで
        大地に生きつづけるという

        その神話は
        暖かい雨でもたらされ
        フローラが産まれた

        雨は神の誕生を促す
        精神の昂ぶりであるのか
        それとも
        人の魂の根源に降り続ける
        風景の一部であるのか

        暖かい雨が
        冷たい雨に還る時こそ
        その答えを示す舞台である






花は凍えているけれど、ぼくの内なる花は輝いている。



にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へにほんブログ村
                     荒野人